怪人の紅 皇帝の青

 老眼が進んで、しょっちゅう眼鏡をかけたり外したり。これがまことに煩わしいので遠近両用の眼鏡を作った。これでもう少しは本が読めるようになるかしらん。一週間後が愉しみである。


 三宮に出たついで、とスマートフォンの機種変更にも行ったところ、三時間もかかって疲労困憊。一日のうちにあれだけ自分の名前を書かされたのは生まれてはじめてである。県立美術館の『アドルフ・ヴェルフリ展』を見に行くつもりだったけど、とても開館時間内に行けそうにない。どこかに食べに行く気力も喪失し、よろよろと家に帰る。まあ、重大な情報を抱えた機械だから、手続きが多少煩瑣になるくらいは辛抱するとして、そもそも作業動線や職務分担・引き継ぎのあり方があまりに拙劣すぎるために、無駄な時間が出るんだと思いますよ、三宮のヤマダさん。


 ヴェルフリ展に行けなかった代わりという訳ではないけど、週末は美術館のはしごをした。大阪に出る機会もそう多くないので、出た日はどうしても欲張ってしまう。


 一館目?一展目?は中之島国立国際美術館。『クラーナハ展』である。これだけの規模でこの画家の展覧会が開かれるのは初めてらしい。


 元々さほど関心のある画家ではなかったものの、裸婦像のいくつかくらいは見覚えている。今回はじめて実物をとっくりと見て大分印象が変わった。やはり絵は直に見なきゃね。


 結論からいうと、「この画家、かなりヤバいやつちゃうやろか」。


 裸婦像の肌の真珠のようにつややかなマティエール、というイメージは間違っていなかったが、女たちの視線が悪魔的diabolicで、そのくせ妙に嗜虐欲をそそるような按配で、どうも落ち着いて観られないのですね。ええ、一番有名な『ホロフェルネスの首を切り落としたユディト』にしても、一見あれだけファム・ファタル的な図柄でありながら、サド侯爵的衝動を引き起こすような描き方なんです。これはわたしにそーゆー性癖があるのではなく、画家の視線が淫猥で執拗であることに由来するのだと思う。


 でなければ、ヴィーナスを描いてもユディトを描いてもマリアを描いても、いつもあの顔になってしまうはずがない。「あの顔」というのは剥き玉子のようなところに淡い眉が嫋々とたなびき(と形容したくなる)、うす色の瞳はかすかにアンバランスな細い目に象られ、ここだけやけに目立つ紅い唇(これも眉の如く細い)、という道具立てのことです。


 たしか『城の中の城』だったと思いますが、主人公の夫が手を付けた料理人の女性の風貌を述べるのに、「クラナッハ風」ということばが使われていました。これは賛辞ではありません。その正反対で、ひどく汚らしく不健全な雰囲気というニュアンスだったはず。その時は悪意の滴るような描写を、いかにも倉橋由美子らしいと面白がっただけでしたが、今回絵をまとめて見て、これはかなり正確な観察だったな、とへんなところで感心する。


 それでも大嫌いで二度と見たくないか、というと不思議にも図録を買ってしまったのである。鮒寿司やくさやの臭気がやみつきになるのと同じような精神の生理がはたらくのだ、と自分で分析してみる。だからこそあの好色なピカソクラーナハの絵を何度も何度も写しては自分流に描き直しているんでしょうね。


 ルターの、多分一等有名だと思う肖像画(右を向いて、黒く平たい帽子をかぶっている)を描いてたのもクラナーハだったんですな。知らなかった。一体にこの助平爺は、新教に心情的に好感を抱いていたらしく、このルターとか、ルターを神聖ローマ皇帝から匿ったザクセン選帝侯とかの肖像となると、diabolicな趣が急に影をひそめる気配である。


 これは鯨馬ひとりの感想ではなかったんじゃないか。たとえばルーベンスやモネの展覧会とは違って、周囲の見物客がどことなく「綺麗と言えば綺麗なのだが・・・」と戸惑っている按配だったのが可笑しかった。


 さて二つ目は東洋陶磁美術館。『台北 國立故宮博物院北宋汝窯青磁水仙盆』である。たまたまこの順番になったのだが、結果的にはこちらが《口直し》的な役目を果たしてくれて丁度良かった。元々贔屓のミュゼで、好きな理由のひとつが客の少なさにあった。それがこの日はたじろぐ程の大盛況。まあね、「人類史上最高のやきもの」なんて宣伝したらやはり集まるわな。もっとも「人類史上最高」かどうかはともかく、汝窯の磁器がこれだけ見られることもそうそうないだろう。それに今回の展示は水仙盆ばかりを集めているということで、釉薬の微妙な発色の違いをじっくり味わうことが出来る。混んでるっていっても、週末であんなものだったから、のんびり見て回る余裕は充分ありますよ。フェルメールやらルノワールやらの「泰西美術名品展」(懐かしいひびき)とは比べものにならない。


 というわけで時間をかけて見比べていた。青磁と聞いて浮かぶ、他人行儀な冷ややかさの感じられない所が名品たる所以か。ことに外側の面が薄くあぶら、それも獣脂ではなく魚、たとえばよく肥えた鯛の造り身の切り口に輝く虹色のあぶらのような、それを刷いた如くとろっと光を放っている。なで回したら絖のような触感なんちゃうかしら。


 だから「天青」の色とはいっても、やはり地中海地方の空の非人間的なまでの青さではなく、どうあっても驟雨一過した後の空の色でなくてはならないのである。つまり潤いがある。


 乾隆珍襲のこの傑作を玩賞しているうちに、悪癖が出た(万引きではない)。どんな料理を盛り付けたら映えるか、とかなり《真剣な空想》に耽ってしまうのです(だから料理の盛りようのない形の花器などには関心が無い)。河豚や虎魚の薄造りはちと陳腐か。干口子と木耳を使った白和えならどうか。いっそ雉や山鳩を炙ったのに赤ワインと八丁味噌でつくったソースを掛け回すくらいの思い切りが必要なのではないか・・・などとひとしきりはしゃいでおりました、


 熱くなったアタマを冷ますために、水仙盆の部屋を出て常設・特集展を回る。高麗・李朝青磁白磁を見るとなんとなく落ち着く。いくら柔らかい肌合いとはいえ、やはり朝鮮の器に比べると、汝窯はよく言えば端厳、悪く言えば気取りがきつすぎて、見ていて少なからずくたびれる。


 日本陶磁の室に入るといよいよその感は強まる。中国朝鮮日本を真行草の三態に喩えるのは、既に誰かがやっているだろうが、ごく自然な発想だろう。


 一つ例を挙げるなら織部の舟形向。なりといい緑釉の掛け方といい、斬新で放胆。織部を好む鯨馬のような人間にとってさえ、しかし、この行き方がしどけなさや野鄙とぎりぎりの所で遊んでいるような危うさを感じさせるのもまた事実なのである。


 日本文化が一般に非対称性や未完成の趣を好むとはよく指摘される。文化とは「昔からそういうもの」であって淵源を訊ねるのは無意味に似るのかもしれないが、この傾向が果たして真実どこまで「一般」なのか、仮にそうでないとしたらそれはどこからまた何故に、ということが気になる。ここ数年、折に触れてはそういうことを考える。でも性疎放懶惰にしてなかなか旨く説明出来るまで考え抜けていない。


 ま、取りあえず口子と木耳の白和えで一杯やるか(それがいかんのだ)。


 本の話はまた来月に。明日から三月なのだが。
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牛と蛸と美少年

 職場菜園の青ネギが大豊作。で、家で鴨すきをした。清酒と薄口醤油の割り下にちょっぴり蜂蜜を落とす。卵は用いず、柚子をしぼったり針柚子をのせたり粉山椒をふったりして愉しむ。翌日は鴨のあぶらと肉汁がこびりついた鍋でうどんを炒める。


 一人で抱き身一枚はえらく食べでのあるもので、鴨もすき焼きもこりゃ当分は要らんわな、と思っていたところ、またもやすき焼きを食べることになった。


 ずいぶん奢っているようだが、自分でやったわけではない。『いたぎ家』が誘ってくださったのである。なんでも某料理人が「ホンマに旨い牛肉を食べさせてあげる」と差配してくれ、鯨馬もそのご相伴にあずかったというわけ。


 『バンブー』の竹中さんが(あ、名前書いてしまった)肉を焼いてくれたのだが、当方の如きずぶの素人が見ると目をむくぐらい砂糖をふりかけるのである。醤油はちょっぴり。そして肉はしっかり焼く。そんな罰当たりなことをして・・と心配になるほど、綺麗な極上等の肉である。


 まさか、と思いつつ口にするとこれが旨いのですな。魔法にかけられたような気分でありました。『いたぎ家』営業終了後からの開宴だったため、夜中三時過ぎまで「むう」と唸りつつ食べていた。言うまでもなく食べ物や酒の話で盛り上がりながら、ビールや燗酒をくいくい流し込む。


 翌日、魔法が解けた。昼過ぎに起きると猛烈な胃もたれ。太田胃散を大量にのむ。無論竹中さんの所為でも牛の罪過でもなく、四十男の胃袋の脆弱性に問題がある。はて、そう言えば竹中さんも年はそう変わらないはずだが、大丈夫だったのかしらん。


 昼すぎに向かったのは神戸市立博物館の古代ギリシャ展。空前の規模とかなんとか惹句にあったと思うが、ま、点数はともかく近頃ずいぶん見応えのある展覧会だった。なにしろクレタ文明からヘレニズムまで、要するにギリシャの古代史全部をぎゅっと詰め込んだという展示なのである。


 個人的にはクレタ文明のところがいちばん面白く見物できたな。クレタというところは、中心となる宮殿がミノタウロス(半人半牛の怪物)の棲むラビリントスと目されたくらいで、牡牛の信仰が盛んな土地だった(若者が牛を飛び越えるという儀式もあったらしい)。当然出展品にも牡牛を象ったものが多い。素朴な粘土製のものも精緻な青銅細工もとりどりに見てて飽きないが、面白いのはそれらが犠牲獣の代わりに用いられて、時には破壊されたという説明。


 そうだろうな、あんな可愛らしい動物を殺すなんてしのびないもんな。と納得する。


 エピテートンというものがあります。言ってみれば本朝の枕詞で、特定の名詞を修飾する定型的な言い回しのこと。「眼光輝くアテネ」とか「狡知に長けたオデュッセウス」とか。その中に「牛の眼をしたヘラ」というエピテートンがある。ヘラは大神ゼウスの妃神。ヘラの大地母神的性格を示すという説など色いろで、由来は結局分からないらしいのですが、『イーリアス』を読んでこの形容に出会った時、直観的に「ははん、ヘラの美しさを讃えたことばだな」と思った。牛の眼って大きくて黒く濡れていて、いかにもうつくしいから。女神を形容するのに家畜を持ってくるというところでどきっとさせられますが、古代人にとってはごく自然な心の動きだったはず。


 なんの話だっけ? そう、クレタの牛。我々よりはるかにこの草食獣と親しんでいた人々が、可愛さのあまりに代替物をこしらえるのは実にもっともなことだと頷く一方で、牛を犠牲に捧げた後は当然神との共食という名目で饗宴が開かれただろうから、あんなに美味い肉の味をおぼえた人間が、せっかくのご馳走にありつける機会をふいにするはずもないなあ、と思い返したりする。もちろん昨晩のすき焼きの味を思い出しているのです。歴史の解釈というのはかくの如く難しい。


 牡牛の他に海洋的性格が強いというのもクレタ文明の特徴。海洋的性格、なんていうとややこしく聞こえますが、要するに壺や甕に描く紋様に、海洋生物のモチーフが多いということ。これがすばらしい。


 感銘の半分は文学的なもので、引きしまったイルカの形姿を眺めていれば西脇順三郎の世界が揺らぎ出るのはごく自然な成り行きだし、蛸のモチーフからは吉岡実サフラン摘み』(現代詩屈指の名品)の一節がひびいてくる。もう半分は、純粋に造形にうっとりした。蛸なんか、普段からよく観察してるんだろうなあという形の妙。そのくせやっぱり蛸ですから、どことなくユーモラスな趣があるのもよろしい。


 牛と違って愛玩していたわけではないだろうけど。


 古典期の彫刻は面白くないわけではなかったけど、クレタのほうが上だな。最後のヘレニズムの部屋に入ると尚更具合が悪い。どれも妙にリアルであくどくて、一言で言えば品格が低い。誰やらが「悪しき人間主義の亡霊」と評していたのはこういう傾向であるか、とある意味めっけもんだったと思いながら見て回り、会場を出ようとした最後のところに尤物が控えてました。伏し目がちな美少年の胸像。


 性的嗜好を告白してるんじゃないよ。この像のモデルとなったのはアンティノウス。注釈しておくと、ローマ帝国最盛期の皇帝ハドリアヌス(いわゆる五賢帝の一人)の愛人だった少年。ナイル川で事故により溺死。悲嘆に沈む皇帝は、アンティノウスを神格化し、アンティノエという都市まで建設したほど。世界史上もっとも豪奢な追悼のひとつではないか。


 もっとも鯨馬がローマ史に詳しいわけではなく、これまでの情報はすべてユルスナルの歴史小説ハドリアヌス帝の回想』によるもの。読まないと人生で大損したことになるような名作ですよ。詩人多田智満子の訳文は、神品とも称すべき出来栄え。そういえば多田さんもたいへんなギリシャ贔屓だったよなあ。


 ともあれ、一時この小説にずいぶん入れあげていた人間としてはアンティノウスの像は見逃せないものだったのです。彫刻としても出来がいいんじゃないかな。と書くとさっきヘレニズム期の作品をくさしたのと矛盾するようですが、なにせモデルは半分神様みたいな存在だし、顔の造作もだいぶん欠け落ちているため、へんに生々しいところがいい具合に薄らいでいるのである。「少し不満げな(きかん気、だったか)頤の線と思い詰めたような瞳のいろ」だったか、正確には憶えていないが、そんな風な特徴は良く出ている(というよりこの彫像を見てユルスナルが書いたのでしょうが)。ウィキペディアの画像では少し輪郭がきつく見えますが、実物はもっと陰翳に富んでいる。蛸の壺とアンティノウスの絵葉書が無いかと探してみたが、なかった。


 夕景になって、まだ少し重い胃を抱えたまま、三宮の鉄板焼き屋へと向かう。こんな調子で鉄板焼きなぞの食べたかろうはずはないので(いや空腹時でも選ばんか)、張龍が「久々に鉄板焼きでビールを呑みたい」というのに付き合ったまでのこと。


 というつもりでしたが、悪くない店で、後半は張龍よりもよく食ったくらいであった。メニューの中に「蛸のバター焼き」なるものがあったので、なんとなく嬉しくなって注文してしまう。ここらへん、精神の動き方は複雑にして微妙。ぷりぷりした美味い蛸でした。


 さすがに「佐賀牛300グラム」は頼まなかった。


 その後も当然飲み歩いていたのでしたが、最後の店で張龍が突然、こわれた。靴も靴下も脱いで床にひっくり返ってしまい、駄々っ子のようにばたばたしておる。たしか張龍には七つの肝臓があったはずじゃが・・・たった六軒くらいで乱酔するとは、こやつももうオッサンということか(三十二才)、無常迅速秋の風。悵然となって四十三のオッサンが家までかついでいく。嗚呼人生。
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狐が鼻をつまむ

テリー・イーグルトン『悪とはなにか  テロ、大量殺戮、無差別殺人-理性を超えた「人間の罪業」を解き明かす』(前田和男訳、ビジネス社)

悪とはなにか

悪とはなにか


 《混迷を深める》が枕詞のようにくっついてくる「現代世界」。そこに、イーグルトンがこういう本を出したのだから、つい読んでみたくもなるというものではないですか。


 勢い込んで手にはとったが、しかし、読み終えるのには一苦労した。第一に、訳文がひどい。

*「アイルランドの偉大な哲学者であるビショップ・バークレー」・・・誰やねん、それ! バークリー主教なら知ってるけど。
*「現代の哲学者であるフレドリック・ニーチェ」・・・ニーチェはイギリス人かいっ!(後のほうになると「フリードリッヒ」になってる)
*「アイルランドの哲学者エドムント・バーク」・・・バークはドイツ人かいっ!
*「神学者のカール・バース」・・・阪神の助っ人かいっ!


 ペダンティックな揚げ足取りではない。こういう表記を平然と並べられる人間が、まともに内容を理解して訳しているのか、という疑念が生じるのはごく自然な反応だろう。あるページには「現代芸術」に「モダニストアート」とルビがふってあって、まあこれは一応許容するとしても(一応、と言うのは、イーグルトンが「ボードレールからイエーツまで」と挙げて形容している以上、「モダニズムの芸術家たちの作品」ととるのが適当だと思うからだが)、なんとすぐ次のページには「モダニスト芸術」なる訳語が出てくるのである。アタマをひねって概念の違いを考えてみたが、鯨馬にはさっぱり分からない。


 これ以外にも、文意のとり難い箇所や、そもそも日本語の構文/語法として成立しない箇所が頻出し、《知的虚弱児》には、到底気に留めず読み進められる代物ではなかった。本書(の原書)に大いに「触発」されて『悪の力』を書いた(と訳者あとがきにある)姜
尚中が推薦文を書いており、「訳文碌に見もしないで推薦文書いたんじゃないの、姜東大名誉教授(と推薦文に自ら記している)!」と、推薦者の見識を一瞬疑ったけれど、よくよく読んでみると、みじかい文章の末尾に「イーグルトンの著作の中でも難解な本書の邦訳に挑戦した訳者に敬意を表したい」とあるのですな。ははあ、こういう逃げ方もあるわけか、と変に感歎してしまった。


 ここまで苛々させられるのなら、Amazonで原書をぽちっ。とすればいいようなものだが、そういう気も起こらなかったのは、イーグルトンの論理自体にあまり納得できなかったからである。


 イーグルトンははじめに「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」と言う。そして「ポストモダンのカルチャーは、食屍鬼や吸血鬼には魅せられながらも、悪魔については語るべきものをもっていない。(中略)ポストモダニズムにとって罪を贖うべきものは何もないのだ」(「贖うべき罪は何もない」の誤訳か?)と啖呵を切る。ははあ、《物語》消失後の、優雅にして平板な消費社会(某氏のいうところとは違うだろうが、「動物化」した人間集団)において、深刻な悪の意識は生まれにくく、全ては「カルチャー」上の戯れになってしまうわけだ・・・と考えながら読み進めると、果たして「人間=水平的に超越/悪魔=垂直的に超越」という表現が出てくる。こういうところの表現の切れ味はさすが『アメリカ的、イギリス的』の著者だなあ、と感心する。


 それはともかく、マルクス主義イーグルトンが、水平に超越する、つまり現実の歴史=社会と政治のうねりにコミットしつつ歴史を乗り越えていくのが人間というものである/であるべきだ、と主張するのはよく分かる。だとすれば、「垂直的に超越」とは、社会的背景・心理的理由等々の地平から隔絶した、それこそ神学的乃至形而上的なあらわれであるしかないわけだ。実際、オブライエンの『第三の警官』という一代の奇書を分析しつつ、シェリングの議論を援用して、悪とは「善をはるかに超える霊的なもので、物質的実在を忌み嫌う」存在だと定義する。


 しかし冒頭で認めるように、「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」のであるからには、理解しがたいこの悪(魔)といかに対峙するか/対峙は可能なのか、と手に汗握る思いで議論の行方を注視したくなるのは当然でしょう。少なくともブログ子は、テリー孫行者が、自ら組み上げたお釈迦様の掌の上でキリキリ舞いする奇観を予想して胸が高鳴った。どの道こんな大問題に結論の出ようわけはないのだから、“必死のパッチ”で如意棒を振り回す、その手振りに「考へるヒント」あるいは生きてゆくことへの慰めを見出そうとしたわけである。


 ところが、イーグルのダンナ、ここに至ってなぜかトーンダウンしてしまうんですね。それも闘う相手の強大さに意気消沈するという意味ではなく、相手を矮小化してしまうという意味で。



  悪魔は圧倒的な非現実、驚くほどのまがい物、意味の破壊、重要な次元の欠落、退屈きわまりない単調な繰り返し



 「圧倒的」という措辞は見られるものの、これでは単にポストモダン的状況への悪罵ともとられかねない口ぶりである。またマンの『ファウストゥス博士』を取り上げて言う。悪魔は破壊を好む、それは創造主たる神の御業を貶めるための唯一の手段だからである、だが、破壊は存在を前提とするがゆえに、永遠に悪は敗北せざるを得ない地位におかれているのだ・・・。


 最終章で弁神論の欺瞞を鋭く攻撃しているイーグルトンが口にするには、これはあまりに放胆な断定ではないか。そもそも悪魔を形容して「非」現実・「まがい」・「破壊」とする点がクサイ。クサイというのは神学的口吻の響きが感じ取られるということだ。悪を欠如態としてとらえたのはかのアウグスティヌスであった(本書でも言及される)。これはキリスト教的思考に特有の、いわば「体臭」のようなものか。うろ覚えで引用するのだが、批評家川村二郎が、ホフマンスタールを論じた文章の中で、地獄を指して「強烈に現実的」と形容していた筈である。鯨馬はこの指摘の方に、によりリアルな悪/地獄の本質を見て取れるように思う。


 イーグルトンの提出する命題をもう一つ。


  悪魔は、宗教原理主義者と同じで、大昔の素朴な文明社会における懐古物の一つであり、(中略)その意味では悪魔は現代におけるモラルの低下に対する抗議ともとれる。悪魔とは現代人を好ましくないと見る高踏な復古主義者である。



 イーグルトンが「宗教原理主義者」らの抱くノスタルジーに肩入れしていると勘違いする粗忽者は、まさかいないだろうが、さるにても悪魔がえらく「分かりやすい」存在になっている感は否めない。もちろん、犀利なテリーはそのことにはとっくに気がついていて(いるのかな?)、引用に続く部分では「より正確に言えば、誰もが好きなのは愛すべき悪党であろう。われわれは権力を馬鹿にする人には惹かれるが、強姦や企業ぐるみの詐欺はよしとしない。サヴォイホテルの倉庫から塩を盗む人には密やかな共感をよせるが、人々を八つ裂きにするイスラム原理主義者にはそうはならない」と補足し、その上でポストモダンの世界における「破戒」《ごっこ》(というのは評者の形容)を、「疲弊した感性」と再び切り捨てる。この評価に同じる人でさえ、悪そのものの本質および存在については何だかはぐらかされたような気がするに違いない。「そもそも悪魔は…退屈きわまりない存在」である、「ある種の現代アートのように外形は整っているが内実がない」。


 これこそ内実がない議論ではないか。それとも、今思い浮かんだのだが、ひょっとすると悪魔とは、薄っぺらで平板きわまりない姿態にさえも自在に変貌して人々を退屈な消費へと追いやる老獪なシステムのことを言うのかしら?「憂鬱」ないし「怠惰」は七つの大罪の内に数えられていたはずだ。


 ドーキンスの白痴的楽天進歩主義をこきおろすイーグルトン。そのイーグルトンは最後にどう言っているか。



われわれが気をつけるべきなのは、大部分は昔ながらの利己主義と強欲であって、悪魔ではない。(中略)すなわち、もっとも邪悪なふるまいも制度上引き起こされるものなのだ。


フロイト主義をはじめ、どんなに強固で確固とした政治的変革を成し遂げても人間のもつ多くの醜悪さを消し去ることはできないとする見方は山ほどある。そうした政治の限界を自覚することが真の唯物主義であり、そこには唯物的な種であるわれわれも深く関係していると自覚することも含まれる。それでも過激派(引用者注。訳書ではこの語には「ラディカル」とルビが振られる)は、大多数の人民にとって生活は簡単に良くすることはできると主張する。それは単なる政治的現実主義にすぎない。


 反駁する心づもりは全く無いが、しかしそれならばはじめから『政治的現実主義について』という本を書くべきであった。あるいは『悪の凡庸さについて』と、題名をあの本から借用すべきであった。読み終えた後、威勢のいいイーグルトンの背後で、「蝿の王」だか「堕ちたる明星」だか「否定する霊」だかの嘲笑が響いたのをたしかに聴いたようである。

 それにしても、イーグルトンってスコットランド出身だったっけ?


 従って今回は「双魚書房通信」扱いとせず。


 さて今日は初午。若菜の辛子和え、煮染め、小豆めし(赤飯に非ず)に子ネズミの天ぷら・・・はいけませんな、甘鯛の唐揚げかなんかで一杯やることにしましょう。


 結局、甘鯛の代わりに浅蜊と若布の揚げ真蒸となった。
↓↓↓


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立春大吉

 知らないうちに孫が生まれていた。


 若い者同士で狭いとこに閉じ込めていたこちらに落ち度はあると申せ、こともあろうに武士の家にて不義、親の大恩忘れし淫奔【いたずら】は畜生も同然、天罰喰らふが道理ぢや、と擲り出してしまえば「袖萩祭文」となるが、この寒空に三人叩き出すのもあまりに情けのない仕打ち(熱帯生まれですし)、と思い返して育てることにした。


 このちいちゃいのがぴょこぴょこ跳ね回るのがなんとも可愛らしいのですね。オォよしよし、といつまでも愛でていたくなる。コリオと命名。性別は分かりませんけど。


 コリドラスとは別の、一二〇センチの水槽はLED照明に切り替えた。タイマー装備できちんと点灯消灯が出来るのも便利だし、何より水色がうつくしい。コリオ誕生とも相俟って、夜や週末に繰り出すことがつい少なくなる。もう寒も明けてはしまったものの、あとしばらくは冬ごもり。山家だよりのつもりに。


 そうだ、寒も終いの頃のある日の献立。上戸の一人所帯だからあんまり応用は効きません、悪しからず。

針烏賊と新海苔の二杯酢
☆青柳のハシラと新海苔のかき揚げ
☆青柳の身と芹の胡麻酢
☆新若布とのれそれの辛子みそ・・・つまりぬた。何せこの時季は新若布が美味い。以上の品で呑んでから、無いことに飯にした。若布と滑子の雑炊。うんと薄味にして、天に柚をおろしかける。これが大成功で、料理が上手く出来た時の吉例で、ひとしきり蕃族踊りをウホウホ♬と踊ってから平らげたのであった。
※只今政治的に不適切な発言がございましたことをお詫びします。

○高儀進編訳『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』(白水社)…個人的には「アザニア島事件」かな。かの傑作『黒いいたづら』の、今ふうに言えばスピン・オフ作品。登場人物のほぼ全員が胡散臭い。そうして唯一いかがわしくない人間がいちばん愚かしく見えるという逆説。しかしやっぱり長篇がいいね。ウォーの暢達な語り口は短篇にはもう一つ溶け合わないように思う。でも、読んで損はしませんよ。
岡田温司『天使とは何か キューピッド、キリスト、悪魔』(中公新書)…天使って結局のところ、折口信夫が言う、古代世界に跳梁する「小さな庶霊(モノ)」なんじゃないか。熾天使智天使の形状なんて、成心無き眼には化け物にしか見えない。
○加藤磨珠枝・益田朋幸『キリスト教美術の誕生とビザンティン世界』(「西洋美術の歴史」2、中央公論新社)…と、本書を読みながら考えた。たとえば『受胎告知』。レオナルド、フラ・アンジェリコ、シモネ・マルティニ、クリヴェッリたちが、威厳と気品を備えた「御使い」として造型するべく奮闘しようと、これも成心なく見るに、マリアは突如舞い降りてきた異形の存在に怯えて身をくねらし表情をこわばらせているのではないか。フラ・アンジェリコの『受胎告知』は大好きな絵ではあるが。というのは本書の主筋から逸れた妄想で、読みどころはやはり後半のビザンティン美術史のほう。イエスの受難を予告されて悲しむマリア、そして言うまでもなくキリスト降架における「マーテル・ドロローサ」といったモティーフは、いずれもビザンティン発祥のものだそうな。へえ。この指摘ひとつだけでも読んだ甲斐があるというものだ。なんでも「読む美術史」というのがシリーズのモットーらしい。他の巻も楽しみである。
○エネベザー・ハワード『明日の田園都市』(山形浩生訳、鹿島出版会
○レイモンド・ウィリアムズ『田舎と都会』(山本和平訳、晶文社
○シャーリィ・ジャクスン『鳥の巣』(北川依子訳、国書刊行会)…“あの”「くじ」のシャーリィ・ジャクスンである。という紹介の仕方はいかにも陳腐で我ながら気が差すけど、ま、そういう色眼鏡というか、期待水準で読み始めてしまうのは自然なことでしょう。多重人格モノですが、この作家は元々ヘンなパーソナリティーにむしろ”平均値”を置いているので、アタマの中に四つ人格があったところでどってことないという感じで物語が進んでいく、その趣が可笑しい。
鹿島茂『ドーダの人、森鴎外 踊る明治文学史』(朝日新聞)…小林秀雄を全面的に扱った続刊に比べるといささか興趣は薄れる。鴎外が「ドーダ」てえのは、あまりにも予想出来ることですからね。成島柳北をドーダ路線に乗せたのには唸ったが。
鹿島茂『神田村通信』(清流出版)…目路の限り古本屋が続く光景に、胸がきゅうっと締めつけられるような昂奮を覚えた学生時代を思い出す。もう何年も神保町に行ってないな。
○ダニエル・アラス『モナリザの秘密 絵画をめぐる25章』(吉田典子訳、白水社)…前々回の高山宏『見て読んで書いて、死ぬ』紹介。いやあ、面白い!遠近法が俄に流行したあと、あっという間に廃れた技法であって、あくまでも「選択肢のひとつ」だったという指摘にはびっくり。パノフスキーの図式を素直に信じていた人間にはまさしく目から鱗体験であった。惜しい人を亡くしたもんだ。勢いに乗って買った『ギロチンと恐怖の幻想』や『レオナルド・ダ・ヴィンチ』はもっとじっくり読もう。
○配川美加『歌舞伎の音楽・音』(音楽之友社
○ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー『最古の文字なのか?  氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』(櫻井祐子訳、文藝春秋)…結論から申しますと【以下注意!!】文字では無かった。なんでも著者はヨーロッパ中の遺跡に残る記号(動物・人物などの具象を除いた絵)のデータベースを構築したのだそうな。これからの進展が望まれる。しかし、「遠く隔たった土地の遺跡で共通する記号がある ⇒ 言語の体系ではないか」という発想はどこかねじれてるように思う。《言語》を想定してかかる前に、人間の手と目の生理的条件からある程度記号の形がしぼられるという可能性をまず考慮すべきではなかったか。
石牟礼道子『常世の樹』(葦書房)…『椿の海の記』や、『苦海浄土』のある部分に比べ、多少文体がせっかちなのが残念。でも樹木に寄せるほとんどエロティックなまでの思いが強烈な印象。

 最近、学術書の著者紹介で生年が書いてないのは何故だろう?自然科学ならともかく、人文学では「この人が○○を同時代として経験しているんだな」とかいった微妙な肌合いが、文章を読む際に重要になってくると思うんだが。年齢を問うのはセクハラか?年齢なぞ客観的データの一つという受け止め方は出来ないのか?その割には、それこそこちらにとってはどうでもいい学歴を延々連ねる神経というのはどうにも理解しがたい。大学院からどこに移ったか、なんて書かなくても最終学歴だけで充分じゃないの?

 閑話休題

 これも前々回「高山本」の一冊として紹介した、蒲池美鶴『シェイクスピアアナモルフォーズ』、よかった。後半はシェイクスピアにしぼった分析となるのだが、前半の、シェ氏以外のエリザベス朝演劇論が面白い。マーロウの『フォースタス博士』は以前から好きだったが(「見よ、見よ、キリストの血が空に流れる!」)、観客の層に応じて台詞の意味がどう響くかを取り出し分けたり、ウェブスターの『モルフィ公爵夫人』論で、鏡を用いた演出法を想定して、台詞の重さ・ニュアンスをころりと転倒させてみたり。まさしく「アナモルフォーズ」の読み。ところが、白水社『エリザベス朝演劇集』は今入手困難なのです。マーロウとベン・ジョンソンの巻しか買ってなかったので、ウェブスターの二篇(『白い悪魔』『モルフィ公爵夫人』)が読めない。ものすごくフラストレーションが溜まっております。

 
 いいと思ったら、すぐに手に入れておくべし。何度この教訓を痛切な思いで呟いたことか。  

↓↓↓
コリオ。

鳥の巣 (DALKEY ARCHIVE)

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雪をたづねて三千里〜金沢

 だいぶ遅れましたが、自分のための心覚えという必要があるので載せる次第です。

 三泊したのは初めて。やはりこれくらいでないと、ゆったりした心持ちで過ごせない。もっとも金沢を最初に訪れたのだったら、あそこを見ようこの店に行こうと欲張って結局は慌ただしい旅になっていたかもしれない。つまり、特に行きたい所もどうあっても見たいものも無くなった状態だと随分のんびりと、とは優雅な気分で居られたということである。

 一日目 
○福井を過ぎた辺りから名にし負う北國空、のしかかるような暗い色調の雲が広がり始める。先週会ったTくんは「神戸のこの冬空は北ドイツから見れば眩しいほどの明るさ」と言っていた。そのせいで鬱病になる人も多く、ビタミンDの摂取が欠かせないそうな。プロイセン人及び北陸人には悪いが、この暗鬱な空が、鯨馬は好きだ。暗鬱さそのものがいいというのではなく、町の風情に「華やぎ」というものが一層感じられるからである。


○到着すると金沢は雪ならぬ激しい雨だった。昼飯は『黒百合』でおでんととろろと、むろん燗酒。店のオバチャン連中が相変わらず威勢良く動き回ってるのを見るともなしに熱いのをくーっと乾すと、金沢に来たぁという気分に突然満たされる。店は大繁盛ながら、駅周辺は思ったより人影が少ない印象。雨が止まないのでタクシーでホテルに向かう。運転手さん曰く、「乗る(観光の)お客さんみなに、『雪が無い』と文句を言われる」。さもあるべし。


○ホテルで小憩の後、街歩き。初めに書いた通りで、目的はない。森閑とした柿木畠やまだ灯の入らない木倉町をぶらぶら。やはり観光客の姿がない。平日だから?正月明けだから?それとも兼六園や茶屋街以外には、こんな時間には普通観光客はいないものなのか。


○夜はいつもの『ベルナール』。反復強迫の気味合いもあるけど、それより一度落ち着く所を見つけ出すと、そこから新しいものを探すことに極端に無精になってしまうからである。この日から営業開始だそうで、のんびりした雰囲気でシェフ・ソムリエの奥様とおしゃべりしながら食事できた。

アミューズ ①鴨とフォワグラのテリーヌ、タルティーヌ仕立て ②帆立のポワレ、塩鱈のソース ③香箱蟹のフラン、白菜のポタージュ
*前菜そのいち 石川県産鰤のマリネの金柑ソース、紅くるり大根蕪の球体ラビオリ・金沢春菊のピュレ添え
*前菜そのに 鱈白子のムニエル 縮み菠薐草のルロー、ムース状にした榧の実のブイヨン
*魚 石川県産車鯛のポワレ 甘海老・五郎島金時・大黒占地の軽い煮込み、シヴェソース
*肉そのいち エゾ鹿ロース肉のロースト 生胡椒のソース、オレンジ風味の人参のピュレ・牛蒡・金沢芹
*肉そのに エゾ鹿のパイ包み焼 ポワブラードソース、ミニサラダトリュフ風味
*デザートそのいち 紅玉林檎キャラメリゼとその皮のゼリー カルヴァドスのアイスクリーム、グラニースミスを添えて
*デザートそのに カシスで和えた柿と柿のムース、メレンゲパウダー
*ミニャルディーズ フィナンシェ、加賀棒茶とシナモンのクッキー

 ワインではブルゴーニュの赤が素敵に旨かった。

○バー『中村堂』でバーボンを少し呑んでご帰館・・・にはなれないのよね。明るくなるまで呑み続けてしまった。ホテルの朝食ではスクランブルドエッグズとコーヒーのみ。それもともすれば遠のく意識を必死で集中させながらなんとか片付けたという体たらくであった。うーん、それにしても、最後の店では、

 この大魚釣り損ねけり雪の朝 碧村

という感じであった(雪は降ってなかったですけど)。しかしひどい句だな、こりゃ。師匠に見つかったらド突かれそうな気がする。

 二日目
○朝は前述のとおり。部屋に戻って昼前まで眠り直す。午後は散歩。目的なくゆったり歩く。それにしても、寒さが足りないなあ。身勝手な言い分とは承知しているのだが、ついつい口をとんがらせたくなる。

○中村記念美術館の展示が面白そうなので入る。「祝い」を主題にした展示。客は当方のみで、じっくり観賞できた。しかし、こう「めでたい」を前面に出した品が並ぶと、胃もたれするのも否めない。出た足で、すぐ隣の県立美術館へ浮世絵展を見に行く。広重の『五十三次』全部を一所で見たのは初めてかな。しかしここでも物凄い量の浮世絵で、見終わるとぐったりしてしまう。

○遅めの昼は途中見つけて飛び込んだ蕎麦屋。小烏賊の煮付けでビールを呑み、キノコ蕎麦を食べる。特に旨くも、不味くも無し。

○材木町の辺りをぶらぶらした後、そうはいってもやはり足先からじわーっと冷えてきたので、長町の途中にある銭湯に入る。

○すっかり暗くなっている。さすがに風が冷たい。本日は片町にある『鰯組』なる鰯専門店。ここは初めて。昨晩飲み屋で聞いた割烹が休みだったので、周辺を探して飛び込んでみたのである。思えば、こういう系統の店はほとんど入ってないのだな。さて鰯料理は、つみれ汁や鮨が旨かった。なんでも海水温の異常で脂がのりすぎているとかで、刺身を出していなかった(見識をもってやっているということ)のが残念。感じのいい店だったが、左右の客がアホだったので、長居せず。そのまま『キナセ』へ向かう。

○木無瀬さん、最近はすっかりシャンパーニュにハマってるらしく、カウンターのまん中には特注の容器(錫に銅を焼き付けて?叩いて作るらしい)を据えている。むろん一杯目はシャンパーニュ。グラスも良かった。いわゆるシャンパングラスのなりではない。口に含むといつまでも泡が細かくはじける。同じ銘柄を普通のグラスで呑んでみると、泡が粗い分、酸やミネラルをつよく感じる。二杯目にシェリーを頼むと、アンリ・ジローのラタフィア、つまり、まあシャンパーニュで作ったシェリーですな。これが出てきた。ホントこの人は凝り性だ。このラタフィアがけしからぬ旨さで陶然となる。

○この後もすごかったんだよな。シャトー・ラフィット・ロッチルドが作ったマールが出てきたのだった。言語道断な旨さである。高貴とか優雅という形容がふさわしい。舌の上の残り香だけで充分愉悦にひたれる感じ。

○けしからんですなー、とか言ってると次はマール・ド・ブルゴーニュ。むろん充分に旨いのだが、ラフィットのあとだとどうしても
あらっぽさが先に立つ。彼が女王、これが王の風格とも称すべきか。

○こういう美酒の後は、真っ直ぐ帰って寝るに限る。珍しく夜遊びせずにホテルに戻り、「オヨヨ書林」で買った、滝田ゆうの落語マンガなぞをぼーっと読む。いやあ旨かった。

 三日目
○朝は抜き。昼食に『こいずみ』を予約していたのである。天ぷらをうまく食べるために、充分腹を空かせておかねばならぬ。

献立以下の如し。

*先付 茶振なまこ・数の子・芹の蕪酢和え
*造り 平目二種(揚がったばかりのと、三日ねかせたのと。前者はポン酢醤油、後者は山葵醤油が合う)、甘海老
*椀  鶉丸、海老芋、鶯菜、京人参、白味噌仕立て
※以上で分かるように、正月のしつらえである(箸枕は羽子板の形だった)。実家で食べてた時はちっともそんな風に感じなかったけれど、寒い内の白味噌仕立て、なかなかいいもんですな。

*天ぷらは…
・海胆海苔
・白魚、口子(前者淡雅、後者艶麗。口子を揚げるとこんな気品のある香りになるのだ)
・海老
・椎茸、銀杏
・蕗の薹(清冽)、鰰(ハタハタを揚げまんの!と一瞬たじろぐ。でも油と出遭っていい按配にアクの強さが鎮まったというか引き立ったというか)、ずわい蟹(和敬清寂)
・白子二種

・天ばら、汁、香の物
無花果のシャーベット

○いつものように堪能したのだが、最後に助手をしていた山田さんという女性が辞めることを聞いてがっくりきた。小泉さんといいコンビネーションだったのになあ。千葉のご実家に戻って料理屋をする準備をするとのこと。単なる旅行者からは同じように映っていても、金沢の町は絶えず変わり続けているのでる。

○冷たい雨が時々降るなかを、北鉄野町駅まで歩く。最終日は、ようやく日程の都合がついて『和田屋』に宿泊できることになった。

○ほんまおんなじ名前ばっかりやなあ。そうお思いの向きもあろう。しかし、これをするのが、現代日本では如何に贅沢であることか。

○さて、鶴來の駅に降りても、期待していた雪はほんのお愛想程度。寒さもたいしたことはない(麻痺してきてるのかな?)。ただスーツケースを持っていたため、歩くのは断念してタクシーに乗る。

○今回は「菊の間」。掛け物に特に見るべきものなし。活けてある椿の閑寂な風情と囲炉裏の火のいろは、遠方の客には何よりのもてなし。部屋はともかく、廊下はむしろ外よりも冷える感じ。だしぬけに旅情らしきものに襲われる。

○さっそく風呂。薬草風呂で芯まで温まる。部屋に戻ると、何するでもなく、うっすら雪をのせた庭を眺める。池の鯉は端っこにかたまって身じろぎ一つしない。

 寒鯉や未生以前の夢のうち 碧

夜の献立何々ぞ。
*前菜
・虹鱒蕪鮨
・山葵葉漬
干し柿バター
・白山堅豆腐白味噌
・鴨ロース
・厚焼き玉子
*吸い物
・雉と百万石椎茸の土瓶蒸し(雉の出汁が旨い。澄み切っているのに、コシが強い)
*造り
・鮴と岩魚洗い 二種醤油
*小鉢
・自然薯とろろ
*しのぎ
・熊寿司(しゃりっとした舌触りで、ほのかな獣の匂いが立つやいなや喉を滑り落ちて、その後で甘味がじんわり広がる。寿司飯はいいから、熊だけを出してくれえ)
*いわな骨酒(織部風の平鉢に炭焼きしたのを一尾、そこに熱燗をなみなみと注ぐ。初手は香ばしさ、中程は身から出た出汁の香りを賞美する。終わり近くでは、酒自体が黄金いろに輝いて、むやみに勇壮な感じの味となる)
*焼き物
・岩魚塩焼き
*温物
・仔猪リブロース(哀れをもよほすくらいに繊細なあばら骨。ま、哀れみながらぺろりと平らげましたけど)
*蒸し物
・加賀蓮根 蓮蒸し
*油物
・白山鹿とフォアグラのソテー、源助大根・バルサミコソース(フォワグラは要らない。味付けももひとつ気に入らない。フレンチ風にへんな目くばせしなくてもいいのになあ)
*食事
・加賀芹雑炊・香の物

○食事中、二度目の風呂、そして寝てる間もほとんど間断なくという感じで雷が鳴り続ける。しかも(古い家とは言え)宿の窓や障子がびりびり震えるほどの雷である。これが「鰤おこし」なるものか、なんとか一句を・・・と考えているうちにことんと眠りに入っていた。

四日目
○翌朝、女中さんに訊ねてみると、「冬雷」とか「雪雷」と呼ぶらしい(両方とも「ガミナリ」と濁る)。うつくしいことば。しかしどうも句の形ではまとまらない。詮方なく、朝食のあと、吉例(※)の狂歌一首をひねってみた。『和田屋』HPでは少しく誤った形で引用されており、また読み返すとどうも気に入らないので、こちらを「定本」とします。


  和田屋に宿せり ひのととりを詠める 
 白山を染めのぼる陽の尊さよ姫神たゝへ鳴く百千鳥

※なんだか『和田屋』さんに行くと一首詠むのがこちらにとっては習慣になりつつある。一度目が「短夜や瀬音を庭にきく姫の杯の数だけ増る星かな」(祝ミシュラン掲載)、次が「 吉田健一大人を偲びて お銚子はいつ果つるともしら山にわたや積みけむ初雪の宿」

○昼。もちろん『黒百合』に呑んできれいに首尾が整う。

 今回嬉しかったのは、観光客の一団から道を訊かれ、親切に教えてあげられたこと。次は金沢の食べもん屋でバイト、だな。


↓↓↓
『quinase』のシャンパーニュ入れ。器を眺めて一杯呑める。


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沙翁道中膝栗毛

 「極私的ヘーゲル&沙翁まつり」が続いている。年末年始は仕事柄用事が多くなるので、遅々として進まないというのが実情。ま、目新しい情報を、しかもすかすか気味にしか盛り込んでない新書を読み飛ばしてるんじゃないから、焦らず乱さず読み続けようと思う。大体が期限のあるものではないし。

 ヘーゲル(『哲学史講義』)のいいサブ・テキスト誰かご教示くださいませんかね。長谷川氏畢生の訳文のおかげで不審なくらいすらすら読めるのではあるが、なんせ素人ゆえ、ヘーゲルの言説をしかるべきパースペクティヴの中に置いて見ることが出来ないのですね。『哲学史』の後に予定している『美学講義』(四年前に中断したっきりとなっている)の方は、むしろアランを読むためのサブ・テキスト、というか《地ならし》という心づもりがあるのだが。

 松岡和子訳シェイクスピアは『リア王』と『ハムレット』と『夏の夜の夢』が終わったところ。松岡さんの訳文も響きが良くていい(ただ喜劇よりは悲劇のほうがよりいいんではないか、というこれは現時点での感想)。こちらの方は、一度挙げたコリーの『シェイクスピアの生ける芸術』や蒲池美鶴『シェイクスピアアナモルフォーズ』(東京大学出版会)など、むしろサブ・テキストが充実しているために中々進まないという事情(言い訳)がある。

 コリー訳書を含む「異貌の人文学」の監修は高山宏。そして、蒲池氏の著書は図書館でなにげなく手に取って立ち読みしてみると、滅法面白そうだったという出会い方で、「これは高山さん好みだろうな」と内心見当をつけていた。すると、やっぱり近刊『見て読んで書いて、死ぬ』(青土社)でばっちり絶賛されていたのである。こうこなくてはならない。と自分のセンスにうっとりする(少し高山節が憑いている)。

 『見て読んで書いて、死ぬ』はブログの書評を集成したもの。最近余り読めてないなあ、という時のいわばリハビリには、超絶読書家の書評集を服用するのが、少なくとも自分の場合いちばん効く。つまり猛烈に読書欲が刺戟され、酒も美食も美女も(一時は)要らぬという気分にしてくれる。

 予測通り効いてくれましたねえ。騒々しい文体は相変わらずだが、それも含めてなんだか随喜の涙がこぼるる程に嬉しかった。おかげで衝動買いに突っ走ってしまう。来月のカードの支払いを考えると浮かぬ顔になるのを抑えられない。

 和書・洋書の新本及び新しめの古書はAmazonでぽちっ。古めの洋書は紀伊國屋書店BookWebでぽちっ。和書の古め及び硬そうな本は「日本の古本屋」サイトでぽちっ。

 困ったのは、邦訳の無いものでも原綴なしに著者名書名が挙げられていること。「ブースケの『マニエリスム絵画』」なんて言われてもね。「ブースケ」でネット検索しても「怪獣ブースカ」ばっかりヒットするし(何とか探し当てて注文出来た)。こういう種類の書物には詳細な索引を付け、人名・書名の原綴を添えるべきではなかろうか。曲がりなりにも一般向けの本でそれは衒学的すぎると言うか。しかし高山宏に学を衒うなというのは芸者に別れろ切れろというようなものではないか。

 學魔に敬禮。

 それにしても、まだ読んでない本のことをつらつら書いてもしようがない。少ないながら一月分の決算報告を。

斎藤信也『人物天気図』(朝日新聞社)…往年の大記者によるポルトレ集。どことなくのんびりした文章の風情がよい。
○マーガレット・トマス『ことばの思想家50人 重要人物から見る言語学史』( 中島平三総監訳、瀬田幸人・田子内健介訳、朝倉書店)…参考文献がいちばん有り難い。
○カタジーナ・チフィエルトカ、安原美帆『秘められた和食史』(新泉社)…やれやれ。
○『初代桂春團治落語集』(講談社
矢野誠一『ぜんぶ落語の話』(白水社
○逸身喜一郎・田邊玲子・身崎壽編『古典について、冷静に考えてみました』(岩波書店
南利明『ナチズムは夢か ヨーロッパ近代の物語』(勁草書房)…この怪物的大著(二段組みで千ページ近い!)にだいぶ時間を喰われた(失礼!)のである。うーんと大雑把にいえば、近代的主体の確立がナチズムを準備したということになるのだが――もちろん本書の意義は、前提のそのまた前提から説き起こして諄々と論証していくその過程にある。
○『これが好きなのよ 長新太マンガ集』(亜紀書房)…長新太の怪人玉ネギ男と長ネギ男が好きなのよ。
安藤礼二編『松山俊太郎 蓮の宇宙』(太田出版)…法華経において、白蓮たる釈尊と紅蓮たる女神との融合が説かれているという、少なくとも仏教教学に全く縁の無い衆生には衝撃の解釈が披露されていた。うーむ、これは『法華経』を丁寧に読まないと勿体ないな。勿体ないといえば、一応専門である梵文学というか「蓮」関連の文章を集めてもこの一冊にしかならなかったという松山俊太郎の天才の濫費ぶりもそう。ものすごい学殖と知見とを惜しげも無く撒き散らして(文字通りの散華!)る壮絶な絵図を目の当たりにしてるようで、何かこう、呆然とする。まあ、でもこの本にしても、安藤礼二(高山さんの本によれば「アンドレ」なる渾名を奉られているらしい)でなければ編集して出せなかったろうな。


  アンドレに敬禮。


○ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ『ヴォルテール、ただいま参上!』(松永美穂訳、新潮社クレストブックス)…ヴォルテール門徒としては見逃せない一冊。手練れの作者(らしい)によって、フリードリヒ大王とヴォルテールの虚々実々の駆け引きは瀟洒にスケッチされているが、期待が大きすぎたせいか、ややコクが足りないように思った。おそらくシェートリヒがネタ本の一つにしたであろうフリーデル『近代文化史』(同じドイツ語だしね)の方が、もっと劇的にもっと陰翳深く二人の肖像を描き出している。と書いてたまらなく懐かしくなりフリーデルを読み返したのだが、「ロココの王」(=ロココ時代の精神を体現する人物)としてのヴォルテール、そして「ロココの王」(=ロココ時代に覇を唱えた代表的な政治的支配者)としてのフリードリヒ、いやあアクが強いっ。二人の出会いは「プロイセンの胡椒とフランスの塩」の出会いというより「プロイセンの砒素とフランスのトリカブトの邂逅」と呼ぶのがよりふさわしい。そして、この二人が二枚看板をはっていた十八世紀という時代がいかに奇っ怪な魅惑に充ちていた世界だったか。


 文楽、初春の興行(昼の部)は『寿式三番叟』・『奥州安達原』「袖萩祭文」・『廿四孝』「十種香」「狐火」。鶴澤寛治さんが病気休演だったのを心残りとして、全体に愉しめた。『三番叟』は有名な鈴の踊りもよかったが、日本の神事=芸能のエッセンスがここに収斂するような、少し文化人類学乃至民俗学的な興味も加わってなおのこと面白い。荘重な翁の奉納の後には「もどき」が続かねばならないのである。日本文化の、健全な性格をそこに見ることができるように思う。

 翻って「袖萩祭文」は情緒決壊でハンカチをしぼる。親とは疎遠だし、子供が嫌いな人間が、どうして、何故、親子ものの狂言になるとかくもたやすく泣いてしまうのであるか。『.卅三間堂棟由来』の木遣でも、葛の葉子別れでも、すぐ目頭が熱くなってしまう。

 「十種香」は、歌舞伎の方の極めつき、(先代)雀右衛門の八重垣姫が重なって見えて仕方がなかった。逆に雀右衛門の芝居だと(残念ながらヴィデオですが)常に人形の俤がゆらめき出て見えるのは不思議なことである。「狐火」は人形ならではの妖しく艶めかしい舞台。ここまで邪気無く勝頼を恋する八重垣姫って、やはり可愛い。

 帰りはいつもの如く、道頓堀の『今井』。煮染めと板わさで熱燗をきゅーっとやってから夜泣きうどん(「きつね」より断然こちらが好き)。これまたいつもの如く、出汁の清澄にしてのびやかなことに感歎する。こういうのがプロの技なんでしょうなあ。

見て読んで書いて、死ぬ

見て読んで書いて、死ぬ


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寒中稽古

 金沢の旅行記もまとめないうちに、パーティーとなってしまった。以前書いたように、同僚の結婚祝賀会を拙宅で行おうという企画である。正客の夫婦二人に、同じく同僚が六人。主人側は鯨馬と執事役の空弾二人。都合十人の宴で、近頃お客をしていない主人としては、えらく手はかかったがやりがいのあるものとなった。

 朝から空弾子に車を出してもらい、菓子屋酒屋市場スーパーと文字通りに馳せ走る。結局買い出しを終えたのは一時半頃で、ここから開宴までは五時間しかない。しかも一品の分量が少なくないので只でさえ時間がかかる、その上、厳冬の夜に始めるのだから、温かいものは直前に供せねばならぬ。台所のオッサンは修羅さながらの形相になってたと思う。それを何食わぬ顔して、整然と出してゆくのが、まあお招きする側のいちばんの心入れということになる。

 出したるものは何々ぞ。

○先付 茶碗蒸し…蛤の出汁。具は蛤身を刻んだのと滑子・柚子。出す直前にゆがいておいた絹さやをのせる。
○造り 鯖きずし・鮃昆布〆・針烏賊酢味噌…生魚を出すのはやっぱり気を遣うもの。というわけでそれぞれこういう出し方となった。鯖は大ぶりで脂ノリノリの極上のもの(あっという間に無くなっていた)。鮃は切りかけ造りにして上から柚子と薄口醤油と煮切り酒を等分に割ったものをちょいちょいとかける。つまり懐石の向付風。多分だれも気付いてくれないだろうけれど、こういう遊びを入れることで、作り手の方は機嫌良く料理出来るものなのです。針烏賊はさっと湯引きしてから、若布・茗荷・胡瓜と合わせる。
○和物 白和え…中身は三度豆・銀杏・牛蒡・木耳・浅葱・たらの芽(秋冬春のそろい踏みですな)。和え衣は少し変化球で、木綿の水切りしたものは常道だが、それと胡麻豆腐(出来合いの品)を半々に合わせてから擂る。更に擂り胡麻(白)を足し、濃口・煮切り味醂・出汁で味付け。最後に粉山椒で風味を添える。我が家でお客をするときは、和え物か炊合に一等エネルギーを注ぎ込む。
○煮物 関東煮…この時期、お客をするのに鍋というのは安易すぎる気がして、といって普通のおでんでももっちゃりしてしまうので、一手間加え、田楽風に一口大にした具を串に刺して供した。具は鯨コロ・むしりこんにゃく・蓬麩・小芋。それぞれ下煮しておく。串にした後は、鶏がら・昆布・干し椎茸でうんと濃く引いた出汁に酒粕を溶き入れたもので三十分ほど炊く。この出汁には塩・醤油は一切加えない。それくらい出汁をしっかり引くことが重要です。
○焼物 茹でタンとラムチョップのソテーの二種。茹でタンは年末にも作ったのと同じレシピ。塩漬けしたのを更に漬け汁(濃い塩水にシェリー・タイム・セージ・ローリエ・クローヴ・ニンニク・黒胡椒を加えたもの)で五日間漬け、塩抜きしたものを茹でて出す。茹でる時に、改めて上記のハーブ類、及びレモンの皮を加えます。ホントはこれをタンシチュー仕立てにしたかったのだが、時間が足りなさすぎた。ラムは正客の奥さんの好みと聞いて加えた。赤ワインとローズマリーでマリネしたブロックを、じっくりソテーする。ソースは漬け汁を煮詰めたものに蜂蜜・バター・バルサミコ・トマトペースト・マッシュルームを加えたもの。
○酒肴 ①芹山葵和え(刻み穴子に黒胡麻)②唐墨③鯛真子塩辛④たたき芋(生口子を混ぜる)⑤干し口子の炙り⑥海鼠酢⑦海鼠塩辛(海鼠祭り!)⑧漬け物(蕪と胡瓜ぬか漬け・白菜漬け・茗荷塩漬け)
○飯 押し寿司…鰺きずし・鯛の昆布〆。前者には薄切りした金柑、後者には花山椒の佃煮を挟む。魚の身が厚すぎたのと、押しが足りなかったので、出す時にはぐちゃ。と崩れてしまっておった。あと、もっと早く押しとかないと、熟れが浅い(翌日残った分を食べると段違いに旨くなっていた)。
○汁 キノコ汁…ともかく市場・スーパーで売ってるだけの茸を買いあさる(という程の金額でもございませんが)。それを油でさっと炒めて、水から煮るだけ。酒をどぼどぼ注ぎ込むくらいで充分旨味が出る。味付けは淡口のみ。
○菓子 北野『L’AVENUE』のケーキ…朝イチから並んでなんとか入手。かけた時間を考えるとこれがいちばん贅沢なひと品だったかも。ま、甘味にとんと興味の無い人間にとっても充分美味しかったのだから、実際大したものなのでしょうな。

 酒はビールの他、『奥播磨』袋吊り(なんというワイセツな名で、あることか)・『赤石』の古酒・ワインはジゴンダス甲州の白。この白も樽が効いてて良かったが、ジゴンダスはもっと上だった。まして値段を考えると嘘のような旨さである。さすが『てらむら』さん、やりますなあ。

 ま、皆さんかなり早めのペースで召し上がっていたということはありますが、そして鯨馬は料理におわれてほとんど呑めはしませんでしたが、どうも後半の様子を拝見しているに、「わしの酒品は、これでなかなかわるくないもんじゃのう」とウヌボレたことではあった。

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