プロとアマ

  日曜日は『播州地酒ひの』さんで奥播磨の会、水曜日は『海月食堂』で敬士郎さんの料理を堪能する会と、出不精には珍しく立て続け。

 蔵の方からは「大吟醸でも、一通り食べた後でなおかつ美味しく呑んで頂けるように作っています」と説明があった。逆に言えば酒のほうでも料理を選ぶことになるわけで、淡い味付けばかりだとかえって酒を重苦しく感じてしまうことになるはずである。日野親分の料理はさすがに勘所を抑えたもので、「あれ、いつものとなんかちやう……」と思うと、それらはみないわば奥播磨シフトなのであった。造りの出し方から、粕漬(あっ、と言わせる選択)まで、間然する所がない組み立てでした。

 『海月』はバイキング方式。少しくせわしないところはあったが、ほとんどはひとりで中華の店に行く(中華だけではないけど)人間にはこれだけの品数があることがまず嬉しい。アコウの清蒸の加減も良かったし、モツの山椒炒めも怪訝なくらいすっきりした仕上がり。なかんづく家鴨の舌の燻製の嬌艶たる食感・・・じゅるる。何品かは定番メニューに入ることを切に希望する。

 二日とも、プロの料理人の凄さに舌を巻く思いでありました。当分は人様をお招きして振る舞うなんて出来ないね、やっぱり。日野親分が、色んな人に引き合わせる毎に「素人の身で、料理人を家に呼んで料理出したヒトです」と古傷に塩豆板醤酢に赤チンを塗り込むような紹介をして下さるものだから、中々立ち直れないのですね、こちらとしては(時々夜中に思い出して「ワーッ」と叫び出したくなるのだ)。

 と袖をしぼりつつ、焼き穴子と三つ葉の山葵和えで冷酒をあおる。

 本のことも書いとかなきゃ。ずいぶん間があいてたまってますから、また間に何やらかんやらあったのでいつも以上に雑駁な紹介になると思います。ともあれ

○サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち 臣民から市民へ 上中下』(栩木泰訳、中央公論社
ゴーゴリ『鼻/外套/査察官』(浦雅春訳、光文社古典新訳文庫)・・・原作の語り口を生かすために落語口調を採用した、と訳者あとがきにある(初めての試みではないらしい、へえー)。達者なものですが、しかしグロテスクなユーモアを醸し出すなら、一見素っ気ない無表情な訳文のほうがよりふさわしいのではないか。名人の噺家がにこりともせず荒唐無稽な話を語ってみせるように。
○田中徹『花の果て、草木の果て 命をつなぐ植物たち』(淡交社
○吉井亜彦『演奏と時代 指揮者篇』(春秋社)
アダム・カバット『江戸化け物の研究 草双紙に描かれた創作化物の誕生と展開』(岩波書店)・・・美術史乃至民俗学的手法に極力よらない、と宣言したいわば文学的化け物研究。
○神田千里『宣教師と『太平記』』(シリーズ「本と日本史」、集英社新書)・・・知識としては知っていたが、『太平記』の地位、こんんなに高かったんだなあ。
○『定本 柄谷行人文学論集』(岩波書店)・・・著者が修士論文で「アレクサンドリア四重奏」を扱ったと聞いて(へえー)読んでみた。
○栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出書房新社)・・・ビートの効いた文章というのか(古いか)。後半やや叙述が単調になるが、一遍の日本廻国と無限的念仏&踊りの陶酔を忠実に伝えればこういうことになるのかもしれない。
池澤夏樹『小説の羅針盤』(新潮社)・・・鴎外贔屓はえっと思ってすぐに納得。こういう組合せって面白い。
○フリードリヒ・デュレンマット『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』(増本浩子訳、白水uブックス)・・・ブラックコメディはスピード感が一等重要なのである。
清水勲編『ビゴー『トバエ』全素描集  諷刺画のなかの明治日本』(岩波書店
○フェルナンド・サバテール『物語作家の技法』(渡辺洋訳、みすず書房)・・・須賀敦子の本に教えられた。一読されたい。
○芳賀京子・芳賀満『古代 ギリシアとローマ、美の曙光』(「西洋美術の歴史1」、中央公論新社
○秋山聰他『北方の覚醒、自意識と自然表現』(「西洋美術の歴史5」、中央公論新社)・・・これでシリーズは読了・・・二十世紀の巻は残っているが、ま、興味ないからよい。
半藤一利『文士の遺言 なつかしき作家たちと昭和史』(講談社
○亀田達也『モラルの起源 実験社会科学からの問い』(岩波新書
竹下節子『ナポレオンと神』(青土社)・・・ライシテ(政教分離)に興味あるので読んだ。どうもこの著者、歌いすぎる傾向があって、ちょっと苦手。でもナポレオンと同時代の教皇ピウス七世の肖像は気に入った。綺麗事でなく、小説的興趣あり。
○藤井光編『文芸翻訳入門  言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』(フィルム・アート社)
高島俊男『本はおもしろければよい』(「お言葉ですが・・・別巻」)・・・シリーズは(単行本の形では)これが最後とのこと。
鹿島茂太陽王ルイ14世 ヴェルサイユの発明者』(KADOKAWA)・・・例の如くドーダ理論と家族社会学で攻め立てる。あんまししんどくならなかったのは、そりゃ、まあ、ねえ、ルイ大王が「ドーダ」かますのはこれ以上ないくらい自然ですから。
○イェルン・ダインダム『ウィーンとヴェルサイユ ヨーロッパにおけるライバル宮廷1550-1780 』(大津留厚他訳、刀水書房)・・・鹿島さんの本でも参照されていたのがアリエスの『宮廷社会』。その古典中の古典的研究を正面から批判してのけた研究書。
青木淳選『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)・・・このところなんだか混迷を極めている文芸文庫の中でヒットの一冊。「建築」文学といっても、筒井康隆「中隊長」が入ってるのである。以て後は知るべし。作品の構造を建築として読み解く編者の解説が面白い。
○小山順子『和歌のアルバム 藤原俊成詠む・編む・変える』(ブックレット「書物をひらく」)・・・平凡社
末木文美士『日本思想史の射程』(「日本歴史 私の最新講義」、敬文舎)
黒田龍之助『その他の外国語エトセトラ』(ちくま文庫
○松木武彦『縄文とケルト 辺境の比較考古学』(ちくま新書
○ウィリアム・マルクス文人伝 孔子からバルトまで』(本田貴久訳、水声社
渡辺京二『日本詩歌思出草』(平凡社)・・・この著者がこの話題で、あの文体でとなれば、好エッセイたることは保証済みみたいなもの。明治の新体詩への(かつての)親炙は「へえー」。とか思ってると、北村透谷の「内部生命」とユング的無意識の近さを指摘するなど、油断ならない本だった。
○グレゴリウス山田『十三世紀のハローワーク 中世実在職業解説本』(一迅社)・・・あれ、村上龍さんが続刊出したんだ、とAMAZONでぽちっ。としたのが一つ目の勘違い。届いたのを見たら、なんだか凡百のファンタジー解説本みたいで「あーあ」と思ったのが勘違いの二つ目。にしては記述がしっかりしてるなあ、と巻末の参考文献をのぞいてぶっ倒れた(大学の紀要まで入っている)。またまた読む本リストが長くなってしまった。
ナサニエル・ウエスト『いなごの日 クール・ミリオン』(柴田元幸訳、新潮文庫)・・・お気に召した方は岩波文庫『孤独な娘』(丸谷才一訳!)もどうぞ!
○ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』(土屋俊訳、ちくま学芸文庫

 二ヶ月近くにもなるのに、寥々たるもの。衰弱の極みという他なし。

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月は出ねども満月〜備後・播州の旅(二)

 翌朝もうんざりするような曇天。ホテルから笠岡駅まで歩き、福山に出て福塩線に乗り換え。そこから数駅、至極のどやかな風景の中を走って、神辺で降りる。


 大都市・福山を引き合いに出すまでもなく、駅前からして鄙びた田舎町。いくら何もしないための旅とはいえ、これはまた酔狂に過ぎる・・・のではなく、実はこの静かな町にだけ今回は予定を作っていた。菅茶山の居宅かつ私塾であった黄葉夕陽村舎=廉塾を観に行く心づもりをしていたのである。


 菅茶山。江戸後期、と言うにとどまらず、日本文学史上最大の漢詩人のひとり。しかし「最大」などという措辞が似つかわしくない、日常生活の情景や風物を精緻にとらえ、温雅な叙情をたたえた、アンチームな詩風の作者である。元々俳諧を嗜んでいたひとらしく、漢詩ということばから連想される四角四面のペダントリイからはほど遠い、なつかしい作が多い。


 人影をほとんど見ない町を二十分ほど歩いて汗びっしょりになった頃、目指す建物の案内板が見えてくる。いかにもこの作者らしい、ちんまりとして閑雅なたたずまいが、まずいい。


 しかし本当にすごいのは、今目の前に揺れる柳の樹、その下をさらさら流れる小流れ、そこに架かる石の小橋(これを渡って玄関に近づく)、これら全てが茶山の詩に詠まれた通りの姿で残っていることである。つまりここを訪う者は二百年前の詩人が見たままの風景を目にすることが出来る訳である。現今の日本にあってこれがどれだけ貴重な体験であるか、縷々述べる必要はないだろう。江戸の学藝詩文にいささか縁のある身には尚更である。すなわち鯨馬、汗もしとどに立ち尽くしながら、感動しておりました。


 それにしても、玄関雨戸がすべて立てきられているのはともあれ、誰もいないのはどういうことだろう。たしか土日には見物客を入れて案内するという説明がサイトにはあったはずだが・・・と首を傾げていると、それらしい年配の方が入ってこられた。


 客は当方一人。少しく気ぶっせいなシチュエーションではある。おらが村の偉人茶山大先生を褒め称える演説が続いたらちとキツいなと案じていたが、建物の様式や絵図からの考証など、すこぶる(良い意味で)固い話ぶりであって、これには安堵した。大学院で茶山周辺のことを少し勉強しておりました、と初めに挨拶しておいたのが良かったのか。


 ともあれ紋切り型の名調子ではなく、史実と考察を諄々と説き来たり解き去る・・・そう、じつはこの諄々と、が小渠の流れの絶えざるが如くに終わらない。拝辞してまたとぼとぼと駅まで歩き、ホームで列車を待ち、福山に戻った頃には大袈裟でなく肩で息する体であった。昨日楽しみな宿題としておいた岡山の某々鮨やに辿りつく気力も萎え果てている。折角のご親切を、竹中さん、済みませんと詫びつつ、福山駅前のいぶせき食堂で飯を食う。正確には小魚の天ぷらをアテにビールを呑む。


 各駅停車に乗るのさえ億劫で(熱中症になりかけだったのかな)、新幹線で岡山まで戻ってから赤穂線にて播州赤穂まで。学生の時に友人と釣り・バーベキューに来て以来だから、二十年以上空けての再訪となる。だから確たることは言えない。ただの印象だが、町全体の雰囲気はさほど変わってないのではないか。まあ、廉塾のようなのは例外中の例外として、たかだか二十年で街並みが一変するする方がそもそも気違いじみているので、町の古びを愉しむのが文明なのである、という吉田健一の指摘を思い出しているうちに、旅館から迎えの車が来た。


 ぶらぶら旅には似つかわしくない段取りながら、最終日はどうしても温泉で体をほどきたかった為、温泉宿を取っていたのである。山道をうねうねと登っていった先が宿。「海を呑む」という名前にぴったりの場所であり、生憎靄っていたが、晴天ならばさぞ見事な景色が見られていただろう。それでも家島諸島(その内の一つがぱっくりと無残な断面を見せているのは関空を作るのに削られた跡らしい)は部屋の正面に確認できた。


 何はさておき御湯一献。誰も居ない「岩風呂」で思い切り伸びをする。「飲用できません」と書かれた札を見て、飲用してみると(口いやしい子なのです)、苦くしょっぱく、便秘や胃弱には良さそうな味。旅の疲れを取るのに上按配であることは言うまでもない。


 料理旅館に泊まっていながらも、夕食は外。昨日は居酒屋だったので今晩は趣向を変えてイタリア料理。といってもご想像のPrunusの方ではありません。炭水化物、特に粉モノを苦手とする人間にはピッツァが看板の店はいささか重苦しい。といっても入ったのは、例の店の従業員が独立して始めた店らしいが。


 よってここでも、魚介ばかりを頼むこととなる。

フリットミスト・・・槍烏賊、イシモチ(と書いていたが、昨晩のネブトと同一の魚)、小海老
○真蛸のトマト煮のパスタ・・・パスタなら食えるのだ。柔らかく煮た蛸のからみついた、やや太めの麺が喉の奥でもふぉっ。となる瞬間がこたえられません。
○鯛のオーヴン焼き・・・レモンと大蒜とローズマリーをふんだんにあしらっている。

 トレントの、蜜の香りがほのかにする白が滅法旨くてこれだけでは物足りない感じ。追加したのは、烏賊・蛸・海老・貝のサラダ。それにしても、我ながらよく蛸を食う男だ。前世はウツボだったに違いない。


 女性二人でやっている、感じの良いお店でした。食べ終える頃、手伝いの兄ちゃんが「今晩ならお城近くで満月バーをやってますよ」と教えてくれる。のはいいけれど、満月バーとは何であるか。


 「満月の夜だけ開くバーです」。


 余計に分からなくなってきた。ま、まだ八時半だし、ちょいとふらふらしますか。とタクシーで駅の南に向かう。おや交通止め。と思うと、目抜き通りの一角に人だかり。どうやらこれであるらしい。五千円のチケットをまず購入し、飲み物を頼む度にチケットにチェックを入れて、帰り際に残金を精算するという仕組み。ワイン屋さんと例のイタリア料理屋さんが主催らしくて、飲み物はワインが主。


 ワイングラスを片手に通りをぷらぷらしてますと、なんだかあちこちに明かりが点いて、屋台が出、人が歩き、バンドが奏でておる。地元の方に訊ねると、夜市と「満月バー」がたまたま重なったのだとか。とはいっても大阪や神戸の祭りの、卒倒しそうな人混みではないから、気分良く冷やかして歩ける。えらくガタイのいい白人がすっかりご機嫌でバンドの演奏に合わせて体を揺らしているのを、自転車に乗った中学生が「おー、クリス!」と声をかけ、そのまま談笑になった光景を見かけた。地元中学校のいわゆる外国人教師とその生徒、という構図なのだろう。のんびりしていてなんだか愉快である。そう言えば駅前の焼き鳥屋に入る部活の顧問(?)に、生徒らしき数名が野次を飛ばしているのも見たな。めでたしめでたし。

豪勢に各地を回るのも旅先で痛飲するのもいいけれど、言うなれば普段着の延長としての旅でかえって日常の垢やら愁いやらを洗い落とせたという、自分にとっては珍しい経験をした。
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カブトガニとわたし〜備後・播州の旅(一)〜

 久々の旅ながら、行き先は金沢ではなかった。嫌いになったのでも飽きたのでもなく、何にも考えずひたすらぼーっとするには、取り立てて観光名所や馴染みの店がない街の方が都合がよかった。

 と書いた後で所期するところは充分達せられたと続けると、なんだか行ったとこの悪口みたいになりますが、ま、過疎ブログのことゆえお目こぼしを。

 前日少々過ごしてしまったので、薄曇りの頭のまま取りあえず西向きの新幹線に乗る。何時何分に乗って、何分に乗り換えて何時に到着、なんて動き方をしないのが今回の趣旨。

 岡山で降りる。前日、バンブー竹中さんに市内の鮨やをいくつか教えて頂いていたが、宿酔でもあり予約もとっておらず、この日は断念。明日時間がとれたら行ってみよう。

 かといってエビメシだのママカリ鮨だの「おぉ、岡山」的なのも気が進まない。結局は駅ナカのうらびれた(と見えたが、これは昼の時分どき、他に誰も客がいなかった為)立ち飲み屋でビール。冷や奴に魚すり身のカツ、こんにゃくと大根のおでんでさらりとゆく。

 徒然たる表情の客と、ご同様の表情の店員とが何となく会話を始める。笠岡で一泊すると聞いたおねえさん、一瞬顔がこわばったのを鯨馬は見逃しませんでした。

 ―カブトガニ博物館があります。……外に恐竜公園もあるし、夏休みの土日とかには家族連れとかには人気あるみたいですね。

 この「とか」の使いぶりが愉快である。

 ―土日とかでもない日に、四十がらみの男がヒトリで行く、とかならどうなるんだろうか。
 ―……よほどカブトガニが好きな方なんだろうな、と思われるでしょうね。

 二人して、もへへへへ。と笑う。

 岡山から笠岡へは各駅停車でことことと。駅ビルのスーパーで缶ビールに空豆でも買っていこうかしらんと思っていたが、やめといて良かった。高校生はじめ、地元の方々でほぼ満席という混み具合であった。

 笠岡。うーん、理想的に何も無い。取りあえずホテルに荷物を置きに行く。駅からホテルまでかなり距離がある上に、間にトンネルも挟まり、しかも蒸し暑い。ホテルに着く頃には既にへばりきっていて、カブトガニ博物館へはタクシーで行くことにした。酔狂というか風狂というか癲狂というか。

 カブトガニ博物館。うーん、理想的に何も無い。いや、博物館前には立ち飲み屋ねえさんご高教のままに、とりどりの恐竜たちが、それはそれはしづかにしづかにたたずんでおりました。

 予想はしていたけれど、客は当方唯一人。中傷してるんではなく、水棲生物好きには願ってもない状況。愉しみつつ丁寧に見て回りましたが、そして地元の方々の保護にかける熱意には敬服しましたが、しかしねえ、ひっくり返って脚をもぞもぞさせている恰好、実にどうも、地球侵略にいらした方々としか思えない。ほぼ確実だと思うのだが、あの悪夢の天才ギーガーはどこかでこの節足動物を目にして多大なインスピレーションを得たはずである。

 ひとつ勉強したこと。カブトガニの血液が海水中の毒素の有無を調べる有効な試薬になってるんですと。かなりの量を「献血」してもぴんしゃんしてるんだそうな。なんとなく可笑しい話である。天然記念物になってもまだまだ働かねばいかんのですな。

 暗くて静かで涼しい館内にいたためか、だいぶ恢復してきたので、帰りは海沿いの道を歩いて戻ることにする。その前に博物館裏の堤防を下りて、しばし散策。細かい石組みのそこここに潮だまりが出来ている。

 おこうこの一切れでもあったら一升は呑める、なんて言い方に倣えば、潮だまり一つで小半時は遊べる、という感じ。小魚や蟹やヤドカリや貝やイソギンチャクやらの生命が洗面器ほどの小天地で蠢動しているのを眺めていると、ふうっと気が遠くなる感覚に襲われる。恍惚とはこのことか。とはいえ、イソギンチャクに一々ふうっと気を遠くしていてはいつまで経ってもホテルにたどり着けない。

 陽射しはきつく道のりは遠かったが(四十分はかかったか)、地元の中学生がそこここで釣り糸を垂れたり水遊びをしたりしてるのはいかにものどかな眺めで、さほど退屈もせずに歩き通すことが出来た。

 ホテルでシャワーを浴び、短い仮眠。夕食の前に少しは笠岡の町も見て回るつもりで早めにホテルを出る。駅を降りた時の感想はさほど外れていなかった。それでも住宅地の真ん中に突如(という感じで)出現する多宝塔や銀杏の巨木、また石造りのモダンなデザインのパン屋とそれにつづくこれはまたえらく古風な町屋造りの並ぶ商店街など、半時ほどの散策には丁度良い。

 晩飯は町中で(国道沿いのチェーン系を除けば)ほぼ唯一開けているのでは、と思われる居酒屋。よく入っていたが、観光客はこちらだけで後は地元の人ばかりだった。

 「取りあえず一通りお出ししましょうか」の「一通り」は以下の如し。
○先付け…鱧の湯ぶきと海老の麹漬(この麹漬が、甘くなくて酒の肴にすこぶる宜しい)○造り…鯛・烏賊・真魚鰹(しゃっきり、しっとり、さっくりという食感の違いがまた愉しい)
○地蛸のマリネ
○ねぶとの唐揚げ…縦縞模様の小魚。他愛もないといえば他愛ないが、ほけーっとビールを呑みながらつまむのに最適。
○鱧の小鍋
メバルの煮付け…尤物はこれ。丸々肥えたのがでん、と皿にのっている。味付けも甘くなく、酒呑みには向いている。店の人が目を丸くするほど綺麗に身を余さず平らげました。

 地酒を置いている店で(特に岡山・広島というわけではないらしい)、魚がいいとなればこれで鯨馬が終われる訳も無く、この後蛸ぶつと貝の煮たのと、岩海苔と魚の入った雑炊を頼む。

 仕事やら天下国家やらのことを何にも考えないための旅だから、ほけーっと冷酒を呑んでいると、聞くともなしに周りの客の会話が耳に入ってくる。とりわけ愉快だったのは四人連れのオッサンたちで、これがエロ話や自慢話ならうんざりするところだが、オッサンどもは、先ほどまでチヌ釣りの仕掛けで盛り上がっていたと思えばにわかに話題を転じて、こともあろうに今度来たらしい神父の人柄月旦に移る。おまけに「司教様の服の着こなし」にまで至る。この聖俗の落差というか、いや結局は俗の俗なる辺りを周回しているような気もするが、ともあれいわゆる「オヤジ」連中とはえらく趣の異なる話ばかりで、最後にはなんだか神仙傳中の四人の酒宴に陪席しているような気がしてきた…のはさすがにこっちも酒が回ってきたのであろう。

 それにしても、酒をあれだけ呑んであれだけ食ってあの値段というのは、一体どういう仕掛けだったのだろうか(はじめ「料理を一万くらいで」と頼むと、「とてもそんなには無理」と断られたのだった)。そう言えば(というほどのつながりはない)カブトガニは食うならどのように料理すべきか。やはりあの泥臭さ(と思う)をどう抜くかが決め手だろうな…などと考えつつホテルに戻る。夜風が心地よい。ホテル近くにはその名も「のみやタウン」なるビルがあったのだが、一顧だにせず(いや一顧はした)セブンイレブンでかき氷とコーヒーを買って帰ったのは進歩したのか、退化したのか。(この項つづく)


ギーガーゑがく
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師匠傘寿

 MuogOTのシャルキュトリの会、海月食堂とピエールのコラボの会、初めて行った中華のcuisineなどで美味しい料理に沢山出会った(それにしても、出不精の人間にしてはイベント参加が続いた)。本も珍しく小説をよく読んだ。

 とはいう個人的に煮詰まったひと月だったので、長々と綴る気になれない。先日あった恩師の御祝いの会のことを少し記して今月の拙ブログの責めをふさいだこととする。

 恩師は今月で八十、傘寿である。弟子一同で祝宴を持とうという話が出ていたのだが、これは諸々の事情で取りやめ。代わりに師匠のお宅で連句の興行を行うことになった。

 ご自身はもう召し上がらないが、門弟は猩々連。「酒三盃を過ぐすべからず」の戒めもものかは、どっさり用意した酒肴を愉しみつつ歌仙を巻いていくのが吉例となっている。

 問題は誰が酒肴を準備するか、である。一門の料理番たる泰平庵主人こと綺翁さんから「今回は君と二人でするから」と通達があった時には、横で野菜を刻んだり鍋を洗ってたりすりゃいいんだなと暢気に構えていた。だから一週間前に「助手はボクのほうだから」と言われて、かなりあせった。たとえば茹でタンを作るにも、仮漬けして本漬けして、茹でこぼして、とするのに日数が足りない。そもそも師匠や先輩諸氏(鯨馬は最年少世代)にどんな料理を出せばいいのかとんと見当が付かない。前述のように煮詰まっている時期なので、アタマが回らない。普段なら献立を考えるといくらでも時間が過ぎていくのだが。

 とはいえ、綺翁さんが魚の仕入れは担当して下さるとのことで、二人でどんな魚が今いいか、とやり取りしている内に、だいぶん考えがまとまってきた。

 句会は五時から。当方は午前中から湊川の市場に出かけて食材を物色。時化のあと、しかも中央の卸が休場だということを失念しており、ネタの少なさに茫然とする。なんとか鮑と蚕豆は買えたので、急いで家に戻り下ごしらえ。綺翁さんとは二時半に芦屋で待ち合わせ、調味料などをそろえて師匠邸へ向かった。大車輪でこしらえたのは以下の品々。

◎蚕豆のポタージュ・・・豆のピュレを、蛤の出汁とトマトウォーター(みじんに刻んだトマトをざるに置いてしたませた汁)で伸ばす。生クリーム少々。三つも旨味が重なるから味付けは不要である。蛤の塩気で充分。刻んだ胡瓜を浮き実にして、ディルを散らす。

◎鮑のサラダ・・・鮑は酒蒸しにして角に切る(固くならないように蒸し汁に浸けておく)。茄子は縦縞模様に皮を剥いて輪切りにしたものをオリーヴ油で形を残すように炒める。赤・黄ふた色のパプリカは素焼きにしたあと、鮑と同じ大きさに切る。モロッコインゲンは柔らかめに湯がき、これも同じ大きさに。出す直前に、オリーヴ油・辛子・シェリービネガー・砂糖(少々)・胡椒のソースで和える。

◎烏賊の木の芽和え・・・綺翁さんが仕入れてきたのは、枕の如き甲烏賊。斜め十字に包丁を入れてそぎ切りにしたやつを半生に茹でる。和え衣は赤味噌・黒胡麻を摺ったもの・木の芽・粉山椒。烏賊の甘味を引き立たせるために、酒や味醂は入れない。また、もちもちした食感を残すために、大ぶりに切る。

◎チヌのソテー・・・フィレには軽く塩胡椒し、皮目を極低温で、皮がかりっとするまで焼き上げる。身の方は鍋肌に当てず、下からの熱だけで火を通す。ソースは、チヌのアラから作ったフュメで、炒めたマッシュルームと粒玉蜀黍をさっと煮て、クミンシードを加えたもの。

 あとは綺翁さんが焼き豚と手打ち蕎麦を持参。あと牛肉の塊を焼いたもの。慣れない台所だと、段取りを細かく考えるのでかえってスムーズに作れたようである。。

 句会のほうは、予想通りの高歌放吟杯盤狼藉。歌仙の出来はというと、ま、当方が捌き役として巻いてる連衆は、場数を踏んでいるだけあってやっぱり上手いなあ、と思いました。ともあれ、師匠も奥様もお元気そうで、本当に良かった。参加者全員がそれを心から喜んでいるという雰囲気が、とても心地よかった。
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螢の火

 職場から家まで歩いていて、途中の宇治川の河原に蛍が飛んでいるのを見つけた。初めは一匹しかいなかった、というより見つけられなかったけれど、しばらく眺め入っているうちに、少しずつ数が増えていく。水の流れる音と相俟っていかにも涼しげ。リズムがあるような、無いような間隔で明滅する趣がよろしい。とはいえ、今みたいに街灯も部屋の明かりもなく、車の走る音も聞こえてこないところで、黄緑いろの光が乱舞するのに出くわしたらどうだろう。綺麗な眺めと嘆賞するまえに、首の後ろの毛が逆立つのではないか。和泉式部の例の歌、自然に疎い現代人の想像する優美な場面であるよりは、鬼気迫る絵柄と言ったほうがいいのではないか。ましてあの光を自分の魂の一部と見ている訳だし。李賀『蘇小小の歌』の「冷翠燭/勞光彩」に「鬼火」という注が付いているのに首を傾げた覚えがあるが(たしか岩波の中国詩人選集)、なるほど蛍火=鬼火は実景なんだな、それにしても李賀の手にかかると、ことばひとつひとつが妖しい、冷艶な煌めきをもって粒立ってくることよ・・・などと考えながら川沿いにさらに遡る。


 本の話は月末にまとめて、というスタイルにここしばらくは落ち着いている。、なにせ本を読む合間には仕事もしないといけないし(今回の年度替わりはむやみに忙しかった)、絵を見に行ったり、酒を呑んだり、サワガニの世話をしたり、ラッキョウを漬けたり、『トロピコ5』をやったり(独裁者シミュレーション。どす黒い設定のシナリオが、ラテンの軽快な音楽に合わせて展開される大層愉快なゲームです)、評判記を書いたりせねばならぬ。


 最後の「評判記」には注が必要ですね。元は江戸時代、役者や遊女の藝や特色を批評した書物のこと。「大極上上吉」なんて評される。料理屋も批評の対象になったから、まあ、ミシュランガイドの江戸版と見てよろしい。後にはカタい儒学の先生連中も「評判」されたというのがのんびりした時代らしくて面白い。


 それはともかく。私が書いている評判記はそういうものではなく、仲間と巻いている歌仙、つまり連句のまとめのこと。「誰某の句、上上吉」なんて具合に採点したのでは色々差し障りがあるから(ミシュランで星の数を落とされた料理屋の主人はさぞ恨んでいることだろう)、私と仮構の人格(六甲山人)とのおしゃべりという形で進んでいく。軽口冗談の連発で、書いている方も楽しんでいる。読む人には消閑の具としてもらえたらそれで充分だが、少しは真面目に、連句について、敷衍して詩について、さらに敷衍して文学について思うところを述べることもある。


 何の話だったか。そう、久々の歌仙で張り切って評判記を書いてると、ついつい鯨飲馬読の方が怠りがちになる、という話でした。


 ともあれ、今月読んだ本。


○ホフマン『砂男 不気味なもの』(種村季弘コレクション、河出文庫)・・・ホフマンのテクストをフロイトが読解し、その読解を種村さんが批評するという、文庫ながら凝った造り。こちらにもいささか被視に関して強迫観念の気味合いがあり(たとえば石の中に眼が埋もれていて、石の内部からこちらに視線を放っているというもの)、二十年ぶりかで読み返した『砂男』はやっぱりコワかった。
○『個人全集月報集 武田百合子全作品森茉莉全集』(講談社文芸文庫
○テリー・イーグルトン、マシュー・ボーモント『批評とは何か イーグルトン、すべてを語る』(青土社
○タヌーヒー『イスラム帝国夜話 上』(森本公誠訳、岩波書店)・・・イスラム版「今昔」というところ。ある貴人が亡くなったあと、遺骸を安置しているところにオオトカゲが来て死者の目玉を食ったというだけの話もある(またもや目玉!)。いかに巧く立ち回って商売でもうけたか、なんて話が多いのもイスラム圏らしい。
オギュスタン・ベルク『理想の住まい  隠遁から殺風景へ』(「環境人間学と地域」、鳥海基樹訳、京都大学学術出版会)
白輪剛史『パンダを自宅で飼う方法』(文春文庫)・・・レッサーパンダが飼いたい。
○アダム・ハート=デイヴィス『シュレディンガーの猫 実験でたどる物理学の歴史』(山崎正浩訳、創元社)・・・物理学でも哲学の思考実験でもいいけど、実験そのものの発想の枠組を記述するような、いわば「実験学」なんてのはないのかしら。
池内紀『世間をわたる姿勢』(「池内紀の仕事場8」、みすず書房
○尾関幸・陳岡めぐみ・三浦篤『19世紀  近代美術の誕生、ロマン派から印象派へ』(西洋美術の歴史7,中央公論新社
北村一夫『落語風俗事典 上下』(現代教養文庫)・・・引用に徹しているので便利。
吉村昭『魚影の群れ』(新潮文庫)・・・鼠の大群と死闘を繰り広げる「海の鼠」がコワい。
○ヘルマン・シュライバー『沈みゆく海上都市国家史 ヴェネチア人』(関楠生訳、河出書房新社
○阿満利麿『日本精神史 自然宗教の逆襲』(筑摩書房
○ロバート・カニーゲル『無限の天才 夭折の数学者ラマヌジャン』(田中靖夫訳、工作舎
東京芸術大学大学美術館ほか編集『驚きの明治工藝』(美術出版社)
氏家幹人『大江戸残酷物語』(歴史新書、洋泉社
井上泰至編『俳句のルール』(笠間書院)・・・実作者と研究者の「コラボ」。
○ジョン・K・ガルブレイス『アメリカの資本主義』(新川健三郎訳、白水社
渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社)・・・世代別に横割りにして語る形式。現代歌舞伎がいかに自意識を求められるものか、それを理屈ではなく、様々な「型」の自在な記述によって分析できるひとは他にいない。
バルバラ・グラツィオージ『オリュンポスの神々の歴史』(西塔由貴子訳、白水社)・・・古典期からして既に、オリュンポスの神さまたちは民衆の嘲弄の対象になっていた。それでもキリスト教中世を生き延び、ルネサンスで華々しく復活(という単純な見方を筆者は批判するのであるが)、と見ていくとギリシャの神も相当したたかだなあ、と思う。

 今月は何よりも、東洋文庫で出た『柏木如亭詩集1』。如亭研究の第一人者である揖斐高先生の校注。実質的な全集に近い。ゆっくりゆっくり愉しむつもり。
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神も仏もある世界

 古本市などで四天王寺には割合行くけど、天王寺公園の方は随分久しぶり。花博の跡地が「天しば」なる施設に改装されていた(のを初めて知ったくらいのご無沙汰)。名前の通り芝生が長く伸びているだけで、へんにアトラクションなど置かなかったのが気持ちいい。陽光の下、老若男女がのんびり緑の上でくつろいでいる。ここら辺もだいぶん雰囲気変わった・・・と思ったが、帰りしに通った地下街の入り口ドアの注意書きにいわく、「売春の客引き禁止」。やっぱり本質は変わってないのであった。


 目当ては大阪市美術館の『木×仏像展』。「飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年」という副題が付く。樹木の聖性については一度本ブログでも感想を綴ったことがある(「王としての樹木」)。ブツオというほどの仏像好きでもない人間が大阪くんだりまで出かけたのはひとえに「木」に惹かれたからだった。


 概ね制作年代順の展示。いちばん面白く観られたのは二番めの部屋で、ここには八〜十世紀の作が集められている。ごく初期の仏像の尊容はアフリカやユーラシアの女神像に近く、古拙な造作がむしろ、「聖なるもの」を直接的に感得するためのいわば依り代としてふさわしい。それに対して江戸はおろか平安でも後期の像になると、技芸の細緻になった分、聖性より人間的な暖かみが見る者には印象づけられる。その中間にあたる八〜十世紀では、ホトケの超越性と樹木の霊性が均衡、というより拮抗している感じ。と書くとまことに荒っぽい分析で恐縮ですが、たとえば唐招提寺の木像薬師如来立像。がっしりした体躯を翻波式の衣文が包む。特徴的なのは顔つきで、礼拝(見物)する者の視線を厳しく退ける。といっても、聖林寺十一面観音像のように人間世界から超絶した異空間に浮遊しているのではなく、彼岸の存在としか言いようがない何かが、しかし生々しくここにあって、そして我々のまなざしと彼のまなざしは決して交錯することがない、そういう趣なのである。「救いは確実に存在するのだが、しかしそれは我々のためではない」(カフカ)とでも言おうか。


 それにしてもこの、ほとんど重苦しいほどの存在感。塑像や金銅ではこうはいかなかっただろう。すなわち山中にすっくと立って営々と生の歳月を重ねてきた樹木だからこそ、圧倒的な力の放射を感じられるのだろう(この薬師はカヤの一木造)。


 収蔵する寺といい、八世紀という年代といいやはり天平文化に分類するのが実証的には妥当なのだろうが、受ける感銘は次の弘仁貞観期の仏像のそれに酷似する。と同時に、自分が弘仁貞観仏に一等惹かれる理由も何となく分かったような気がする。日本文化史において、超越はこの時期、確実に認識されていた。何も荒野を覆う天空の彼方にいる神だけが超越的存在というわけではない。


 ロビーには、木彫の材料となる種々の木の見本が展示されており、面白い。槐や桂の木目のうつくしさは息を呑むほどである。こういう木で食卓や椅子を作れたらなあ、と考えてしまう末世濁世の不信心の徒。


 美術館を出たのは昼過ぎ。大阪に出る前、三宮『こおり屋bambu』で枇杷のかき氷を頂いた(竹中さん、ご馳走様でした)。きめ細やかな氷といい、枇杷のコンポートのさわやかな香りといい、充実したものでした。甘さは控えめなのに、なんだかお腹がいっぱいになった。夕方までもう少し歩いて腹を減らそう。


 という魂胆で、美術館隣の天王寺動物園へ。二十年くらい来てないのではないか。五月の昼下がり、人間も気だるくなる時間帯に、人間よりはるかに優雅な獣たちは大方昼寝の最中。元気よく動き回ってる姿も無論いいが、だらーんと伸びている恰好はこれで結構見物になる。個人的には大好きなレッサーパンダのしどけない寝姿を見られて満足。ひとり(?)チュウゴクオオカミの若いのが水場でばしゃばしゃと跳ね返して気を吐いていた。


 展示休止の檻も多く、また全体になんとなくくたびれたような印象だったが、植栽にはかなり気を配っているのではないか。整えすぎて白々しくもなく、投げやりな感じも与えずに上手に樹木が配置してあって、ぶらぶら歩くのに丁度良い按配。まあ、のんびり回っていて、時折JRやら阪神高速やらの轟音が文字通り天から降ってくると一気に索然となるのであるが。


 夕食は神戸に戻って、元町の焼き鳥屋に入る。竹中さんが昨日(正体を隠して)食べに行ったとのことで、『いたぎ家』で遭遇した竹中さんに教えてもらったのである。種類も多く、焼き加減もよろしく、なにより小体なので落ち着いて食べられる。今度ぜひ焼き鳥好きの友人を連れて行こう。

 日中陽の下を歩き回ったせいか、冷酒六杯飲んだら一気に疲れが出て、どこにも寄らず家に帰って熟睡。ま、健康的な休みということになるんだろうな。

気を吐いてます。
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せせらぎ、始めました。
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