大楠公と大阿利襪

 「第四三回東西落語名人選」(神戸文化ホール)。


柳家三三「もと犬」
○笑福亭仁智「老女A」
柳家さん喬「棒鱈」
桂福團治悋気の独楽
 中入り
月亭八方「高津の富」
柳家小三治粗忽長屋
という番組。


 さん喬師=歌がうまい。福團治師=御(ご)寮(りよ)人(ん)さんが丁稚を問い詰めるところ、「嘘ついたら、血ィ吐いて死ぬし」のせりふ。「死ぬし」が可笑しい。落語はやっぱり、ことばだなあ。八方師=鳥取在の親爺の小ずるいところが良く出ている。噺家の像と重なってるんだろう。小三治師=志ん生ならシュールな味わいになるところ、江戸ことばのやり取りが妙にリアルで可笑しい。ともあれ小三治さんがお元気そうで何より。


 小三治さんが、噺の前に「もう四三回ですか・・・」と、阪神大震災直後の手弁当での公演(文化ホールは壁に損傷があって公演不可だった由)や、春團治の生前の思い出をしっとりと語っていた。


 こちらも、志ん朝の「へっつい幽霊」が素敵に面白かったなあ、と思い出す。


 公演の後はすぐ南の湊川神社で開催中の「KOBE OLIVE NEXT150」なるイベントをのぞいてみる。明治の初め頃、北野にオリーヴ園があったのは知っていたが、園中の一本とおぼしき樹が楠公さんの境内に移植されていたとは初耳。あまり詣でることが無いお宮だからなあ。


 さて、何よりもまずオリーヴを見る。ビルの二階を越しそうな高さに驚く。オリーヴの老樹は佶屈として横に匍うように伸びるものとばかり思い込んでいた。実もびっしり生っていたけれど、現在ゾウムシの被害にあって治療中とのこと。樹勢が戻ったらまた見に行きたい。いいものを教えてくれた。


 主役たる橄欖翁の周囲にはしかし、ほとんど見物客はいない。みな白やら赤やらワインの入ったグラスを手に、屋台を回っている。こちらも昼酒すべいか、と歩いていくと、「海月」の岩元夫妻に声を掛けられた。ランチ営業の後来たのだそうな。二、三時間後には店を開けるというのに元気ですなあ。


 スブラキとギリシャの白、鶏肝のコンフィとスペインの白などでちびちびやりながら、敬士郎さん夫妻としばし談笑。木曜日には夫妻と遊ぶ予定なので、その打ち合わせもする。


 夕景、「海月食堂」でマッタケと鱧の春巻やら秋刀魚燻製と茄子の和えそばを堪能したことは申すまでもございません。

小野佐和子六義園の庭暮らし  柳沢信鴻『宴遊日記』の世界』(平凡社
○高津孝『江戸の博物学 島津重豪と南西諸島の本草学』(ブックレット「書物をひらく」、平凡社
○平野惠『園芸の達人 本草学者・岩崎灌園』(ブックレット「書物をひらく」、平凡社
○近藤三雄・平野正裕『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化 : 秘蔵資料で明かされる、現代園芸・緑化のルーツ』(誠文堂新光社
○菅野博貢著・写真『世界の庭園墓地図鑑 歴史と景観』・・・何かというと「世界一○○」という形容が出てくるのが耳障りという欠点はあるにしても、常に現代日本での葬儀・埋葬事情に還元して現実的な提案をしているのは、良い。鯨馬はオークか胡桃か(オリーヴ)の下に埋めてほしいなあ。
○山田雅重編『日英ことわざ文化事典』(丸善出版
ジェシーベーリング『なぜペニスはそんな形なのか ヒトについての不謹慎で真面目な科学』(鈴木光太郎訳、化学同人)・・・訳者が言うとおり、「生煮え」の論考多し。自分がゲイ、という言及も多過ぎ。ゲイだろうがヘテロだろうyが、自分の性的嗜好をしつこく言いつのるのは如何なものか。
○ジョン・コーンウェル『ヒトラーの科学者たち』(松宮克昌訳、作品社
★保苅瑞穂『モンテーニュの書斎 『エセー』を読む』(講談社
○桃井治郎『海賊の世界史 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで』(中公新書
宮田昇『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社
ジーン・ウルフ『書架の探偵』(酒井昭伸訳、早川書房

★・・・今回のイチ押し。

 

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人に告ぐべき鰯雲

 九月に入った途端、近年の長い長い残暑に慣れた感覚からすれば嘘のように清爽な気候に切り替わった。おまけに義理堅くも鰯雲さえ浮かんでいて、こんなに順調に秋になってもいいものかしらん、と思っていると、案の定翌週には蒸し暑い空気が戻ってきたのになんとなくほっとする。こういうのは悲観主義というのでしょうか。貧乏性? それも変か。


 ペシミストだろうがニヒリストだろうが、乾いた風の快くなかろうはずはないので、友人のまると二人、夕景から深夜まで飲み歩いていた。日本には度々来てるようだが、こちらが会うのは久しぶり。久闊を叙し、ドラクエの進捗状況を確認し合い、最近出会ったいける本・食い物の月旦に及ぶ。池内恵氏がいい仕事をしている、とは二人の一致した感想だった。


 この日は(も)海月食堂で敬士郎シェフお任せのコース。「最近ハマってる店に連れてけ」というリクエストだったら、まあ、そうなるわな。

○前菜・・・ザーサイ、フカヒレ軟骨とラディッシュのマリネ、しめ鯖(鯖のマリネというべきだろうか)、ゴーヤとミニトマトのピクルス、よだれ鶏、牡丹海老の紹興酒漬け、神戸ポークの塩チャーシューとクリスピー焼き、すだれ貝と秋刀魚の燻製
○揚げ物・・・帆立と蟹のすり身(バジルソース)、松茸の太刀魚巻
○スープ・・・干し海鼠と雲南ハムの酸辣湯
○海鮮・・・淡路産鮑の塩炒め
○焼き物・・・神戸ビーフのステーキ
○蒸し物・・・冬瓜で巻いた海鮮二種(蟹と、鱧・松茸)
○食事・・・フカヒレあんかけご飯

 まる氏は一週間ほどかけて広州と香港を回ったそうな。羨ましい。長期休暇は中華食べ歩きとするか。


 季節は実は関係ないのだけれど、涼しくなると読書が捗るような気がする。


○ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(不二淑子訳、太田出版)・・・自分に小説の才があれば是非書きたいな、と思っていた材料のひとつ。研究書としては、ま、ポスコロの模範的解答というとこでしょうか。
林望『役に立たない読書』(集英社新書)・・・翻訳や現代語訳は自分は読まない、と切り捨てながら林望訳『平家物語』の訳文を堂々と引いているのは冗談なんだろうか。毎日の書評で褒めてたけど、リンボウ先生の本として推したくなるものではないと思うよ。
○『世界自然環境大百科 ステップ・プレイリー・タイガ』(朝倉書店)・・・ステップの途方もない肥沃さ。地味(ちみ)が文明のあり方を決める、とさえ考えたくなる。
大澤真幸『世界史の哲学 近世篇』(講談社)・・・相変わらずキラキラした文章。
○ローズ・トレメイン『音楽と沈黙 上下』(渡辺佐智江訳、国書刊行会)・・・前作『王と道化』の玲瓏たる趣はない。音楽がもたらす霊的な陶酔を描き抜けなかったところに問題があるか。思えば『ラモーの甥』はそこらへんを巧く処理していたのだ。
○フィリップ・フォレスト『シュレーディンガーの猫を追って』(沢田直・小黒昌文訳、河出書房新社
○ルイス・ハラ『日系料理 和食の新しいスタイル』(大城光子訳、エクスナレッジ)・・・案の定、というか韓国系も(日本で言うところの)エスニックもごちゃ混ぜになっている。アジア的混沌というところか。
板坂則子『江戸時代恋愛事情 若衆の恋 町娘の恋』(朝日選書)
○『橋本治歌舞伎画文集 かぶきのよう分からん』(潮出版社)・・・絵がうつくしい。河内屋の三代目とか、気に入ったのを額装したくなる。
服部幸雄編『歌舞伎をつくる』(青土社)・・・大道具や小道具などから見た歌舞伎演出論。
○小谷喜久江『女性漢詩人原采蘋詩と生涯 孝と自我の狭間で』(笠間書院
川本三郎老い荷風』(白水社
○マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか 250万年の愛と妄想のはてに』(小野木明江訳、インターシフト、合同出版発売)・・・ベジタリアンについてはしつこいぐらい言及するのに、魚食についてほとんど触れることがないのはどう考えても片手落ちでしょう。多種多様な角度からどんどん仮説を立てては投げ捨ててゆくというスタイル(当然結論は出ない)。ま、神戸ビーフのステーキ食べた後からすれば、結論は明白で、「それは旨いからである」。
○ルース・グッドマン『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで 上下』(小林由果訳、原書房)・・・紹介された話からひとつ。当時共稼ぎが多かった中流下層の家庭では、家に置いていく(預けたり子守を雇う余裕は無い)乳児をおとなしく寝かしつけるのに、アヘンチンキ入り(!)のシロップを飲ませていたらしい。大学で専攻した人間としては、自然と同時代たる我が江戸文化と比較したくなるのだが、どうも江戸に軍配が上がるような気がする。江戸人のほうが合理的だったというわけではない。同じように迷妄に囚われていても、それを「文明の進歩」「下等民族の解放」などというイデオロギーと結びつける傲慢があるかないか、という点である。
ウンベルト・エーコウンベルト・エーコの小説講座 若き作家の告白』(和田忠彦他訳、筑摩書房)・・・書名通り、じつに若々しい講義(全篇にあふれる、「もひとつ」なユーモアもまた好もしい)。『薔薇の名前』一冊でも充分に明瞭だが、やっぱりエーコさん、「列挙」が好きで仕方なかったんですね。
安藤礼二・若松栄輔責任編集『増補新版 井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』(河出書房新社)・・・当方の井筒体験のはじめは中公文庫『イスラーム思想史』。高校世界史の授業でイスラームに興味を持って買ったが、読み始めてすぐに鎧袖一触で撃沈。「こりゃいかんわ」と講談社学術文庫マホメット』に。それでファンとなり、次いで書名に惹かれて買った『神秘哲学』は意外にもするすると読めて(無論内容が軽いわけではない)、そこからエリアーデやエルウィン・ローデなどにも手を伸ばしていったのだった。つまり、こちらにとっては「根源」の思索家というよりは、スケールのやたらとデカいそして、強烈な個性を持った啓蒙家、とはつまり最良の教育者として井筒俊彦は映っていたことになる。あまりにも深遠な思想家とてのみ語られがちなので(それはそうなのだが)、極私的な感想として申し添えておいた次第。

 

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夜泳ぐ

 須磨水族園の夜間営業へ。平日を狙っていったので、人は予想どおり少なめ。ゆっくり見て回った。アクアリウムの権威・中村元氏のように「この水族館の特質は・・・」なんぞと語る資格は無いけれど、ここは展示の方法やキャプションの文章が、巫山戯すぎず、かといって堅苦しくもなく、いい按配だと思う。もっとも説明を丁寧に読んで、魚介どもを心を込めて眺めている殊勝なやつなど、見回す限りでは居りません。いずこも同じスマホの撮影大会である。オバハン(乃至バアサン)三人が高価そうなカメラで海月をパシャパシャやって、なかなか水槽の前をどかないのには閉口。後でお互いの写真を見せ合って喜ぶのだろうか。ご同慶の至りと申すほか無なし。

 うっとりと眺めていると、「あっ、ここにショータの好きなシノノメサカタザメおるよー」と叫ぶ若い母親がいてずっこけた。最近シノノメサカタザメが流行りなのか。たしかに優美で魅力的な魚だが。

 「スマスイ60周年」の歩みの展示なぞを観ているうちにイルカショーが始まったらしく、館内から一気に人気が無くなる。当方はここを先途とお目当ての水槽を巡って歩くわけです。御年四十(!)歳にあらせられるガーの正面からのあくび顔や肺魚の呼吸の瞬間、もつれあったままひたすらじーっとしているオオアナコンダなど、存分に愉しんで園を後にした。もしわたくしに八百億円の宝くじが当たったならば、一日、当然夜も含めて水族園を借り切るであろう、と思った。

 周囲にもう少し食べるところがあるといいんだけど(友人が教えてくれた蕎麦屋はしまっておりました)。

 さて、八月最後の読書録。火星が飛ぼうがイルカが跳ねようが、本は読み続ける。と偉そうにいう量でもないが。


○武田尚子『ミルクと日本人』(中公新書)・・・初期の頃、お相撲さんが宣伝役に使われてたというのが可笑しい。
森まゆみ『暗い時代の人々』(亜紀書房)・・・文体が何だか強張っているように思うのは僻目か。題材ゆえに、というのではなく読むのがしんどかった。
○橋本毅彦『図説科学史入門』(ちくま新書
○大浦康介編『日本の文学理論 アンソロジー』(水声社)・・・結果的にはほとんど読んだことのある文章だった。それはともかく、詩論の部で、担当者(若い研究者)が「近代日本の詩論は《いい詩とは何か》に傾くきらいがある」ということを書いていた。「純粋に」詩の本質を追究する論考が無いということなのだろうが(明らかにそれを残念がる口ぶり)、世間(ここでは文学の現場という意味です)知らずの学者馬鹿の「研究論文」ならともかくも、詩人や(詩の分かる)批評家が書く文章に「詩はどうあるべきか」という問いの含まれないはずがなかろうが。当方が思いつく限りで、一等「純粋に」詩の本質を考究したのはエミール・シュタイガーだと思うが(『詩学の根本概念』)、そのシュタイガーにしたって、訳者の高橋英夫の表現では「ポレミック」な姿勢が明白なのだ。文学部無用論の喧しいご時世、こういう太平楽に接すると「結構なお道楽で」と言いたくなる。
四方田犬彦『漫画のすごい思想』(潮出版社)・・・時折「よっ!」と声を掛けたくなる名文句は出てくるものの(「つげ義春を論じる者はつげ義春を読まない者である」)、全体としては達者すぎる、ほとんどいかがわしいくらい達者な分析。この無表情さは何かのレトリックなのだろうか。
○ヴァーツラフ・フサ編著『中世仕事図絵 ヨーロッパ、「働く人びと」の原風景』(藤井真生訳、八坂書房)・・・以前紹介した、グレゴリウス山田氏の『ハローワーク』に刺戟されて読んだ本。中世ヨーロッパ(ただし資料はボヘミア周辺に限定)の人間にとって労働が神聖なものであったことがよく分かる。労働は呪いと考えている人間にとっては新鮮な驚き。
菊池良生『ドイツ三00諸侯 一千年の興亡』(河出書房新社)・・・高校で世界史を教わった時、神聖ローマ帝国の扱いがどうにも不得要領で困った覚えがある。今以てよく分からない。何故分からないかが、この本でよく分かった。こんな滅茶苦茶な「帝国」(なんと厳粛かつ滑稽で愛嬌のある帝国であることか)を教科書的に整理して叙述できるはずがない。著者の文章、かなり張り扇調が強く、そもそも日本語として意味の通じがたい箇所も散見されるが、ともかくエピソードの宝庫。
○『中井久夫 精神科医のことばと作法』(KAWADE夢ムック 文藝別冊)・・・随分前に拙ブログで、中井久夫先生=ルネサンス期のジグナトロギー(表徴術)の導師という見立てを披露したことがあった。この一冊を読み終えて、自分の直観が誤っていなかったことを喜ぶ。
スティーヴン・ミルハウザー『木に登る王 三つの中篇小説』(柴田元幸訳、白水社)・・・ドン・ファンを主人公にした一篇がいい。快楽の都ヴェネツィアで、女たちがあまりにたやすく誘惑され征服されることに倦んだドン・ファンが同地で知り合った英国人の邸宅に赴く。そこには当主の妻とその妹がいて・・・。途中、フォースターを連想させるような描写もあり、いろんな愉しみ方が出来る小説集です。
橋本治橋爪大三郎『だめだし日本語論』(atプラス叢書、太田出版)・・・当方、橋本治の本は出る度に読んでいるから、橋爪氏が橋本治を褒めあげるのは嬉しく読むのだが、全体を通してなんだか橋爪氏、タイコモチのようでもあり道化でもあり、なんだか可笑しくて仕方なかった。最近、この方、いささか軽量級の仕事が多いんちゃうかしら。

 

 

 

 

絶滅系男子

 今にも絶滅しそうな(あるいは既にしている)古風なヤマト男児のことに非ず。塩素系漂白剤を使いまくって菌どもの絶滅にいそしんでいるという意味。

 潔癖というほどでもないけれど、独り身で格別な資産も無い人間にとっては食中毒やら何やらで自分が倒れたら一巻の終わりであるから、梅雨時分から秋が深まるまではやや神経質になる。

 基本は自炊で、「お弁当男子」でもあるから(「子」ではねえわな)、台所は殊に念入りに消毒する。食器でもまな板でもフキンでも、洗い物のたびに浸けてしまう。風呂にも使う。トイレにも使う。クーラーの手入れにも使う。至る所に撒いている。朝から晩まで拭いている。一人暮らしでハイターのデカボトルを使っている人間はそうそういないのではないか。日曜など、念入りに掃除している日は家中にジムのプールみたいな匂いが立ちこめて異様な雰囲気(換気はしています)。

 そのうち塩素耐性を持った菌に進化しないかと、それだけが心配の種であります。

 さて漂白剤にて磨き上げた(?)台所では、今夏は何せオクラと茄子をよう使いました。揚げたり煮たりももちろんするけれど、ペースト状にしたのが旨くて、何度も作った。オクラは湯がいてミキサーに。茄子は焼いてもいいが、皮を剥いて炒めたのをペーストにするとなおよろしい。前者はカツオ出汁で伸ばす(味付けは醤油ではなく面倒でも煎り酒を作っておいて、使うのが合う)。そのまま吸ってもよし、湯がき立ての蛸ぶつにからめてもよし。茄子のペーストは、木耳・豆など精進の和え衣として使うと、茶味のある趣向のひと品になる。もっと手をかけるなら、このペーストに豚挽肉やマッシュルームを混ぜ、大ぶりの茄子を縦割りにして中身を半分ほどくり抜いたのにつめて揚げたり焼いたりする。

 「鰯の皮肉煮」てのも作った(命名鯨馬)。鰯を煮ますね、あの時に醤油を使わず鰯の塩辛で味付けをするのです。当方は金沢は片町の鰯専門店で仕入れたペーストを愛用している。

・・・以上は素人料理。玄人のほうでは、昔の教え子・今友人のユーキと食べた『海月』のお任せと、仕事の山を片付け了えた日に行った『MuogOT』の、やはりこれもお任せ。同じく店に食べに行くならこういう料理でないと!というものでした。

 FBでも載っけたけど、記録としてここに献立を再録しておきましょう。

【海月食堂】
○前菜の盛り合せ・・・鰻と山椒の自家製カッテージチーズ和え(これは中華なのか)が旨かった。
○明石蛸のトマト煮とチーズの春巻
○伊勢海老の豆乳マヨネーズソース
○栄螺の炒め物・・・こりこりとぬるぬると、あっさりと濃厚と、いろんな要素がひと皿に。ユーキ氏もコーフンしたおりました。
○猪とパクチーの自家製ソーセージ
○天然小鯛の茶碗蒸し・・・猪と家鴨の合間にこれを挟むのが献立の緩急。
○家鴨の舌と香味野菜の炒めもの
○伊勢海老の煮込み麺
※一見して分かる通り、酒呑み向けの組み立てである。猪のソーセージや家鴨の舌等、こちらの好物をアクセントに配しているのがじつに心にくい。

【MuogOT】
○鶉のガランティーヌ・・・中にフォアグラとピスタチオ。
○エマルジョン(乳化させたボローニャソーセージ)と酸味を効かせたポテトサラダ
○45種類の野菜を使ったサラダ・・・言うまでもない、MuogOT名物。ひとつひとつローストしたり煮たりしているので、最後まで飽きずに食べられる。またそれを、あのデカい前田シェフが背を屈めてちまちまちまちまと盛り付けているかと思うと余計に愛おしい。ふと思ったのだが、肉より魚より、野菜こそが一等食感にかけては豊かな素材なのではないか。
○本日のシャルキュトリ・・・豚ロースの生ハム。豚は結局あぶらが一番ウマい。いい肉を丁寧に仕上げてるから、口に入れたときのぺちゃんと貼り付くその猥褻な感覚がたまらんのです。
○椎茸のソテー・・・もちろんこの店のことだから、たっぷり肉やらハムやらのダシを吸わせて焼いている。
○「豚丼です」・・・と言って前田さんが出してきた。はて、こちらの炭水化物ぎらいはご存じでしょうに・・・と怪訝に思ってシェフの表情を伺うに、目に悪戯めいた光が。米粒型のパスタをリゾット風に炊いて(ベースはコンソメ)、上から豚のソテーでくるんだ日料理なのであった。
○神戸牛ブリスケの煮込み・・・上等のスープで低温で24時間煮込んだのだという。あぶらの軽いこと。そしてまた、低温だから肉質のしっとりした風合いの具合のよいこと。
※前田シェフと会うのは久々。ということで、藤岡マスターが気を利かせてくれたのか、「本日は前田スペシャルでお出しします」という趣向だった。

 自分の好みを知悉してくれている店はいいもんですな。あとは腰掛け割烹でこういうとこがあればいいのだが。

 


 今月は盆休みも関係なく仕事を片付けていたので、あんまり読めていない中からの報告。
○エルネスト・グラッシ『形象の力 合理的言語の無力』(原研二訳、白水社)・・・高山宏セレクション「異貌の人文学」叢書の一冊。よっ、高山宏
○西野順也『火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで』(築地書館
○香田芳樹『魂深き人びと  西欧中世からの反骨精神』(叢書魂の脱植民地化、青灯社)
佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』(KADOKAWA)・・・結局今新刊出るたびに読む唯一の日本の小説家となった。
○宮内泰之監修『里山さんぽ図鑑』(成美堂出版)・・・里山を散歩なんぞしている閑暇の無い人間は、寝酒をちびちびやりながら、植物の写真を眺めていい気持ちになる、という使い方をする。
杉浦日向子『江戸の旅人 書国漫遊』(河出書房新社)・・・書評集。全体にどこかせわしなげな口調が切ない。
フレデリック・ケック『流感世界 パンデミックは神話か?』(人類学の転回叢書小林徹訳、水声社
西南学院大学聖書植物園書籍・出版委員会編『聖書植物園図鑑 聖書で出会った植物たちと、出会う。』(丸善出版発売)・・・イスラエルを散歩なんぞしている閑暇の無い人間は、寝酒をちびちびやりながら、植物の写真を眺めていい気持ちになる、という使い方をする。
○ジャン=クロストフ・ビュイッソン、ジャン・セヴィリア編『王妃たちの最期の日々 上下』(原書房)・・・ヨーロッパだと、王妃も遠慮会釈なくギャクサツされてしまうのだなあ。
○気賀澤保規『則天武后』(講談社学術文庫)・・・上記の本を読んだ後に読むと感慨ひとしお。歴史学者がこーゆー書き方して大丈夫ですか?と他人の頭痛を疝気に病みたくなるほど面白い。でもやっぱり、書名は『武則天皇帝(女帝)』のほうが良かったと思うな。
○アイリアノス『動物奇譚集1』(西洋古典叢書、中務哲郎訳、京都大学学術出版会)・・・ベッドにひっくり返って、適当にあちこちを拾い読みするのに最適な本。大学出版会らしからぬ瀟洒な装幀。

プロとアマ

  日曜日は『播州地酒ひの』さんで奥播磨の会、水曜日は『海月食堂』で敬士郎さんの料理を堪能する会と、出不精には珍しく立て続け。

 蔵の方からは「大吟醸でも、一通り食べた後でなおかつ美味しく呑んで頂けるように作っています」と説明があった。逆に言えば酒のほうでも料理を選ぶことになるわけで、淡い味付けばかりだとかえって酒を重苦しく感じてしまうことになるはずである。日野親分の料理はさすがに勘所を抑えたもので、「あれ、いつものとなんかちやう……」と思うと、それらはみないわば奥播磨シフトなのであった。造りの出し方から、粕漬(あっ、と言わせる選択)まで、間然する所がない組み立てでした。

 『海月』はバイキング方式。少しくせわしないところはあったが、ほとんどはひとりで中華の店に行く(中華だけではないけど)人間にはこれだけの品数があることがまず嬉しい。アコウの清蒸の加減も良かったし、モツの山椒炒めも怪訝なくらいすっきりした仕上がり。なかんづく家鴨の舌の燻製の嬌艶たる食感・・・じゅるる。何品かは定番メニューに入ることを切に希望する。

 二日とも、プロの料理人の凄さに舌を巻く思いでありました。当分は人様をお招きして振る舞うなんて出来ないね、やっぱり。日野親分が、色んな人に引き合わせる毎に「素人の身で、料理人を家に呼んで料理出したヒトです」と古傷に塩豆板醤酢に赤チンを塗り込むような紹介をして下さるものだから、中々立ち直れないのですね、こちらとしては(時々夜中に思い出して「ワーッ」と叫び出したくなるのだ)。

 と袖をしぼりつつ、焼き穴子と三つ葉の山葵和えで冷酒をあおる。

 本のことも書いとかなきゃ。ずいぶん間があいてたまってますから、また間に何やらかんやらあったのでいつも以上に雑駁な紹介になると思います。ともあれ

○サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち 臣民から市民へ 上中下』(栩木泰訳、中央公論社
ゴーゴリ『鼻/外套/査察官』(浦雅春訳、光文社古典新訳文庫)・・・原作の語り口を生かすために落語口調を採用した、と訳者あとがきにある(初めての試みではないらしい、へえー)。達者なものですが、しかしグロテスクなユーモアを醸し出すなら、一見素っ気ない無表情な訳文のほうがよりふさわしいのではないか。名人の噺家がにこりともせず荒唐無稽な話を語ってみせるように。
○田中徹『花の果て、草木の果て 命をつなぐ植物たち』(淡交社
○吉井亜彦『演奏と時代 指揮者篇』(春秋社)
アダム・カバット『江戸化け物の研究 草双紙に描かれた創作化物の誕生と展開』(岩波書店)・・・美術史乃至民俗学的手法に極力よらない、と宣言したいわば文学的化け物研究。
○神田千里『宣教師と『太平記』』(シリーズ「本と日本史」、集英社新書)・・・知識としては知っていたが、『太平記』の地位、こんんなに高かったんだなあ。
○『定本 柄谷行人文学論集』(岩波書店)・・・著者が修士論文で「アレクサンドリア四重奏」を扱ったと聞いて(へえー)読んでみた。
○栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出書房新社)・・・ビートの効いた文章というのか(古いか)。後半やや叙述が単調になるが、一遍の日本廻国と無限的念仏&踊りの陶酔を忠実に伝えればこういうことになるのかもしれない。
池澤夏樹『小説の羅針盤』(新潮社)・・・鴎外贔屓はえっと思ってすぐに納得。こういう組合せって面白い。
○フリードリヒ・デュレンマット『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』(増本浩子訳、白水uブックス)・・・ブラックコメディはスピード感が一等重要なのである。
清水勲編『ビゴー『トバエ』全素描集  諷刺画のなかの明治日本』(岩波書店
○フェルナンド・サバテール『物語作家の技法』(渡辺洋訳、みすず書房)・・・須賀敦子の本に教えられた。一読されたい。
○芳賀京子・芳賀満『古代 ギリシアとローマ、美の曙光』(「西洋美術の歴史1」、中央公論新社
○秋山聰他『北方の覚醒、自意識と自然表現』(「西洋美術の歴史5」、中央公論新社)・・・これでシリーズは読了・・・二十世紀の巻は残っているが、ま、興味ないからよい。
半藤一利『文士の遺言 なつかしき作家たちと昭和史』(講談社
○亀田達也『モラルの起源 実験社会科学からの問い』(岩波新書
竹下節子『ナポレオンと神』(青土社)・・・ライシテ(政教分離)に興味あるので読んだ。どうもこの著者、歌いすぎる傾向があって、ちょっと苦手。でもナポレオンと同時代の教皇ピウス七世の肖像は気に入った。綺麗事でなく、小説的興趣あり。
○藤井光編『文芸翻訳入門  言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』(フィルム・アート社)
高島俊男『本はおもしろければよい』(「お言葉ですが・・・別巻」)・・・シリーズは(単行本の形では)これが最後とのこと。
鹿島茂太陽王ルイ14世 ヴェルサイユの発明者』(KADOKAWA)・・・例の如くドーダ理論と家族社会学で攻め立てる。あんまししんどくならなかったのは、そりゃ、まあ、ねえ、ルイ大王が「ドーダ」かますのはこれ以上ないくらい自然ですから。
○イェルン・ダインダム『ウィーンとヴェルサイユ ヨーロッパにおけるライバル宮廷1550-1780 』(大津留厚他訳、刀水書房)・・・鹿島さんの本でも参照されていたのがアリエスの『宮廷社会』。その古典中の古典的研究を正面から批判してのけた研究書。
青木淳選『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)・・・このところなんだか混迷を極めている文芸文庫の中でヒットの一冊。「建築」文学といっても、筒井康隆「中隊長」が入ってるのである。以て後は知るべし。作品の構造を建築として読み解く編者の解説が面白い。
○小山順子『和歌のアルバム 藤原俊成詠む・編む・変える』(ブックレット「書物をひらく」)・・・平凡社
末木文美士『日本思想史の射程』(「日本歴史 私の最新講義」、敬文舎)
黒田龍之助『その他の外国語エトセトラ』(ちくま文庫
○松木武彦『縄文とケルト 辺境の比較考古学』(ちくま新書
○ウィリアム・マルクス文人伝 孔子からバルトまで』(本田貴久訳、水声社
渡辺京二『日本詩歌思出草』(平凡社)・・・この著者がこの話題で、あの文体でとなれば、好エッセイたることは保証済みみたいなもの。明治の新体詩への(かつての)親炙は「へえー」。とか思ってると、北村透谷の「内部生命」とユング的無意識の近さを指摘するなど、油断ならない本だった。
○グレゴリウス山田『十三世紀のハローワーク 中世実在職業解説本』(一迅社)・・・あれ、村上龍さんが続刊出したんだ、とAMAZONでぽちっ。としたのが一つ目の勘違い。届いたのを見たら、なんだか凡百のファンタジー解説本みたいで「あーあ」と思ったのが勘違いの二つ目。にしては記述がしっかりしてるなあ、と巻末の参考文献をのぞいてぶっ倒れた(大学の紀要まで入っている)。またまた読む本リストが長くなってしまった。
ナサニエル・ウエスト『いなごの日 クール・ミリオン』(柴田元幸訳、新潮文庫)・・・お気に召した方は岩波文庫『孤独な娘』(丸谷才一訳!)もどうぞ!
○ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』(土屋俊訳、ちくま学芸文庫

 二ヶ月近くにもなるのに、寥々たるもの。衰弱の極みという他なし。

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月は出ねども満月〜備後・播州の旅(二)

 翌朝もうんざりするような曇天。ホテルから笠岡駅まで歩き、福山に出て福塩線に乗り換え。そこから数駅、至極のどやかな風景の中を走って、神辺で降りる。


 大都市・福山を引き合いに出すまでもなく、駅前からして鄙びた田舎町。いくら何もしないための旅とはいえ、これはまた酔狂に過ぎる・・・のではなく、実はこの静かな町にだけ今回は予定を作っていた。菅茶山の居宅かつ私塾であった黄葉夕陽村舎=廉塾を観に行く心づもりをしていたのである。


 菅茶山。江戸後期、と言うにとどまらず、日本文学史上最大の漢詩人のひとり。しかし「最大」などという措辞が似つかわしくない、日常生活の情景や風物を精緻にとらえ、温雅な叙情をたたえた、アンチームな詩風の作者である。元々俳諧を嗜んでいたひとらしく、漢詩ということばから連想される四角四面のペダントリイからはほど遠い、なつかしい作が多い。


 人影をほとんど見ない町を二十分ほど歩いて汗びっしょりになった頃、目指す建物の案内板が見えてくる。いかにもこの作者らしい、ちんまりとして閑雅なたたずまいが、まずいい。


 しかし本当にすごいのは、今目の前に揺れる柳の樹、その下をさらさら流れる小流れ、そこに架かる石の小橋(これを渡って玄関に近づく)、これら全てが茶山の詩に詠まれた通りの姿で残っていることである。つまりここを訪う者は二百年前の詩人が見たままの風景を目にすることが出来る訳である。現今の日本にあってこれがどれだけ貴重な体験であるか、縷々述べる必要はないだろう。江戸の学藝詩文にいささか縁のある身には尚更である。すなわち鯨馬、汗もしとどに立ち尽くしながら、感動しておりました。


 それにしても、玄関雨戸がすべて立てきられているのはともあれ、誰もいないのはどういうことだろう。たしか土日には見物客を入れて案内するという説明がサイトにはあったはずだが・・・と首を傾げていると、それらしい年配の方が入ってこられた。


 客は当方一人。少しく気ぶっせいなシチュエーションではある。おらが村の偉人茶山大先生を褒め称える演説が続いたらちとキツいなと案じていたが、建物の様式や絵図からの考証など、すこぶる(良い意味で)固い話ぶりであって、これには安堵した。大学院で茶山周辺のことを少し勉強しておりました、と初めに挨拶しておいたのが良かったのか。


 ともあれ紋切り型の名調子ではなく、史実と考察を諄々と説き来たり解き去る・・・そう、じつはこの諄々と、が小渠の流れの絶えざるが如くに終わらない。拝辞してまたとぼとぼと駅まで歩き、ホームで列車を待ち、福山に戻った頃には大袈裟でなく肩で息する体であった。昨日楽しみな宿題としておいた岡山の某々鮨やに辿りつく気力も萎え果てている。折角のご親切を、竹中さん、済みませんと詫びつつ、福山駅前のいぶせき食堂で飯を食う。正確には小魚の天ぷらをアテにビールを呑む。


 各駅停車に乗るのさえ億劫で(熱中症になりかけだったのかな)、新幹線で岡山まで戻ってから赤穂線にて播州赤穂まで。学生の時に友人と釣り・バーベキューに来て以来だから、二十年以上空けての再訪となる。だから確たることは言えない。ただの印象だが、町全体の雰囲気はさほど変わってないのではないか。まあ、廉塾のようなのは例外中の例外として、たかだか二十年で街並みが一変するする方がそもそも気違いじみているので、町の古びを愉しむのが文明なのである、という吉田健一の指摘を思い出しているうちに、旅館から迎えの車が来た。


 ぶらぶら旅には似つかわしくない段取りながら、最終日はどうしても温泉で体をほどきたかった為、温泉宿を取っていたのである。山道をうねうねと登っていった先が宿。「海を呑む」という名前にぴったりの場所であり、生憎靄っていたが、晴天ならばさぞ見事な景色が見られていただろう。それでも家島諸島(その内の一つがぱっくりと無残な断面を見せているのは関空を作るのに削られた跡らしい)は部屋の正面に確認できた。


 何はさておき御湯一献。誰も居ない「岩風呂」で思い切り伸びをする。「飲用できません」と書かれた札を見て、飲用してみると(口いやしい子なのです)、苦くしょっぱく、便秘や胃弱には良さそうな味。旅の疲れを取るのに上按配であることは言うまでもない。


 料理旅館に泊まっていながらも、夕食は外。昨日は居酒屋だったので今晩は趣向を変えてイタリア料理。といってもご想像のPrunusの方ではありません。炭水化物、特に粉モノを苦手とする人間にはピッツァが看板の店はいささか重苦しい。といっても入ったのは、例の店の従業員が独立して始めた店らしいが。


 よってここでも、魚介ばかりを頼むこととなる。

フリットミスト・・・槍烏賊、イシモチ(と書いていたが、昨晩のネブトと同一の魚)、小海老
○真蛸のトマト煮のパスタ・・・パスタなら食えるのだ。柔らかく煮た蛸のからみついた、やや太めの麺が喉の奥でもふぉっ。となる瞬間がこたえられません。
○鯛のオーヴン焼き・・・レモンと大蒜とローズマリーをふんだんにあしらっている。

 トレントの、蜜の香りがほのかにする白が滅法旨くてこれだけでは物足りない感じ。追加したのは、烏賊・蛸・海老・貝のサラダ。それにしても、我ながらよく蛸を食う男だ。前世はウツボだったに違いない。


 女性二人でやっている、感じの良いお店でした。食べ終える頃、手伝いの兄ちゃんが「今晩ならお城近くで満月バーをやってますよ」と教えてくれる。のはいいけれど、満月バーとは何であるか。


 「満月の夜だけ開くバーです」。


 余計に分からなくなってきた。ま、まだ八時半だし、ちょいとふらふらしますか。とタクシーで駅の南に向かう。おや交通止め。と思うと、目抜き通りの一角に人だかり。どうやらこれであるらしい。五千円のチケットをまず購入し、飲み物を頼む度にチケットにチェックを入れて、帰り際に残金を精算するという仕組み。ワイン屋さんと例のイタリア料理屋さんが主催らしくて、飲み物はワインが主。


 ワイングラスを片手に通りをぷらぷらしてますと、なんだかあちこちに明かりが点いて、屋台が出、人が歩き、バンドが奏でておる。地元の方に訊ねると、夜市と「満月バー」がたまたま重なったのだとか。とはいっても大阪や神戸の祭りの、卒倒しそうな人混みではないから、気分良く冷やかして歩ける。えらくガタイのいい白人がすっかりご機嫌でバンドの演奏に合わせて体を揺らしているのを、自転車に乗った中学生が「おー、クリス!」と声をかけ、そのまま談笑になった光景を見かけた。地元中学校のいわゆる外国人教師とその生徒、という構図なのだろう。のんびりしていてなんだか愉快である。そう言えば駅前の焼き鳥屋に入る部活の顧問(?)に、生徒らしき数名が野次を飛ばしているのも見たな。めでたしめでたし。

豪勢に各地を回るのも旅先で痛飲するのもいいけれど、言うなれば普段着の延長としての旅でかえって日常の垢やら愁いやらを洗い落とせたという、自分にとっては珍しい経験をした。
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