危機の思想と思想の危機~双魚書房通信(19) 牧野雅彦『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ)~

 有名だが、多数の読者に支持されているというよりも、いくつかのエピソードの霧が当人をもやもやと包み込んで、それがいつの間にかこれまたいくつかの評語をまぼろしのように吐き出して、それらをあまり意味も無く呟くことがすなわち論じるということにされてしまう型の思想家がいる。ルソーがそう。福沢諭吉なんかも存外この中に入るのかもしれない。

 

 カール・シュミットはそうした不幸な思想家のなかでも恵まれないことでは一二を争う。なにせ名前を出せばたちどころに「ナチスの御用学者」と身がまえられ、どうやら称賛している気味合いの人々も「危険な思想家」と言って済ますのが通例のようだから。

 

 後者の言い回しに対し、著者はあとがきでどう言っているか―「このような物言いには、悪(ルビ「ワル)を気取った知識人が、よせばいいのに刃物をふりまわして得意になっているようなところがあ」る、と(それにしても、「あとがき」とは何ゆえこのように面白いのか)。そして、シュミットを「危険な」ではなく「危機」に対峙した思想家だとする。

 

 ここまではまだ《評語》のうち、と言えなくもない。尋常でないのはそこからであって、既訳未訳を含めシュミットの著作を自在に引用しながら、この問題的(プロブレマティッシュ)な法学者=思想家の輪郭をくっきり描き出して見せた。「多くは論争的な文脈で書かれていて、特定の相手に対する論評や批判的註釈の形をとることもしばしば」、つまり正面切って自分の立場を宣言するタイプではないシュミットの思想構造が綺麗に差し出されている。綺麗に、というのは小綺麗に―とはつまり《評語》的に、ということだ―まとめたのとは異なる。見えにくい脈絡を執拗に追尋して明確に述べることである。とりわけ評者が感心したのは、「政治神学」というシュミットの基底から始めて、第一次大戦ヴェルサイユ体制(そしてワイマール体制)とその崩壊・第二次大戦とその戦後処理・戦後の国際秩序という具体的な歴史の流れの中に彼の主張を置いてその立ち位置をはっきりさせ、最後にまた「政治神学」が孕む問題に言及して終えるという整然たる構成。よほど緻密な思考が出来る学者なんだろうなあ。

 

 シュミットはローマ・カトリックの信徒だった。だからこの世のすべては神が創造したものとみる。しかし最後の審判までは地上で生きてゆかざるを得ない。とりわけ世俗の政治権力にどう接すればいいのか。しかもその接し方は具体的な歴史のありようとそれに反応して変化する体制のありようによって、一定不変のものではありえない。要するに「個別的具体的な歴史的・政治的状況における危機」にキリスト教徒としてどう身を処していくべきか、それが政治神学である(「序」)。ドグマティックな裁断ではなく「位置」「文脈」に常に目を向ける姿勢に留意せよ。

 

 カトリックであるということは、個人の内面に信仰の問題を還元するプロテスタントとは違い、教皇を戴く教会という組織の性格、ことにそれと世俗権力との関係について態度を決める必要があるということ。著者は、シュミットが注目したド・メーストルや、さらにはラスキなどの教会/国家観を取り上げ、彼らとシュミットの共通点・相違点を検討していく。あ、そうだ、言及される思想家の言説が丹念に引用されているのもこの本の特徴。何も尻込みする必要はないので、どこまでも続く(ように見える)引用には、これまた丁寧なパラフレーズが付いているので大丈夫。評者も面倒くさそうなところはパラフレーズだけで済ませました。

 

 なんといっても本書の圧巻は先に書いたように、第三章から第八章まで。これは章題をつなげると、「ヴェルサイユ体制と国際連盟批判」から「戦後西ドイツ国家の成立とシュミット」まで、ということになる。「批判」の要諦はそれが「正統的で安定した法秩序を作り出していない」点にある。ちなみにこの場合の「正統」とは「権利をめぐる紛争を処理する手続きや制度が実効的に機能していること」を指す。安定をもたらさないのはなぜか。シュミットはそこにアメリカの影響力の拡大を指摘する。合衆国国務長官の名を冠したケロッグ=ブリアン協定ーいわゆる「不戦条約」―は、戦争の放棄を謳うものの、放棄されたのは「恣意・利己心・不正によって遂行された戦争」である。しかし一体誰が「不正な戦争」かどうかを決めるのか。また国際連盟の集団安全保障体制は、「地方的対立を世界戦争へと拡大するのに適している」。

 

 この論点は第六章(「第二次世界大戦の敗戦とニュルンベルク裁判」)でより精細に展開される(今さらですが、本稿ではシュミットの議論と著者による整理を一括りに扱っています。引用でもどちらのものかは一々示していません)。ニュルンベルク裁判は、「戦争の違法化」の極致である。「違法化」は「正当な戦争」と「不正な戦争」を区別するがゆえに、世界大の内戦をよびおこす。だから、ヨーロッパ列強の力の均衡の上に築かれた、いわばルールに則った国家間の戦争(および終戦処理手続き)とは対極に位置するものである。苛烈にして透徹した認識。ちなみにこの話題に関しては藤原帰一『戦争を記憶する』および高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』がいい参考書となります。

 

 第七章におけるアムネスティ(恩赦)を巡る議論も興味深い(最近出た神崎繁『内乱の政治哲学 忘却と制圧』はアムネスティに関するシュミットの論説から始まる)が、先を急ごう。

 

 「正しい戦争」および不気味に広がるアメリカの影。なにやら二一世紀を生きる自分の周囲がキナ臭くなってきた按配である。著者は筆を控えているが、シュミットの予見する世界像はぞっとするほど正確である。「純粋海洋的実存への徹底した決断」によって産業革命と技術の解放へと歩み出たイギリス、その「海洋支配の継承者」たるアメリカと日本の戦いは従って大洋をめぐる世界戦争であり、ドイツ(もちろんヒトラーのドイツ)が展開する陸戦とは区別されねばならない。ナルホド。「太平洋戦争」という呼称は単なる戦場ではなく、こういう世界史的意義をもっていたわけだ、とにわかにあの戦の性格がはっきりしてくる。

 

 また――「従来の「中立」が(中略)交戦国とその戦闘行為に対する第三国の不介入を原則としているのに対して、道徳的価値評価を背後に潜ませているアメリカの「中立」は、ひとたび事情が変われば無際限の介入へと転化する」。アメリカは「地上の世界の裁判官の地位に座して、あらゆる民族とあらゆる圏域のすべての問題に介入する権利を引き受ける」ことになるだろう。

 

 また――「闘争の手段が技術的に高度なものになればなるほど、(中略)パルチザンは自己の基盤であった土地との結びつきを失っていくことになる」。そして「相手の完全な殲滅を可能にする絶滅手段が想定する敵は、完全に無価値な存在、存在そのものが否定されるべき存在となる」。

 

 悪魔的なまでに明晰な思想家(おや、また《評語》化してしまった)の精髄をこれまた明晰に取り出した一冊。あまりに清澄に書かれたがゆえに、ここから始めて『政治的なものの概念』や『政治神学』や『大地のノモス』の毒にどっぷり浸かりたくなるはず、というのは決して本書を貶めていうのではない。

 

 

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

 

 

 

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姫と白狐と満開の桜と

 四月文楽公演は昼の部に。夜の演目は『彦山権現誓助劒』で、仇討ちモノは好かないからである。つまり消極的な選択だったのだが、これが幸いして、「道行初音旅」も『本朝廿四孝』も楽しめました。ついでに言えば、仇討ちモノでも『仮名手本忠臣蔵』は別。大好きといっていいくらいである。思うに、武士道だの忠義だのといった徳目を離れて、純粋なテロ行為になってるのがいいんですね、あれは。大都市のまん中で武装した集団が権勢をふるう老人をなぶり殺しにするのだからこたえられない。だから、丸谷才一が主張するのとは違った、というかもっと俗っぽい次元で、カーニヴァルだったと言えるのでしょう。

 

 なら二・二六事件はどうなるのか。そう問いつめられても困るので、芝居で殊に様式の美を重んじる類いの芝居で観るからこそ面白いのである。ポルノの代わりにナマの性器を見せられた方がコーフンするというようなもので、まあ、そういう質の人間もいるかもしれないが、そういう人とはあまりお付き合いしたくないですな。

 

 何の話だったっけ。そう、「道行」が綺麗で可憐でよかったということが言いたかったのだった。春の吉野山。前後左右はただもう咲き散る桜。さながら花の迷宮のようななかを、はなやかなこしらえの美少女と美少年が埒もない会話に興じつつ、花の魔性に魅せられたようにうっとりと歩を進めていく。そして白狐の化身である少年は鼓の音に惑乱して、時折瞳を金いろに光らせたり、白い尻尾をゆらゆらと打ち振ってみたり、あげくには恍惚のあまり宙をふわふわと漂ったり宙返りしたりしてしまうのだ。

 

 舞踊の名手がふたり組んだ歌舞伎の舞台もさぞ見栄えがするだろうが、化生の者と深窓の姫の幻想的な旅路は、やはり人形でこそ味が濃いと思う。それにしても、咲太夫さん、びっくりするほど痩せて声も細くなってたなあ。

 

 元々近松は門左衛門より半二のほうが贔屓なくらいだから『本朝廿四孝』はもちろん面白く見物。半二らしく、随所にシメトリの趣向が凝らされている。極度に技巧的(過ぎる)、と評するのが普通なのかもしれない。たしかにあまりにめまぐるしく裏返される物語には、近松門左衛門の世話物のような「自然」は微塵もない。いっそ痛快なほどない。

 

 橫蔵・慈悲蔵の兄弟が正体を露したあと、後日―というかあり得ない未来―での合戦を約する幕切れ(無論このパタンは人形浄瑠璃に通有のもの)が、あれだけ深い感銘を与えるのは、では一体何なのだろうか。スペインのバロック悲劇を読んだときの、途方もない混乱と強烈な無常観とが一ぺんに襲いかかってくるようなまことに不思議な味わい。うまく分析できないのですが、近代を飛び越えて、いきなり「現代」性を突きつけられる感じ(テーマが現代的というのでもない)。老母が最後近くで「廿四孝」と題名の意味にいわば自己言及するくだりにもその感じはつよい。門左衛門とはまったく違った意味で、しかし天才という他ないんだろうな、こういう才能は。

 

 最後になりましたが、五代目吉田玉助さん、襲名おめでとう御座います。

 

 夜は呑み友だちに連れられて北浜の立ち呑み屋をはしごする。どちらもいい店で、一人でもまた訪れたいと思う。周囲がいかにもという一流企業のオフィスばかりで、その中にぽつぽつとこういう呑み屋があるのだから、大阪は面白い。神戸ではこうはいかない。

 

 もうひとつ大阪らしくて可笑しかったのが、友人と会うまえに時間つぶしに入った天神橋筋の居酒屋。夕方とまで行かない時刻にもかかわらず、もうすぐ現役引退かなというオッサンにはじまり、前現役だの元現役だの前世は現役だったろうというのまでが店いっぱいに元気よく呑んでいる。当方なぞはまだ洟垂れ小僧という割り付けであって、カウンターの端っこでなんとはなしに背中を丸めながら生ビールをちまちまやっていたことではあった。

 

 

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雉が芹しょって。

 某日は「海月」敬士郎さん夫妻と「ビストロ ピエール」へ。雉のローストとリゾットが素敵に美味かった。ワインもじゃかじゃか呑んで、前回同様首をひねりたくなるような安さでした。

 

 翌日、リゾットの仕上げに使っていたチーズを買いに、宇治川商店街の「スイミー牛乳店」へ。店名のセンスから分かるとおり、洒落たつくりで、店長さん(一人でやっているようである)もいい雰囲気。宇治川にこういう店が出来る時代が来るとはなあ。ヨーグルトとウォッシュタイプのチーズを買う。ホールのチーズは冷蔵庫でとろとろになるまで熟成させる。「ちょっとずつ熟成の具合を味見しながらというのも楽しいですよ」とご店主。途中で食べつくしてしまわないか心配である。

 

 某日は友人と「いたぎ家」芹満載コースをいただく。圧巻は鍋。鴨と合わせるのはまあ尋常として、芹が文字通りにてんこ盛り。きけば「お代わり自由」とのこと。某河内鴨専門店で同じことをしたら、どれだけ取られることか・・・。しかもこの日は、芹の根の部分もたっぷり出されていた。これは若芽よりも濃厚で、しかも品格正しい香りのする珍品なのである。普通の芹は水耕栽培のものが多いから、そもそも根が無いのだ。出汁で炊いても、炒めても、無論揚げてもよろしい。こんがり炙ったお揚げの中にさっとゆがいた芹の根をぎゅうぎゅう詰め込んで、醤油を垂らしてもよさそう。辛子を少し加えた白和えなんぞは懐石の一品に出てもおかしくないでしょうね。ゆがいたのを、質のいいオリーヴ油に浸してぱりぱりやるのはどうか。など色々コーフンしてしまう。あまりにも需要が多かったために、芹フェア第二弾開催も決まったそうな。芹帝国主義者としては欣快の至りといわねばならぬ。

 

 

 ともあれいい形で年度末をしめくくることが出来ました。四月は魚島の鯛と山菜をもりもり食べて新年度をしゅぱっ。と出発したい。

 

 

 本には年度末も春もない。

 

○ウィリアム・ウィルフォード『道化と錫杖』(高山宏訳、「異貌の人文学」、白水社)・・・山口昌男の貴重なエッセイまで収録するという、ゲームならさしづめ「コンプリートパック」とでもいうところ。高山宏が監修して「道化叢書」なんつーのをやればいいのに。いや、この本の伝説的な註釈がすでに書目のみながら、一大叢書になってるか。

○ゲンデュン・リンチェン編『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』(今枝由郎訳、岩波文庫)・・・ブータンの一休禅師というか一遍上人というか、型破りの坊さんの言行録。そう、つまりは是もまた典型的な《道化》。

久保田万太郎『浅草風土記』(中公文庫)・・・喪われた郷土によせる懐旧の思いが文章を湿らせて、読んでる手までがびたーっと濡れそぼつ風情。

藤原帰一『戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在』(講談社現代新書

ジャン・ジロドゥ『トロイ戦争はおこらない』(岩切正一郎訳、ハヤカワ演劇文庫)・・・ほとんど頽唐期の歌舞伎を想わせるような作劇術。最後の一句も効いている。鳥から生まれた、白痴的なヘレネの造型が魅力的。それにしても、主人公を演じた鈴木亮平、よかったなあ。戯曲は滅多に読まないが、ずいぶん奇特な文庫である。敬意を表します。

上田閑照編『マイスター・エックハルト』(「人類の知的遺産」、講談社

○藍弘岳『漢文圏における荻生徂徠 医学・兵学儒学』(東京大学出版会

○澤井繁男『外務官僚マキァヴェリ 港都ピサ奪還までの十年』(未知谷)

○同上『ルネサンス再入門 複数形の文化』(平凡社新書

○同上『若きマキアヴェリ』(東京新聞

○ベルント・レック, アンドレアス・テンネスマン『イタリアの鼻 ルネサンスを拓いた傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ』(藤川芳郎訳、中央公論新社)・・・武勇並びなき傭兵隊長であり、学藝の保護者でもあたウルビーノの君主の伝記。著者は、「教養あふれる君主」が本人による情報操作の結果のイメージであると論じるが、ルネサンスなんだから、野蛮狡猾かつ高雅寛容であって、ちっともヘンではないだろう。ちなみに、モンテフェルトロの肖像を描いたピエロ・デッラ・フランチェスカに関しては、ギンズブルグに『ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎』(みすず書房)という素敵に面白い本があります。おすすめ。

○ダンテ『帝政論』(小林公訳、中公文庫)・・・ダンテが皇帝(この場合は神聖ローマ皇帝)支持派というのは、知識としてだけ知っていた。訳者の綿密な解説で、その背景が分かった。フィレンツェの派閥抗争というか、党派根性てえぐいな、しかし。

○ロンギノス他『古代文藝論集』(「西洋古典叢書」、京都大学学術出版会)

○モッシェ・ハルバータル、アヴィシャイ・マルガリート『偶像崇拝 その禁止のメカニズム』(大平章訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局)・・・部族における姦通の禁止が、「嫉妬する神」の表象を生んだ。ユダヤ人とエホヴァは腐れ縁の仲なんですなあ。

岡崎武志『蔵書の苦しみ』(ちくま文庫)・・・細部が杜撰だなあ。吉田秀和が驚嘆したのは吉行淳之介でなくて吉田一穂でしょ。丸谷才一を呼ぶのに「ジョイス学派」とは何か。ほな亀山郁夫ドストエフスキー学派で若島正ナボコフ学派なんか。仮にも古本好きというなら、そーゆーとこを疎かにしてはいかんでしょうが。

紀田順一郎『蔵書一代  なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』(松籟社)・・・老後を考え、蔵書家が蔵書を手放してしまう話。規模は全然違うけど、いずれこの日が来るのだ。ぞーっとする。

○木下武司『和漢古典植物名精解』(和泉書院)・・・えらくかさばって重いのは難点だが、暇潰しに絶好の本(褒めている)。

○『周作人読書雑記1』(中島長文訳注、平凡社東洋文庫)・・・これも閑暇の読書として最適の一冊。

東海林さだお『焼き鳥の丸かじり』(朝日新聞出版)・・・癌の手術も無事終えられたようでおめでたい。久々にタンメンが登場したのでこちらまで嬉しくなる。東海林さん、タンメンが大好きなようで、タンメンの回は気合いが入ってるのです。

○北野佐久子『物語のティータイム お菓子と暮らしとイギリス児童文学』(岩波書店

○岡崎大五『腹ペコ騒動記 世界満腹食べ歩き』(講談社

○大阪料理会監修『大阪料理』(旭屋出版)・・・もっと大阪料理の史的展望に特化して編集すべきだった。「現代の大阪料理○○選」なんて、ここで披露しなくてもいいだろう。とか文句は沢山あるが、貴重な一冊であるには違いない。とっかかりとして。

 

芹の行進

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南部ひとり旅(3) 迷宮にふみこむ

 舘鼻の岸壁朝市には、ま、色々あって行かず。種差海岸とともに、次八戸に遊んだ時の楽しみとしておく。朝市の代わりに、看護師が教えてくれた八食センターへ足を向けた。中心街からタクシーで二十分くらいか。水田のまん中に無闇にでかい建物が立っている。

 

 

 早くいえば、小売専門の市場。八戸のように海産物が豊富なところだと、これは同時に一大土産もの屋ということにもなる。中には飲食施設もある。当方の印象では地元四割観光六割というところか。暖かい日曜の昼間ともあってかなりの賑わい。

 

 

 目玉は場内に設けられた屋内型バーベキューとでもいうか、市場で買ってきた魚介を七輪で焼いて食べられる区域があって、広い空間は既に七分ほどの入り。

 

 

 ともあれ肝腎のブツを見なくてはな。センターに足を踏み入れた時から直観的にわかっていたのだが、ここは鯨馬のような市場好きにはこたえられない楽園であった。

 

 

 なにしろ魚の量と質が違う。たとえば鰈。この時期の関西で鰈といえば目板だが、それはどこにも見かけず。かわりにオイランガレイだのナメタガレイだのがぬらぬら光るからだを並べている。鮟鱇、鱈は言うまでもない。そのどれもが、ちまちました切り身でなく、小さくともブツ切り、大抵はごろんと巨体を横たえている。その他に海藻と貝類の種類の多さよ。

 

 

 七輪でいい加減に炙り、あぶらの滲んだやつをじゅっと噛みしめ、生ビール(冷酒)をぐいっとやったら無上の快楽であろうことは容易に想像出来るけれど、先ほどのバーベキューコーナーの混み具合を思い返して鼻白む。日曜の昼ひなかから、目つきのよろしくないオッサンひとり、魚や貝を焼いてはひっきりなしに酒をあおりつけてる光景、端はどう見るであろうか。

 

 

 いじましく人目を気にしているようだが、そこは年相応に面の皮も発達してきているから照れや恥ずかしさはない。ただ、隣や向かいの家族連れやカップルがこう思っているだろうな、と思いつつ酒を呑んでると、「『こういうことを全く気にしてないんだぜ、このオレは』と見せつけたがってるのかしら、このヒト」と思われないかな、と思うと気ぶっせいなのである。これをしも中二病というのかどうか、それは分からんが、一人でゆったりスペースを取っているとさぞかし周囲の視線がとげとげしかろうと推測し、屋内バーベキューは断念して、屋内ピクニックに方針を切り換えた。ま、だいたい、いくら「一枚から販売します」であろうと、烏賊でも鰈でも大ぶりのヤツひと品だけで満腹しちまうだろうしな。蛤なんかごろんと巨大なのが六~七個入ったのが最小単位なのですぞ。実に・・・じつに悔しかったです。

 

 

 煮魚や発酵食品の類いが売ってなかったのを瑕瑾として、ピクニックはそれとして実に豪奢なものとなった。烏賊の天ぷら、ホタテのフライ、カナガシラの唐揚げ、卵の巻焼き、焼き鯖、殻付き生海胆、漬け物盛り合わせ。共有通路の卓上いっぱいにこのオカズを並べ、缶ビールを二本に冷酒二本、最後にハイボールをゆっくり呑む(すぐ隣が酒屋)。回りでは中学生がラーメン啜ったり大学生のグループがちまちま海鮮丼などをつついている。結果的にはバーベキューしているよりも、よほど周囲から浮き上がっていたのでした。

 

 

 魚はどれも欲しかったが、いくら冷蔵技術が進んだといっても、ここから神戸に持ち帰ったのでは真価を堪能できないだろう。いさぎよく生鮮は断念し、代わりに「すき昆布」(昆布を細かく刻んで海苔状にすいたもの)と同じく菊を板状に乾したの、それに青森名産の焼き干し(極上の出汁がひける)を自分の土産とした。諦めがついたのは、八戸再訪をこの時には確信していたからである。

 

 

 豪奢な昼の宴のあおりで夜はごく控えめ・・・のつもりだったが、鯨汁がめっぽう旨く、熱燗を何度も何度もお代わりすることに。皮鯨を主たる実として、笹がき牛蒡・キャベツ・人参・凍み豆腐がたっぷり入った汁を、ごく薄味の味噌仕立てとしている。この夜も生暖かいくらいだったが、極寒の夜にこれを啜ったら夢ごこちになること間違いない。そしてその時、鯨汁の椀のよこには、細かい脂をきらきらとみにまとった前沖の鯖の刺身、鰊の切り込み、鮑の塩辛、せんべい汁が並んでいる。地上の楽園ここにあり。そして楽園では例の闊達な看護師が横にいて、大声で笑いながらどくどくと酒を注いでくれるのである。

 

 

 その南部人がこき下ろすところの青森、つまり津軽の代表的な町で今回の旅を切り上げることになったのは皮肉なことではある。これはこっそり言わねばなるまいが、駅前の食堂で取ったホタテのフライも、市場裏のオバチャンのおでんも、まちなか温泉の茶色がっかった湯の肌触りも、まったくもって結構なものでありました。

 

 

 

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南部ひとり旅(2)狂人・ミロク・シャカ・天使

 実際、翌朝はすかっと目覚めたのだった。ホテルの朝食もおいしく頂いた。ご当地料理の代表格であるせんべい汁というのがたいへんよろしい。鶏や昆布でしっかりとった出汁に大根人参葱牛蒡、そこに南部せんべいがぬめっとてろっと浮かんでいて、これなら二日酔いでもするする喉を通るはず・・・昨夜はもっと酒に慾かいておいてもよかったかな。


 このホテルは近くの銭湯と連繋していて、割安の料金で入れる(ホテルの部屋のタオルを持っていく)。朝湯は近所のおっさん連中でいっぱいだった。八戸は人口あたりの銭湯の数が全国一らしい。鯨馬が思うに、銭湯の多さは昨晩見た、どの居酒屋も大賑わいという町の気風とかなり密接に関連しているはずである。


 銭湯を出て、海の方角へ歩き出す。昨晩「一時間はかかるぞぅ」と言われのだが、こちらとしてはむしろ「一時間で行けるねや」と気軽に考える(方向音痴でも迷いようのない一本道ではある)。金無垢の陽光が目路いっぱいに降り注いでるような日に歩かない手はない。


 道草もくわずぶらぶら歩いて、着いたのが十一時前。広大な船着き場には時間柄当然ながら人影はなく、ただただウミネコがにゃあみゃあと喧しい。ギャングのような獰悪な目つきの海鳥のあいだをすり抜けるようにして岸壁をぶらぶら。滅茶苦茶にでかい。日曜のには国内有数の規模の朝市が開かれるのだそうな。ちょうど明日は日曜。予定に入れておこう。


 陸奥湊駅の市場内食堂はもう仕舞っている。近くの有名店は通りがてらのぞくと、ホタテ丼やイクラ丼など。当方苦手な海鮮丼系統の店らしいのでここは敬遠して、港の突端にあるうどん屋に入った。何の風情もない仮普請のようなところだが、大音量の演歌が流れるなか、漁業関係者らしいオッサンアンチャンに混じって、ともかくも熱いうどんをすするのは悪くなかった。


 気温も低くなく空も綺麗に晴れた中だから、あちこちにあった「津波が来たらすぐに避難して下さい」の看板にはよけいリツゼンとする。八戸は幸い死者が無かった(と前夜聞いた)そうだが、全体にのっぺりした土地だから、高波が押し寄せたら被害の甚大は目に見えている。東北の傷は少しも癒えていないのだ。


 電車で市内まで戻る。夕刻まではまだ充分時間がある。名高い合掌土偶を収蔵する縄文館行きのバスは今しがた出たところ。歩き回るには半端で、さりとて酒を呑みだしたらあっという間に日が暮れてしまうだろう。


 と、バス停の近くにあった安藤昌益資料館に入ってみた。恩師も一時昌益の思想を研究していたことがある。十年ほど前の設立というだけに和本や書簡の現物は無かったものの、昌益の名が確認できる藩の日録(町医者であった昌益に藩士の手当を命じた記録)や安藤家の宗門改帳の複製などを手に取った見ることが出来る。つい歩けば昌益の住まいや講義した寺に行き当たる町でこういう資料を見ると、発見者狩野亨吉によってすら初めは狂人としか思われなかった「忘れられた思想家」が、にわかに江戸の八戸を闊歩する活きた人間として迫ってくる。


 また、NHKの特集番組を放映していて(ゲストは井上ひさしと安永寿延)、期待せずに見始めたもののこれが結構面白かった。昌益の特異な思想の根がどこにあるか、を謎ときしたものである。番組の仮説はこうだ。

南部藩は地味が肥沃でないこと、またヤマセなどの悪条件のために水田での稲作が難しく、焼畑による畑作が主流だった。
○地力を回復させるために、休耕地にしておくと日当たりのよくなった焼畑地には、蕨や葛などがまず繁茂する。
○これらの強靱な根茎を掘り返して食料と出来るのは牙を持つ猪だけである。
○よって猪が大繁殖する。
○増えすぎた猪はやがて畑の作物までも食べつくし、結果「猪ケガジ(=飢饉)」によって数千人が飢え死にした。


 悲惨な状況を目の当たりにした昌益は、「生態系の中に位置を占める存在としての人間」という観点を獲得したのである、というわけである。あの神秘的で晦渋深遠な思想が清新なものに見えてくるではないか。ヴィデオの後は、資料室に収める関係書のあちこちを拾い読みして小半時。ソファとお茶があればもっとゆっくりしていたかった。と、当方はそれなりに愉しんでいたのだが、江戸の思想を考究していたようなすれっからし一人を相手に「解説」せねばならなかった学芸員の方は(解説は辞退したのだが)さぞやりにくかったことであろう。


 資料館を出て、地元資本の百貨店に入る。予想以上に魚売り場が凄い。ほとんど港の市場の一角がここに突出しているという趣である。カレイや海藻やツブ貝などを見て「嗚呼」「おぅ」と悶絶するが、ホテルではどうしようもない。血の涙をこぼしながら通り過ぎ、すっかり気に入った南部せんべいのコーナーへ。こちらは予想どころか、目を疑うほどの品揃えである。「海老・海苔入り」というやつを買って、ペットボトルのお茶うけにしながらしばらく小憩。そのあとはも少し街歩き。


 「本のまち・八戸」をPRしているらしい。目抜き通りのまん中に立派な構えの八戸ブックセンターがある。中も瀟洒なつくり。大都市の大型書店とは違って、何でもかんでもともかく沢山、というのではなく、色んな分野の人が自分で設定したテーマで選んだ書目を並べたり、読書会の部屋を設けたりしている。本好きとして、衷心より敬意を表します。実際こちらが「おや、こんな本あったんだ」というものも数冊見つけた(こうして荷物が増えてゆくのだ)。


 これで弾みがついてしまい、自ら禁としていた古本屋へ足が向いてしまう。東北の民間信仰についての冊子などを買う(こうして荷物が増えてゆくのだ)。


 ホテルに戻り、朝の銭湯で体をほぐすと丁度夕刻。今回は目を付けていたミロク横丁の店へ。さすがに「前沖」(八戸の海で採れた、ということ)の鯖の刺身は脂のこまやかなのりが絶品だったし、フジツボやとしろ(鮑の肝の塩辛)も酒の肴としては抜群。何よりも自分以外の客がみな地元の方で(といっても十人も入れば満員)、鯨馬には半分ほどしか理解出来ない南部ことばで賑やかに話し、景気よくコップ酒をあおっているという光景が頼もしい。こういうところであんまり長居するのはよくないな。


 ミロク横丁ではもう一軒で鯖や貝を焼いたので数杯。次はホテル近くで見つけておいたおでん屋に入る。芥川龍之介の作品名と同じ、ということはおでん屋としては頗る面妖な店名で、なんだか「極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら」お釈迦様がお歩きになっているのかとも思ったが、カウンターの中は南部美人のママさん、にっこり微笑んで迎えてくれたのだった。観光客があまり来ない店らしい。周囲ままたもや常連とおぼしき方々。「こんなとこ、何しに来た」と口々に詰問されつつ(はにかみというより、半ば以上本気で呆れてる様子)、滅法いい気分で熱燗をぐいぐいやる。


 あまり心持ちがよいので、おでん屋の後もう一軒。ここでは地元の看護師と仲良くなる。さすがに南部の人間は肌が綺麗で、そしてそしてこれが重要なのだが、若い娘でもよく呑みますな、しかし。母親が「イサバのカッチャ」だったというから、生え抜きの八戸っ子である。注して言う、「イサバのカッチャ」とは「魚市場の仲買のオバチャン」の意。なんでもカラスガレイの担当だったそうで、毎日弁当にどでーんと鰈の切り身が入ってるのは、多感な高校生時代、凄く嫌だったが、スジコ担当のカッチャと仲が良かったので、時折物々交換で手に入れたスジコが弁当にどでーんと入ってることもあって、それは凄く嬉しかった、という。なんだか哀切なような豪奢なような話であった。


 例の「なんでこんなとこに来た」というやつをかまされ、こちらも毎回同様に「一月に青森市で遊んで楽しかったから」と答え。ここで昨夜からの疑問が氷解した。


 「アオモリ」の名前をきくと、皆さん一様に「ふーん」と「はーん」の中間のような相槌で、片付かぬような表情のままそそくさと盃を乾すのである。慎み深い南部人はそれ以上語らなかったが、よく呑みよくしゃべりよく笑う、「津軽と八戸と一緒にしてもらっては困る」と一刀両断してのけた。文化も気質もまるで異なる、驚いたのはことばも別らしくて「津軽人が本気で話し出すと全く分からない(津軽は早口なのだそうだ)」。高慢ちきで小ずるい津軽の人間は大嫌い、とここまで明快だといっそ気持ちいい。「次来る時も、だから八戸に来ればいい」「でも来ても何にもないしなあ」と実に可愛らしいのである。

 

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南部ひとり旅(1)聖地巡礼

 今回は八戸中心の旅なのに、三沢ではなく青森空港発着で予定を組んでしまったところに、当方の無知があらわれていた。空港からバスで青森市まで。そこから電車を乗り継いでいくと、八戸での昼食は無理そうである。ならば二月ぶりの青森で食べていきますか。


 と市場が並ぶ古川町の食堂で昼食。時間が出来たのでゆっくりビール・清酒を飲む。蛸・縞鰺・鮪・生鮭の刺身も天ぷらも旨かった。小鉢の鰊の麹漬けがまた清酒によくあう。


 さて青森駅からは青い森鉄道で八戸まで。ちょうど中間という見当の野辺地あたりではまだ真っ白な雪が高く積もっている。八戸はそこでJR線に乗り換えて二駅目が本八戸。こちらが市の中心部に当たるらしい。ただ駅前は商人宿くらいで、繁華街からは離れている(といっても五分も歩けば着く)。


 ホテルに荷物を置いてから街歩き。呑み屋横丁の多いことで有名らしいが、横丁に限らず人口規模に比して居酒屋の数は多いようである。こういう町、つまり飲み助の多いところは信を置ける。お目当ての店はすぐに見つかった。黒ずんだ格子窓が夕暮れのなかでいい風情。向かいのコンビニに入り、開店の六時に暖簾がかかるのを待ってさっと飛び込んだ。


 というのは予約を取らない家だからである。『ばんや』。今や全国的な有名店と言っていいんだろうな。翌日も翌々日も、地元の方に『ばんや』で呑んだというと、決まって「あそこは入りにくいからねえ」ということばが返ってきた。実際、見る間に広くない店内はいっぱいになっていた。


 当方はというと、ネットやグルメ本ではなく種村季弘さんの文章に描かれたこの店がイメージの中でいわば聖化されていて、八戸に行くならここ、と決めていたのである。『食物漫遊記』『日本漫遊記』参照。『ばんや』のために八戸を滞在地に選んだといった方が正確なのかもしれない。


 拭き込まれて黒光りするカウンターの上に大鉢が並び、その後ろの壁に本日の魚が書かれている。厨房には中年男性ひとり、カウンターでは白髪の女性(女主人?)と細っこい若者が客の応対をしていて、この女性がまた、『ばんや』のような店にはこういう人以外にはあり得ない、という容貌物腰の方で、この雰囲気だけでも呑める。


 でも肴は頼みます。お通しは子和え(野菜に鱈の子をまぶしたもの。郷土料理)。大ぶりの大根・人参が品良い味付け。あとは鮎並の造りと煮物(蕗・蕨・身欠鰊)、烏賊の共和え、馬肉と牛蒡の煮込み、焼き鰯を頼む。尤物はこの鰯で、大羽のやつが二尾付いている。腹をほじるとぼろりん、という感じであぶらがこぼれてくる。そのあぶらに包まれているのは無論のこと高雅な苦みのはらわた。


 こんな肴で清酒のすすまない方がおかしい。種村大人も「鳩正宗という地酒にうつつをぬかした」と書いている。ここは底に藍で二重丸を描いた利き酒用の大ぶりの汲み出しに盛りきりで出す。東北の地酒は種々あったが、折角だから青森のだけを頼んでいった。えーと、八仙を四銘柄、そのあとで豊盃を呑み稲生(いなおい)をいただき、杉玉というのも頼み、田酒を呑んだのはおぼえている。焼き鰯の頃には燗酒の徳利を傾けていた。なにせ「うつつをぬか」すまでだから、これくらいは当然というところ。肴もしっかり胃の腑におさめていたせいか、乱れることもなし。これは主観ではなく、二軒目に連れて行かれたバーでも、極上稀品のバーボンを呑んでいたから確かである。連れて行った方が先に酔ってたような。これは『ばんや』で隣に座ったおっさん二人組、といっては失礼か、さる金融機関の部長次長という立派な仕事をされてるお二人で、「よく飲むなあ」「ではついでにもう一軒」と誘われたのだった。


 そのバーでも当たるべからざる勢いで呑んでおりますと、「明日の予定は決まったか」「車が必要なら出すぞ」とまでの親切・・・ではあるが、このままずぶずぶご厚意に甘えたのでは、気儘なひとり旅の本旨からはどこまでもズレていってしまう。丁重にご辞退して、その日はそそくさとホテルのベッドにもぐりこんだのだった。


 週末で賑わってはいたのだろうが、帰る途中、酒客の姿がやたらと多い。それも観光客ではなくいかにも地元の人間らしいのが、くだをまくのでもなくふらふらするわけでもなく、しかし店から店へと巡っているという雰囲気である。明日の夜も明後日の夜もこの町にいる(いられる)のである、と思うと、しびれるような快感が身ぬちを突き抜けた。

 

 

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たてよこななめ

 誕生祝いのメッセージを下さった方々、この場を借りて改めて感謝申し上げます。張龍・風意のお二人、素敵なプレゼントをありがとう。


 過日はこれまた思いがけない贈り物も。うらうらと晴れた昼、『かね正』で下地を入れていつものように『ふみ』に向い、ボート選手の品評に耳を傾けながら(鯨馬自身は致しません)、ぽつねんとかつ陶然と(一軒目の熱燗がだいぶ効いてきた)呑んでおりますと、見たような風体のゴツい兄ちゃんが。


 店をたたんで以来、ずっと会ってなかった某氏だったのでした。「知った顔に遭遇するのが億劫でこちら方面にはあまり出てなかった」とのこと。久々に見るのが当方如きでは申し訳無き仕儀であるが、いっぱい機嫌で緩みの出た表情にこの程度なら気の置けることもないと安心したようで、結局は『ふみ』を含めて都合三軒ほたえ回ることになる。最終は兵庫駅前の『原酒店』だったので、呑んだことも呑んだが、ずいぶん歩きもした。翌朝ぴりっともこなかったのはそのためか。。

 では最近の本。
○ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか? 実存をめぐる科学・哲学的探索』(寺町朋子訳、早川書房)…文庫化の広告でタイトルに惹かれて単行本を読んだ。物理学・神学・数学・哲学と色んなジャンルの専門家が考えていることが要領よく紹介されていて(著者がインタビューに行っている)面白い。アップダイクにも会って話を聞いている。へえ、アップダイク。単なる勘だけど、ステーィヴン・キングやチャイナ・ミエヴィルならこのテーマにそれほど興味を持たないのではないか。逆説的だが、超自然の物語の紡ぎ手こそ自ら地盤を掘り返すことはしないはず(小説家としてどちらのタイプが上かという問題ではない)。無論結論が出るわけはないけど、たまには世界は何故始まったのか(「どのように」、ではなく)、首をひねってみるのも愉快です。「ある」と「ない」とは本当に対になる概念なのか?とか色んなことを考える。
○高橋真理子『重力波 発見!』(新潮選書)…前書のサブテキストとして。
○R.L.スティーヴンスン、ロイド・オズボーン『引き潮』(駒月雅子訳、国書刊行会)…スティーヴンスン最晩年の作。アトウォーターという宣教師がブキミ。ジョン・ファウルズ『魔術師』のコンチスを思わせる。カリブや太平洋でひたすら堕落していく白人という風情もいいなあ。グレアム・グリーンも影響を受けたのではないか。
○八木沢敬『「論理」を分析する』(岩波現代全書)…今回も面白かった。八木沢さんなら「世界はなぜ「ある」のか?」にどう答えるんだろうなあ。次は「数」の本になるそうである。楽しみ。
大隅和雄『日本文化史講義』(吉川弘文館
○吉田敦彦『女神信仰と日本神話』(青土社
○倉聖哲・実方葉子・ 野地耕一郎編『典雅と奇想 明末清初の中国絵画』(東京美術)…図録だが、充実している。どの画家も(どの文人も、と言うべきか)個性がきついねえ。泉屋博古館は行ったことがないが、これだけの優品があるなら行ってみたい。
○秋山總『聖遺物崇敬の心性史』(講談社選書メチエ
○山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書)…いい入門書。トマスなんて素人では歯が立たないのは分かりきっているから、こういう本は貴重である。おざなりの伝記+学説概要ではなく、存分にテキストを引用して、トマスのいわば論証=思考のパタンを実地に示してくれるのが特に有り難い。それ以外にも、物凄い量の著述をものしたあげく(しゃべるスピードで書かないと説明が付かないほどらしい)、執筆を途絶してしまったとか、現世をとことん肯定していたとか、知らないことだらけで一気に読み上げてしまう。時折ひびく護教的な口調がやや耳障りだけど。
○石野裕子『物語フィンランドの歴史 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 』(中公新書
保阪正康『定本後藤田正晴』(ちくま文庫
○君塚直隆『ベル・エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代』(中央公論新社)…超抑圧的な両親のもとで長年皇太子のまま即位できなかったのは可哀相、と思う反面、母ヴィクトリア女王の懸念もまた宜なるかな、とも思う。
○東より子『国学曼荼羅 宣長前後の神典解釈』(ぺりかん社
○横田文良・辻調理師専門学校『中国の食文化研究』(ジャパンクッキングセンター)…「北京編」「天津編」「山東編」と三冊ある。もっと出してよ!
○古谷暢基・平川美鶴『和ハーブ図鑑』(素材図書)
○スティーヴン・レ『食と健康の一億年史』(大沢章子訳、亜紀書房)…数々のダイエット流派が激しく対立するアメリカって国自体がやっぱり異様である。
○福田浩・松藤庄平『完本大江戸料理帖』(「とんぼの本」、講談社)…加賀料理と京料理の縁は誰でもいうけど、肌合いからいけばむしろ江戸料理の方に近しいのではないか。それにしても、いい器だなあ。

 

 

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