水無月獺祭

 

 ひと月ぶりの更新。いい店何軒かを見つけたが、それは別の機会に書きます。とりあえず溜まってた読書メモから。年数積もると、コレステロールと同じように、「生きてることの塵(垢?)」と言うべきものが嵩を増してきて、暢気ブログを更新する閑暇さえなくなってくる。もっと閑人たるべく心がけねば。

 

○内藤裕史『ザ・コレクター 中世彩飾写本蒐集物語り』(新潮社)

○松田裕之『港都神戸を造った男 《怪商》関戸由義の生涯』(星雲社

○スティーブン・ビースティー、リチャード・プラット『ヨーロッパの城  輪切り図鑑 中世の人々はどのように暮し,どのように敵と戦ったか』(桐敷真次郎訳、岩波書店)・・・『13世紀のハローワーク』のグレゴリウス山田さんご推奨。絵本なのだが、確かに細部の詳密さがすごい。

佐々木健一編『創造のレトリック』(勁草書房

○ワイリー・サイファー『ロココからキュビスムへ』(河村錠一郞訳、河出書房新社

○前田勇『近世上方語考』(杉本書店)

○小川剛生訳注『正徹物語』(角川ソフィア文庫)・・・『兼好法師』(中公新書)ですっかりファンになった。この人の切れ味で、定家偽託の歌学書の注釈なんて、出ないかなあ。

柄谷行人柄谷行人書評集』(読書人)

ミシュレ『世界史入門 ヴィーコから「アナール」へ』(大野一道編訳、藤原書店)

橋本直樹『食べることをどう考えるのか』(筑摩書房

窪島誠一郎『粗餐礼賛 「戦後」食卓日記』(芸術新聞社)・・・外食に出ない日はマメの炊いたのやらお浸しやら干物やらで充分満足する鯨馬ながら、「粗餐礼賛」と言われるといたたまれなくなる。

○宮下規矩朗『美術の力 表現の原点を遡る』(光文社新書)・・・新書だが、ずっしり重い本。美術史家なのに本当に絵画に感動することはなくなった、信仰も喪ったとのっけから言い切ってしまう(なぜそうなったかは各自この本を読んで諒解されよ)。にもかかわらず、表現のまさしく「原点」を幻視する透明な叙述にヤラれてしまう。なにせ神社に奉納された人形や、死刑囚の描いた作品まで絡め取ってしまうのだから。宮下ファンにとっては辛い本ながら、お勧めです。

○武井弘一『茶と琉球人』(中公新書)・・・「茶」でなくてもよかったような。

○ウォルター・アルバレス『ありえない138億年史 宇宙誕生と私たちを結ぶビッグヒストリー』(山田美明訳、光文社)

加藤徹『怪力乱神』(中央公論新社

ホラーティウス『書簡詩』(高橋宏幸訳、講談社学術文庫

○長谷川在佑『傳 進化するトーキョー日本料理』(柴田書店)・・・十年後、二十年後のヴィジョンがはっきりしてるのがすごい。

○松浦壮『時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体』(講談社ブルーバックス)・・・無論、「時の正体」は分からないまま終わるのだが、叙述が明晰で読める。筆力のある人なのではないかな。

○大島幸久『名優の食卓』(演劇出版社

佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ 中世の騎士修道会托鉢修道会』(中公新書)・・・騎士修道会の代表的なドイツ騎士団は原プロイセン人を皆殺しにし、托鉢修道会の主力であるドミニコ会は異端審問で活躍することになる。「革新」とはこうならざるを得ないのか。

○ジェームズ・ロバートソン『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』(田内志文訳、東京創元社「海外文学セレクション」)・・・悪魔と「逢った」牧師の伝記(自伝とその事実を探る記述との混合)という体裁で書かれた小説。「悪魔」はおそれおののく主人公に「魂を奪ったりはしない」と言うのだが、それは当然のことで、このギデオン・マックなる男ははじめから《魂を持たない》人間なのだ。背中がうすら寒くなるようなブキミなやつである。もう少し喜劇的な味つけがあれば、かえって深みが出たと思う(歴史家である辛辣な老女との交遊や彼女の葬儀の場面では多少ある)。

青柳いづみこ『青柳瑞穂 骨董のある風景』(みすず書房大人の本棚」)

○古田亮『日本画とは何だったのか 近代日本画史論』(角川選書)・・・「近代日本画」というジャンルで見るかぎり、たとえば鉄斎は単なる異端になってしまう(おかしくないです?)。洋画とか日本画とかで分類しない、「近代日本の美術史」は書けないものか。

○ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房

○工藤隆『大嘗祭 天皇制と日本文化の源流』(中公新書

○南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社)

宮田登・坂本要編『仏教民俗学大系8 俗信と仏教』(名著出版)

○ジェラードラッセル『喪われた宗教を生きる人々 中東の秘教を求めて』(亜紀書房編訳、「ノンフィクションシリーズ」)・・・ほとんどページごとに「へえっ」となる本だった。ゾロアスター教ドルーズ派などはまだメジャーな方で、当方なぞ聞いたこともない宗教がぞろぞろ出て来る。中東は宗教のモザイク地帯だったのだ。バグダッドにはある時まで世界最大のキリスト教会があったなどの情報が満載。

 

 しかし誰が何と言おうと、何も言わなくても、今回最大の収穫は、

 

                                                            

○ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク『リヒテンベルクの雑記帳』(宮田眞治訳、作品社

 

 

であります。こういう本が生きてるうちに日本で出版されるとは夢にも思わなんだ。人生の最後の段階まで伴侶に出来そう。大冊だな・・・と敬遠気味の人は池内紀さんの訳になる平凡社ライブラリー版(名訳です)をお買いあれ。作品社版のオビにあるとおり、ズボンを二本持ってる人は一本を質に入れてでも、結婚してる人は女房を(あるいは亭主を)を叩き売ってでも、酒呑みの人は禁酒・・・は難しければビールを発泡酒に変えてでもお買いなさい。女房(亭主)を売ったカネで百冊(は大丈夫だと思いますが)買って、友人諸氏に頒ち与えなさい。

 

リヒテンベルクの雑記帳

リヒテンベルクの雑記帳

 

 

 

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 

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鶏の叫ぶ夜

 『いたぎ家』アニーにお誘い頂いて、アニーヨメー、タク、そして木下ご夫妻(当方同様『いたぎ家』の客)の六名で一日滋賀に遊ぶ。前回の滋賀遊びから二年経っている(拙ブログ「KG制覇計畫・其ノ壱」)。天気・気温・湿度申し分なし。

 

 

 手始めに浜大津駅の朝市。そこそこの人出。鯨馬は大好物の鮒寿司と新茶、ちりめん山椒を買った。朝宮茶のかたぎ古香園は以前から関心があったので、嬉しかった。

 

 

 煌めく湖面にはしかしすぐお別れして、向かったのは甲賀は土山の安井酒造場。『いたぎ家』ではお馴染み『初桜』の蔵元である。土山は東海道四十九番の宿場。蔵の前の道が旧街道筋で、向かいの建物はかつて旅籠だったそうな。ちなみに酒造場の周囲には茶畑が広がってまことに長閑な風情。それにしても茶畑に包囲される酒蔵というのも乙なものである。

 

 

  酒醸す家つゝみけり茶のかほり  碧村

 

 

 安井酒造場は小さな蔵で、御夫婦二人で実質切り盛りしているようである(ラベルの達筆は書道教授である奥様が書いたものだそう)。この日もだから、日曜日のお宅にお邪魔して話を伺ったという雰囲気だった。御主人が独特のユーモア感覚を発揮しながら懇切に説明して下さる。仕込み水(こちらは全て井戸水)、タンクの管理(昨冬は低温が続いて、温度調整に苦労したとのこと)、麹・・・そう、麹室にも案内して頂いた。鯨馬は初めて。節の無い杉板が整然と組まれた室内はそれだけでも充分見る価値があると思った。アニーと道々話したことですが、酒造というのはえらく金がかかるものですな。豪農という層でなきゃ手が出せない事業だったに違いない。かつては酒屋すなわち素封家を意味していたのも当然である。

 

 

 蔵そして搾りの木槽の見学の後は試飲。八種類を振る舞って下さった。造りや搾りの過程の説明を聞くと味の違いが判然とする(気がする)。「中汲み」というのがまことに宜しい。先ほどの鮒寿司・ちりめん山椒を取り出したくなったが、そして安井さんは快く許してくれそうな気もしたが、ここで神輿を据える訳にはいかない。お暇して次の目的地へ。

 

 

 清酒試飲のあとにパン屋訪問とは、茶畑に囲繞される酒蔵と同じくらい酔狂というか、自民党員でありながらスターリン主義者というか(これはいそうですな)、この石窯焼きのパン工房がまた、メガソーラーの立ち並ぶ岡の上にぽつんと一軒だけというごく風流な立地であって、森閑としてるんだろうとばかり思っていたら、我々が買っているあいだにも次から次へと客が来て、あっという間に売り切れたのにはおどろいた。SNSのちから、おそるべし。このヨーロッパの田舎家風の店(兼住宅)は店主が自分で建てたものときいて更にびっくりする。※ひまわりの種入りライ麦パン、旨かったです。

 

 

 そう教えてくれたのは永源寺の名物酒店『大桝屋』御主人。『いたぎ家』の仕入れ先のひとつ。お仕事中、案内してくださったのである。パン工房の次には、『ヒトミワイナリー』へ。ま、ここは広く知られているし、前回の滋賀遊びの折にも立ち寄ったところだが、さすがは酒屋店主、試飲コーナーで担当の女性にスマートに声をかけてあれこれ出させる。ちょっと面白い白ワインもあったが、買うかと言われれば、『大桝屋』で滋賀酒を探したい、というところ。

 

 

 というわけで、「ウチなんか来なくていいのに」と仰るのを押して『大桝屋』へ。色んな蔵元のを揃えているだけでなく、同じ銘柄で熟成させてみたりと色々工夫のある酒屋であって、御主人はカタギにはとても見えない相貌ながら、おっとりした近江訛りで懇切に説明してくれる。アニーは相談しながら店の仕入れをしておった。鯨馬も試飲のご相伴に与って、一本購う。

 

 

 夕食前に、野菜の直売所に立ち寄る。ヤーコンだのジャイアントレモンだの(なんやねんそれ)訣の分からぬ連中よりは、三ツ葉や芹を並べなさいよ!とぶつくさ言いつつ、ここで買ったのはクレソンと葱、豌豆、それに味噌。

 

 

 さて夕食。無類の愛鳥家たる木下夫妻(トリ肉に目が無い、という意味です)が来ているのだから、当然トリ。そして近江でトリといえば『穏座』・・・『かしわの川中』がやってる地鶏料理の名店である。「有名だけど、それだけのことはあるの?」との声に、木下ダンナの一言がふるっていた。「後悔はさせません」。こう聞かされると、否が応でも気分が盛り上がりますな。食事前に、『川中』に寄って銘々、お土産用に鶏肉を買う。ここの名物である淡海地鶏は売り切れ、近江シャモの盛り合わせを買う。スーパーのブロイラーの値段と比較しても、ずいぶん安い、と思う。何故か。店のすぐ裏には小屋が並んで、時折コケエェッと鳴き声が上がる、という仕組み。そして『穏座』は『川中』の隣なんだから、これ以上の〝地産地消〟は無いというもの。

 

 

 木下夫妻が選んでくれたのは塩焼きコース(他にすき焼き等もあり、全部同じ値段)。鳥は近江シャモのメス。この塩焼きも嘆賞すべきものだったが、殊に、このメンが先ほど時をつくっていたやつの嫁ハンであって、ここに来るに当たってはひとしきり愁嘆場があったのだろうと想像すると尚更味わいを増すけれど、それはともあれ、初めに出た造り、それも白肝の素晴らしさには度肝を抜かれた。キモを喰ってキモを抜かれたのでは締まりの無い次第であるが、信じられないような尤物なのである。色は白よりもむしろ黄色に近く、噛むとそこらの焼き鳥屋で「白肝」と称するのとは違って、水っぽさが全く無い(タクの見立てでは、脱水シートで水分を抜いているのではないか、とのこと)。味は、鯨馬の筆ではとても形容の仕様がない。上質のバターをふわっと固めたとでも言おうか。でもウシではなくトリであるから、バターほどしつこくはなく、といってやはり臓物だから単なるアブラよりはこくがあってしかも清麗優雅。なにか夢のような食べ物である。ひと切れ食べて目を丸くし(何度食べても目が丸くなる)、一分ほど経つと「なんだったのだろうか、あれは」という思いに駆られて次のひと切れにまた箸をのばすことになる。すなわちこれ桃源郷

 

 

 「後悔させない」木下ダンナも木下ヨメも、憑かれた如くに肝をほおばる我らを見てにこにこしていた。いや実際になにかの魔術がかけられてたに違いない。炭水化物を口にしない鯨馬が、この日は(しかも夜に!しかも酒のあとに!)卵かけ飯まで堪能したのでありますから。

 

 

 極上の「大人のピクニック」でした。誘ってくれたアニー、ずっと運転手をつとめてくれた木下さん、そして安井さん・大桝屋さん、それに近江シャモのよめはん、どうも有難うございました。

 

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上等な五月の夕餉

油目の新子が出ていた。油目がそもそも好きな魚だが(造りはもちろん、椀種にするとすごい実力)、成魚の方は最近あんまり見かけない。東京湾ではすでに「幻の魚」になっている、とテレビ番組で言ってたような気もする。

 

 獲れなくなってるところに、新子を流通させるのは資源管理的によろしくないだろう。銭本慧さんに叱られそうだ、と考えつつ、でもやっぱり昔からの好物なのでつい買ってしまった。

 

 半分はいつもどおり唐揚げにする。レモンをたっぷり搾る。身はほろりと崩れ、またはらわたの爽やかな苦みがたまらない。一尾一尾愛おしむように摘まんで食べてゆく。あっというまに無くなってしまう。でも全部揚げ物ではこたえるし・・・と残り半分は、佃煮にした。両面を炙ってから酒と醤油でさらりと煮る。山椒の若芽をふんだんにちらす。飯のおかずにも、酒の肴にも合いそう。これに新物のアオサノリを吸い物にしたのと、冷や奴(大蒜を漬けた醤油と胡麻油で食べる。そういや、新大蒜、そろそろだな)とうすいえんどうの葛寄せで、完成。思うに、山海の旬といい、季候といい、盛夏よりもビールが旨く呑めるのは五月なのではないか。ともあれ、うすい豆ももう終わり、ということは今からは空豆の季節。豆好きには心躍るバトンタッチである。

 

 

 さて、久々に、読んだ本の心覚えを。だいぶたまっております。

 

花村萬月『太閤私記』(講談社)・・・劣等感とルサンチマンでどす黒く染め上げられた、陰惨な秀吉像。大阪生まれながら秀吉が実は好きではない人間としては、そういうものとしてたいへん納得がいく。小説としては、後半がややせわしない(『信長私記』もそうだった)。

○中村啓信他『風土記探訪事典』(東京堂出版

○ウラジーミル・ソローキン『テルリア』(松下隆志訳、河出書房新社)・・・断章形式による「テロ」後の世界像。カルヴィーノの傑作『見えない都市』の瀟洒な味わいを悪どく煮詰めた感じ。断章形式を酷愛する読者にはそれもまた嬉しいのだが、出来栄えという点では、

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』(須賀敦子訳、河出文庫)・・・とは比較にならない。小説作者としての格がちがう。

ジャン・ルイジ・ゴッジ『ドニ・ディドロ、哲学者と政治  自由な主体をいかに生み出すか』(王寺賢太編訳、勁草書房

○船木亨『いかにして思考するべきか? 言葉と確率の思想史』(勁草書房

○ジャック・ブロス『世界樹木神話』(藤井史郎他訳、八坂書房)・・・すべての樹木がひとつの神話である。

トーマス・マン『五つの証言』(渡辺一夫訳、中公文庫)・・・文庫オリジナル編集。敗戦迫り来るなか、渡辺一夫が心身をしぼりつすようにして訳したマンの小論に、渡辺自身のエッセーを併載する。

○エリン.L.トンプソン『どうしても欲しい!』(松本裕訳、河出書房新社)・・・副題は「美術品蒐集家たちの執念とあやまちに関する研究」。

○冷泉為人『円山応挙論』(思文閣出版)・・・自伝的な小冊子が付いている。関西学院で著者を教えた加藤一雄のことばが面白い。いかにも『無名の南画家』、そしてなによりも『蘆刈』の著者だなあ、と思う。え、この二作読んでない?それはたいへんお気の毒です。後者など呆れるくらいの名品ですよ。応挙から遠く離れてしまったけど。

エドゥアール・シャヴァンヌ『古代中国の社 土地神信仰成立史』(菊池章太訳、平凡社東洋文庫)・・・こういう土俗信仰と儒教儒学でなく)道教との接続具合がよう分からん。

○ジェレミー・テイラー『人類の進化が病を生んだ』(小谷野昭子訳、河出書房新社

○ローラ・カミング『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳、柏書房)・・・ノンフィクション。ある日、ごく平凡な書店主が、偶然目にした肖像画を手に入れる。彼はそれがベラスケスの真作と見抜いたのだ。それ以降彼の人生はこの一枚の絵のために翻弄され続けることとなる。皇太子時代のチャールズ1世を描いたそのタブローは今行方不明なのだそうな。お分かりのとおり、じつに魅惑的な素材ながら、「画家の中の画家」ベラスケスを讃仰する著者の筆につつしみが足りないため、読書の興が殺がれること少なしとせず。それはそうと、六月に、ケンビこと兵庫県立美術館にベラスケスはじめとするプラドの名品展が回ってくるようですね。楽しみ!

藤田覚勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)・・・江戸時代、いちばん才能重視で門戸が開かれた職が勘定奉行だったのだそうな。そうだろうな。

○ジョン・ネイスン『ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録』(岩波書店)・・・著者は三島由紀夫の評伝を書いたことで知られる。そしてその訳者は鯨馬の恩師である。ネイスンと我が師匠は一時期かなり親しくしていたらしい。師匠の肖像は、弟子から見るとさもあらん、という感じで、つまりなかなかの才筆であります。それにしてもやっぱりアメリカ人だなあ。「自分には才能がないんちゃうか」と悄気返ったかと思うと、いつの間にか奨学金なり投資家の援助を得てばりばり金儲けに邁進している。あんまり周囲に見かけないね、このタイプ。

田中優子松岡正剛『日本問答』(岩波新書)・・・橋爪代三郎・大澤真幸コンビの対談ほどひどくはないが(「ドーダおれかしこいだろ」合戦)、松岡さんの仕事はどうもキャッチ・コピーの連続みたいで薄味、じゃなかった味が薄いように思う。

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ)・・・なぜかというと、「存在」とは「意味の場への現れ」であり、「世界」とは「あらゆる意味の場の場」であって、それは論理的に成立しないから。とのこと。著者は「新実在論」の立場に立って、特にポストモダンの社会構成主義(あらゆる存在は特定の文化・社会の枠組みが作り上げた虚構である)を排撃する。それはいい。科学的実在だけでなく、想像も意識もすべて実在なのだとするのもよろしい。しかしそれら全ての総体としての《これ》は、では一体何なのか。それは《世界》ではないのか。

 

 

○野崎洋光『料理上手になる食材のきほん』『野崎洋光春夏秋冬の献立帳 「分とく山」の永久保存レシピ』(ともに世界文化社)・・・どちらもこれからの家庭料理のスタンダードになると確信してます。

窪島誠一郎『粗餐礼賛 「戦後」食卓日記』(芸術新聞社)・・・前述のごとく、鯨馬の食卓はつつましやかなものだが、こう堂々と「粗餐」を「礼賛」されるとなんだか鼻白んでしまうのですな。『清貧の思想』とか『国家の品格』とかいう書名と同断。

町田康『関東戎夷焼煮袋』(幻戯書房)・・・さすが町田康だけあって文章は凄いのだが、どうにも具合が悪い。同じ上方の人間であるのに、いやそうではなくて上方の人間だけに、「うどん」とか「イカ焼き」とか「どて煮」とかを繰り出されるとなんだかうつむきたくなってしまうのだ。

○カオリ・オコナー『海藻の歴史』(龍和子訳、「食の図書館」シリーズ、原書房

 

 

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危機の思想と思想の危機~双魚書房通信(19) 牧野雅彦『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ)~

 有名だが、多数の読者に支持されているというよりも、いくつかのエピソードの霧が当人をもやもやと包み込んで、それがいつの間にかこれまたいくつかの評語をまぼろしのように吐き出して、それらをあまり意味も無く呟くことがすなわち論じるということにされてしまう型の思想家がいる。ルソーがそう。福沢諭吉なんかも存外この中に入るのかもしれない。

 

 カール・シュミットはそうした不幸な思想家のなかでも恵まれないことでは一二を争う。なにせ名前を出せばたちどころに「ナチスの御用学者」と身がまえられ、どうやら称賛している気味合いの人々も「危険な思想家」と言って済ますのが通例のようだから。

 

 後者の言い回しに対し、著者はあとがきでどう言っているか―「このような物言いには、悪(ルビ「ワル)を気取った知識人が、よせばいいのに刃物をふりまわして得意になっているようなところがあ」る、と(それにしても、「あとがき」とは何ゆえこのように面白いのか)。そして、シュミットを「危険な」ではなく「危機」に対峙した思想家だとする。

 

 ここまではまだ《評語》のうち、と言えなくもない。尋常でないのはそこからであって、既訳未訳を含めシュミットの著作を自在に引用しながら、この問題的(プロブレマティッシュ)な法学者=思想家の輪郭をくっきり描き出して見せた。「多くは論争的な文脈で書かれていて、特定の相手に対する論評や批判的註釈の形をとることもしばしば」、つまり正面切って自分の立場を宣言するタイプではないシュミットの思想構造が綺麗に差し出されている。綺麗に、というのは小綺麗に―とはつまり《評語》的に、ということだ―まとめたのとは異なる。見えにくい脈絡を執拗に追尋して明確に述べることである。とりわけ評者が感心したのは、「政治神学」というシュミットの基底から始めて、第一次大戦ヴェルサイユ体制(そしてワイマール体制)とその崩壊・第二次大戦とその戦後処理・戦後の国際秩序という具体的な歴史の流れの中に彼の主張を置いてその立ち位置をはっきりさせ、最後にまた「政治神学」が孕む問題に言及して終えるという整然たる構成。よほど緻密な思考が出来る学者なんだろうなあ。

 

 シュミットはローマ・カトリックの信徒だった。だからこの世のすべては神が創造したものとみる。しかし最後の審判までは地上で生きてゆかざるを得ない。とりわけ世俗の政治権力にどう接すればいいのか。しかもその接し方は具体的な歴史のありようとそれに反応して変化する体制のありようによって、一定不変のものではありえない。要するに「個別的具体的な歴史的・政治的状況における危機」にキリスト教徒としてどう身を処していくべきか、それが政治神学である(「序」)。ドグマティックな裁断ではなく「位置」「文脈」に常に目を向ける姿勢に留意せよ。

 

 カトリックであるということは、個人の内面に信仰の問題を還元するプロテスタントとは違い、教皇を戴く教会という組織の性格、ことにそれと世俗権力との関係について態度を決める必要があるということ。著者は、シュミットが注目したド・メーストルや、さらにはラスキなどの教会/国家観を取り上げ、彼らとシュミットの共通点・相違点を検討していく。あ、そうだ、言及される思想家の言説が丹念に引用されているのもこの本の特徴。何も尻込みする必要はないので、どこまでも続く(ように見える)引用には、これまた丁寧なパラフレーズが付いているので大丈夫。評者も面倒くさそうなところはパラフレーズだけで済ませました。

 

 なんといっても本書の圧巻は先に書いたように、第三章から第八章まで。これは章題をつなげると、「ヴェルサイユ体制と国際連盟批判」から「戦後西ドイツ国家の成立とシュミット」まで、ということになる。「批判」の要諦はそれが「正統的で安定した法秩序を作り出していない」点にある。ちなみにこの場合の「正統」とは「権利をめぐる紛争を処理する手続きや制度が実効的に機能していること」を指す。安定をもたらさないのはなぜか。シュミットはそこにアメリカの影響力の拡大を指摘する。合衆国国務長官の名を冠したケロッグ=ブリアン協定ーいわゆる「不戦条約」―は、戦争の放棄を謳うものの、放棄されたのは「恣意・利己心・不正によって遂行された戦争」である。しかし一体誰が「不正な戦争」かどうかを決めるのか。また国際連盟の集団安全保障体制は、「地方的対立を世界戦争へと拡大するのに適している」。

 

 この論点は第六章(「第二次世界大戦の敗戦とニュルンベルク裁判」)でより精細に展開される(今さらですが、本稿ではシュミットの議論と著者による整理を一括りに扱っています。引用でもどちらのものかは一々示していません)。ニュルンベルク裁判は、「戦争の違法化」の極致である。「違法化」は「正当な戦争」と「不正な戦争」を区別するがゆえに、世界大の内戦をよびおこす。だから、ヨーロッパ列強の力の均衡の上に築かれた、いわばルールに則った国家間の戦争(および終戦処理手続き)とは対極に位置するものである。苛烈にして透徹した認識。ちなみにこの話題に関しては藤原帰一『戦争を記憶する』および高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』がいい参考書となります。

 

 第七章におけるアムネスティ(恩赦)を巡る議論も興味深い(最近出た神崎繁『内乱の政治哲学 忘却と制圧』はアムネスティに関するシュミットの論説から始まる)が、先を急ごう。

 

 「正しい戦争」および不気味に広がるアメリカの影。なにやら二一世紀を生きる自分の周囲がキナ臭くなってきた按配である。著者は筆を控えているが、シュミットの予見する世界像はぞっとするほど正確である。「純粋海洋的実存への徹底した決断」によって産業革命と技術の解放へと歩み出たイギリス、その「海洋支配の継承者」たるアメリカと日本の戦いは従って大洋をめぐる世界戦争であり、ドイツ(もちろんヒトラーのドイツ)が展開する陸戦とは区別されねばならない。ナルホド。「太平洋戦争」という呼称は単なる戦場ではなく、こういう世界史的意義をもっていたわけだ、とにわかにあの戦の性格がはっきりしてくる。

 

 また――「従来の「中立」が(中略)交戦国とその戦闘行為に対する第三国の不介入を原則としているのに対して、道徳的価値評価を背後に潜ませているアメリカの「中立」は、ひとたび事情が変われば無際限の介入へと転化する」。アメリカは「地上の世界の裁判官の地位に座して、あらゆる民族とあらゆる圏域のすべての問題に介入する権利を引き受ける」ことになるだろう。

 

 また――「闘争の手段が技術的に高度なものになればなるほど、(中略)パルチザンは自己の基盤であった土地との結びつきを失っていくことになる」。そして「相手の完全な殲滅を可能にする絶滅手段が想定する敵は、完全に無価値な存在、存在そのものが否定されるべき存在となる」。

 

 悪魔的なまでに明晰な思想家(おや、また《評語》化してしまった)の精髄をこれまた明晰に取り出した一冊。あまりに清澄に書かれたがゆえに、ここから始めて『政治的なものの概念』や『政治神学』や『大地のノモス』の毒にどっぷり浸かりたくなるはず、というのは決して本書を貶めていうのではない。

 

 

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

 

 

 

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姫と白狐と満開の桜と

 四月文楽公演は昼の部に。夜の演目は『彦山権現誓助劒』で、仇討ちモノは好かないからである。つまり消極的な選択だったのだが、これが幸いして、「道行初音旅」も『本朝廿四孝』も楽しめました。ついでに言えば、仇討ちモノでも『仮名手本忠臣蔵』は別。大好きといっていいくらいである。思うに、武士道だの忠義だのといった徳目を離れて、純粋なテロ行為になってるのがいいんですね、あれは。大都市のまん中で武装した集団が権勢をふるう老人をなぶり殺しにするのだからこたえられない。だから、丸谷才一が主張するのとは違った、というかもっと俗っぽい次元で、カーニヴァルだったと言えるのでしょう。

 

 なら二・二六事件はどうなるのか。そう問いつめられても困るので、芝居で殊に様式の美を重んじる類いの芝居で観るからこそ面白いのである。ポルノの代わりにナマの性器を見せられた方がコーフンするというようなもので、まあ、そういう質の人間もいるかもしれないが、そういう人とはあまりお付き合いしたくないですな。

 

 何の話だったっけ。そう、「道行」が綺麗で可憐でよかったということが言いたかったのだった。春の吉野山。前後左右はただもう咲き散る桜。さながら花の迷宮のようななかを、はなやかなこしらえの美少女と美少年が埒もない会話に興じつつ、花の魔性に魅せられたようにうっとりと歩を進めていく。そして白狐の化身である少年は鼓の音に惑乱して、時折瞳を金いろに光らせたり、白い尻尾をゆらゆらと打ち振ってみたり、あげくには恍惚のあまり宙をふわふわと漂ったり宙返りしたりしてしまうのだ。

 

 舞踊の名手がふたり組んだ歌舞伎の舞台もさぞ見栄えがするだろうが、化生の者と深窓の姫の幻想的な旅路は、やはり人形でこそ味が濃いと思う。それにしても、咲太夫さん、びっくりするほど痩せて声も細くなってたなあ。

 

 元々近松は門左衛門より半二のほうが贔屓なくらいだから『本朝廿四孝』はもちろん面白く見物。半二らしく、随所にシメトリの趣向が凝らされている。極度に技巧的(過ぎる)、と評するのが普通なのかもしれない。たしかにあまりにめまぐるしく裏返される物語には、近松門左衛門の世話物のような「自然」は微塵もない。いっそ痛快なほどない。

 

 橫蔵・慈悲蔵の兄弟が正体を露したあと、後日―というかあり得ない未来―での合戦を約する幕切れ(無論このパタンは人形浄瑠璃に通有のもの)が、あれだけ深い感銘を与えるのは、では一体何なのだろうか。スペインのバロック悲劇を読んだときの、途方もない混乱と強烈な無常観とが一ぺんに襲いかかってくるようなまことに不思議な味わい。うまく分析できないのですが、近代を飛び越えて、いきなり「現代」性を突きつけられる感じ(テーマが現代的というのでもない)。老母が最後近くで「廿四孝」と題名の意味にいわば自己言及するくだりにもその感じはつよい。門左衛門とはまったく違った意味で、しかし天才という他ないんだろうな、こういう才能は。

 

 最後になりましたが、五代目吉田玉助さん、襲名おめでとう御座います。

 

 夜は呑み友だちに連れられて北浜の立ち呑み屋をはしごする。どちらもいい店で、一人でもまた訪れたいと思う。周囲がいかにもという一流企業のオフィスばかりで、その中にぽつぽつとこういう呑み屋があるのだから、大阪は面白い。神戸ではこうはいかない。

 

 もうひとつ大阪らしくて可笑しかったのが、友人と会うまえに時間つぶしに入った天神橋筋の居酒屋。夕方とまで行かない時刻にもかかわらず、もうすぐ現役引退かなというオッサンにはじまり、前現役だの元現役だの前世は現役だったろうというのまでが店いっぱいに元気よく呑んでいる。当方なぞはまだ洟垂れ小僧という割り付けであって、カウンターの端っこでなんとはなしに背中を丸めながら生ビールをちまちまやっていたことではあった。

 

 

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雉が芹しょって。

 某日は「海月」敬士郎さん夫妻と「ビストロ ピエール」へ。雉のローストとリゾットが素敵に美味かった。ワインもじゃかじゃか呑んで、前回同様首をひねりたくなるような安さでした。

 

 翌日、リゾットの仕上げに使っていたチーズを買いに、宇治川商店街の「スイミー牛乳店」へ。店名のセンスから分かるとおり、洒落たつくりで、店長さん(一人でやっているようである)もいい雰囲気。宇治川にこういう店が出来る時代が来るとはなあ。ヨーグルトとウォッシュタイプのチーズを買う。ホールのチーズは冷蔵庫でとろとろになるまで熟成させる。「ちょっとずつ熟成の具合を味見しながらというのも楽しいですよ」とご店主。途中で食べつくしてしまわないか心配である。

 

 某日は友人と「いたぎ家」芹満載コースをいただく。圧巻は鍋。鴨と合わせるのはまあ尋常として、芹が文字通りにてんこ盛り。きけば「お代わり自由」とのこと。某河内鴨専門店で同じことをしたら、どれだけ取られることか・・・。しかもこの日は、芹の根の部分もたっぷり出されていた。これは若芽よりも濃厚で、しかも品格正しい香りのする珍品なのである。普通の芹は水耕栽培のものが多いから、そもそも根が無いのだ。出汁で炊いても、炒めても、無論揚げてもよろしい。こんがり炙ったお揚げの中にさっとゆがいた芹の根をぎゅうぎゅう詰め込んで、醤油を垂らしてもよさそう。辛子を少し加えた白和えなんぞは懐石の一品に出てもおかしくないでしょうね。ゆがいたのを、質のいいオリーヴ油に浸してぱりぱりやるのはどうか。など色々コーフンしてしまう。あまりにも需要が多かったために、芹フェア第二弾開催も決まったそうな。芹帝国主義者としては欣快の至りといわねばならぬ。

 

 

 ともあれいい形で年度末をしめくくることが出来ました。四月は魚島の鯛と山菜をもりもり食べて新年度をしゅぱっ。と出発したい。

 

 

 本には年度末も春もない。

 

○ウィリアム・ウィルフォード『道化と錫杖』(高山宏訳、「異貌の人文学」、白水社)・・・山口昌男の貴重なエッセイまで収録するという、ゲームならさしづめ「コンプリートパック」とでもいうところ。高山宏が監修して「道化叢書」なんつーのをやればいいのに。いや、この本の伝説的な註釈がすでに書目のみながら、一大叢書になってるか。

○ゲンデュン・リンチェン編『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』(今枝由郎訳、岩波文庫)・・・ブータンの一休禅師というか一遍上人というか、型破りの坊さんの言行録。そう、つまりは是もまた典型的な《道化》。

久保田万太郎『浅草風土記』(中公文庫)・・・喪われた郷土によせる懐旧の思いが文章を湿らせて、読んでる手までがびたーっと濡れそぼつ風情。

藤原帰一『戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在』(講談社現代新書

ジャン・ジロドゥ『トロイ戦争はおこらない』(岩切正一郎訳、ハヤカワ演劇文庫)・・・ほとんど頽唐期の歌舞伎を想わせるような作劇術。最後の一句も効いている。鳥から生まれた、白痴的なヘレネの造型が魅力的。それにしても、主人公を演じた鈴木亮平、よかったなあ。戯曲は滅多に読まないが、ずいぶん奇特な文庫である。敬意を表します。

上田閑照編『マイスター・エックハルト』(「人類の知的遺産」、講談社

○藍弘岳『漢文圏における荻生徂徠 医学・兵学儒学』(東京大学出版会

○澤井繁男『外務官僚マキァヴェリ 港都ピサ奪還までの十年』(未知谷)

○同上『ルネサンス再入門 複数形の文化』(平凡社新書

○同上『若きマキアヴェリ』(東京新聞

○ベルント・レック, アンドレアス・テンネスマン『イタリアの鼻 ルネサンスを拓いた傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ』(藤川芳郎訳、中央公論新社)・・・武勇並びなき傭兵隊長であり、学藝の保護者でもあたウルビーノの君主の伝記。著者は、「教養あふれる君主」が本人による情報操作の結果のイメージであると論じるが、ルネサンスなんだから、野蛮狡猾かつ高雅寛容であって、ちっともヘンではないだろう。ちなみに、モンテフェルトロの肖像を描いたピエロ・デッラ・フランチェスカに関しては、ギンズブルグに『ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎』(みすず書房)という素敵に面白い本があります。おすすめ。

○ダンテ『帝政論』(小林公訳、中公文庫)・・・ダンテが皇帝(この場合は神聖ローマ皇帝)支持派というのは、知識としてだけ知っていた。訳者の綿密な解説で、その背景が分かった。フィレンツェの派閥抗争というか、党派根性てえぐいな、しかし。

○ロンギノス他『古代文藝論集』(「西洋古典叢書」、京都大学学術出版会)

○モッシェ・ハルバータル、アヴィシャイ・マルガリート『偶像崇拝 その禁止のメカニズム』(大平章訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局)・・・部族における姦通の禁止が、「嫉妬する神」の表象を生んだ。ユダヤ人とエホヴァは腐れ縁の仲なんですなあ。

岡崎武志『蔵書の苦しみ』(ちくま文庫)・・・細部が杜撰だなあ。吉田秀和が驚嘆したのは吉行淳之介でなくて吉田一穂でしょ。丸谷才一を呼ぶのに「ジョイス学派」とは何か。ほな亀山郁夫ドストエフスキー学派で若島正ナボコフ学派なんか。仮にも古本好きというなら、そーゆーとこを疎かにしてはいかんでしょうが。

紀田順一郎『蔵書一代  なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』(松籟社)・・・老後を考え、蔵書家が蔵書を手放してしまう話。規模は全然違うけど、いずれこの日が来るのだ。ぞーっとする。

○木下武司『和漢古典植物名精解』(和泉書院)・・・えらくかさばって重いのは難点だが、暇潰しに絶好の本(褒めている)。

○『周作人読書雑記1』(中島長文訳注、平凡社東洋文庫)・・・これも閑暇の読書として最適の一冊。

東海林さだお『焼き鳥の丸かじり』(朝日新聞出版)・・・癌の手術も無事終えられたようでおめでたい。久々にタンメンが登場したのでこちらまで嬉しくなる。東海林さん、タンメンが大好きなようで、タンメンの回は気合いが入ってるのです。

○北野佐久子『物語のティータイム お菓子と暮らしとイギリス児童文学』(岩波書店

○岡崎大五『腹ペコ騒動記 世界満腹食べ歩き』(講談社

○大阪料理会監修『大阪料理』(旭屋出版)・・・もっと大阪料理の史的展望に特化して編集すべきだった。「現代の大阪料理○○選」なんて、ここで披露しなくてもいいだろう。とか文句は沢山あるが、貴重な一冊であるには違いない。とっかかりとして。

 

芹の行進

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南部ひとり旅(3) 迷宮にふみこむ

 舘鼻の岸壁朝市には、ま、色々あって行かず。種差海岸とともに、次八戸に遊んだ時の楽しみとしておく。朝市の代わりに、看護師が教えてくれた八食センターへ足を向けた。中心街からタクシーで二十分くらいか。水田のまん中に無闇にでかい建物が立っている。

 

 

 早くいえば、小売専門の市場。八戸のように海産物が豊富なところだと、これは同時に一大土産もの屋ということにもなる。中には飲食施設もある。当方の印象では地元四割観光六割というところか。暖かい日曜の昼間ともあってかなりの賑わい。

 

 

 目玉は場内に設けられた屋内型バーベキューとでもいうか、市場で買ってきた魚介を七輪で焼いて食べられる区域があって、広い空間は既に七分ほどの入り。

 

 

 ともあれ肝腎のブツを見なくてはな。センターに足を踏み入れた時から直観的にわかっていたのだが、ここは鯨馬のような市場好きにはこたえられない楽園であった。

 

 

 なにしろ魚の量と質が違う。たとえば鰈。この時期の関西で鰈といえば目板だが、それはどこにも見かけず。かわりにオイランガレイだのナメタガレイだのがぬらぬら光るからだを並べている。鮟鱇、鱈は言うまでもない。そのどれもが、ちまちました切り身でなく、小さくともブツ切り、大抵はごろんと巨体を横たえている。その他に海藻と貝類の種類の多さよ。

 

 

 七輪でいい加減に炙り、あぶらの滲んだやつをじゅっと噛みしめ、生ビール(冷酒)をぐいっとやったら無上の快楽であろうことは容易に想像出来るけれど、先ほどのバーベキューコーナーの混み具合を思い返して鼻白む。日曜の昼ひなかから、目つきのよろしくないオッサンひとり、魚や貝を焼いてはひっきりなしに酒をあおりつけてる光景、端はどう見るであろうか。

 

 

 いじましく人目を気にしているようだが、そこは年相応に面の皮も発達してきているから照れや恥ずかしさはない。ただ、隣や向かいの家族連れやカップルがこう思っているだろうな、と思いつつ酒を呑んでると、「『こういうことを全く気にしてないんだぜ、このオレは』と見せつけたがってるのかしら、このヒト」と思われないかな、と思うと気ぶっせいなのである。これをしも中二病というのかどうか、それは分からんが、一人でゆったりスペースを取っているとさぞかし周囲の視線がとげとげしかろうと推測し、屋内バーベキューは断念して、屋内ピクニックに方針を切り換えた。ま、だいたい、いくら「一枚から販売します」であろうと、烏賊でも鰈でも大ぶりのヤツひと品だけで満腹しちまうだろうしな。蛤なんかごろんと巨大なのが六~七個入ったのが最小単位なのですぞ。実に・・・じつに悔しかったです。

 

 

 煮魚や発酵食品の類いが売ってなかったのを瑕瑾として、ピクニックはそれとして実に豪奢なものとなった。烏賊の天ぷら、ホタテのフライ、カナガシラの唐揚げ、卵の巻焼き、焼き鯖、殻付き生海胆、漬け物盛り合わせ。共有通路の卓上いっぱいにこのオカズを並べ、缶ビールを二本に冷酒二本、最後にハイボールをゆっくり呑む(すぐ隣が酒屋)。回りでは中学生がラーメン啜ったり大学生のグループがちまちま海鮮丼などをつついている。結果的にはバーベキューしているよりも、よほど周囲から浮き上がっていたのでした。

 

 

 魚はどれも欲しかったが、いくら冷蔵技術が進んだといっても、ここから神戸に持ち帰ったのでは真価を堪能できないだろう。いさぎよく生鮮は断念し、代わりに「すき昆布」(昆布を細かく刻んで海苔状にすいたもの)と同じく菊を板状に乾したの、それに青森名産の焼き干し(極上の出汁がひける)を自分の土産とした。諦めがついたのは、八戸再訪をこの時には確信していたからである。

 

 

 豪奢な昼の宴のあおりで夜はごく控えめ・・・のつもりだったが、鯨汁がめっぽう旨く、熱燗を何度も何度もお代わりすることに。皮鯨を主たる実として、笹がき牛蒡・キャベツ・人参・凍み豆腐がたっぷり入った汁を、ごく薄味の味噌仕立てとしている。この夜も生暖かいくらいだったが、極寒の夜にこれを啜ったら夢ごこちになること間違いない。そしてその時、鯨汁の椀のよこには、細かい脂をきらきらとみにまとった前沖の鯖の刺身、鰊の切り込み、鮑の塩辛、せんべい汁が並んでいる。地上の楽園ここにあり。そして楽園では例の闊達な看護師が横にいて、大声で笑いながらどくどくと酒を注いでくれるのである。

 

 

 その南部人がこき下ろすところの青森、つまり津軽の代表的な町で今回の旅を切り上げることになったのは皮肉なことではある。これはこっそり言わねばなるまいが、駅前の食堂で取ったホタテのフライも、市場裏のオバチャンのおでんも、まちなか温泉の茶色がっかった湯の肌触りも、まったくもって結構なものでありました。

 

 

 

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