素人包丁~ひとり月見の巻

 親譲りといふのでもない偏窟で小供の時から損ばかりしてゐる。わざわざ前夜に観月料理をつくって見ようと思いついたのもそのせい。

 

 別に損はしてないか。日本の料理はなんといっても季感が要なのだから、そして月と花とは風物のなかの両横綱といってもいいものなのだから、膳組をかんがえるのには恰好の日なのだった。

 

 旧暦では仲秋。「冷ややか」なんて季語もあるが、実際には少し歩くと汗ばむほど。しかしまあ、この夏の暑さは異常だったから、このくらいの気温でも例年よりむしろ秋の到来が実感できる、とも言える。主題は《侘びた風情》としましょう。茶事では十一月がワビサビ懐石の時候に当たるが、それのはやどりと参ります。

 

 献立は以下の如し。

 

○膾・・・鯖のきずし。鯛や鰹を用いないのがワビサビなのである。今回も野崎洋光さんのやり方に倣って、まず砂糖で〆る(水分だけを抜く)、その後で塩をする。これだと魚の肌が荒れずに綺麗に仕上がる。つまは茗荷と胡瓜の細打ち。すり生姜と山葵大根で食べる。今回はミツカンの「山吹」なる粕酢を使用。色同様に、ずいぶん旨味のつよい酢だった。翌々日の弁当は鯖の棒寿司で決まり(なんで翌々日かというと、一日かけて鯖と飯とを熟らすのです)。

○椀・・・鱧と松茸。どこがワビサビやねん。どう見ても秋のお椀の王道ではないか。という良心(?)の批難も聞こえてはいたのだが、膾で鯖を使った以上、船場汁にも出来ないし(これこそ侘びた風情の最たるものなのだけど)、精進の組合せは思いつかないし・・・と苦渋の決断だったのです。鱧は定石のままに、丁寧に葛粉をまぶし、塩湯で湯がいておく。松茸は蒸し焼きにして裂く。出汁は羅臼昆布と本枯節の一番出汁。それに鱧のアラからとった出汁を合わせる。あまりにも旨味が強いから、水でのばして丁度良い。味付けは淡口醤油すら不要なくらい(塩をぱらっ、と程度)。松茸はメキシコ産にして八百五十円也。メキシカンなマッタケてゆーのもどうなんだろう(京は嵯峨野名産のチリソースと言うが如し)と思いつつも、岩手産二万七千円なんぞという方々には手が出るはずもなく、淡路の鱧とメヒコの松茸、というよう分からん大一番で椀をこしらえたのだった。マッタケの香りはしたか、と問いなさるか。ええ、それはしましたとも。少なくとも上方噺『百年目』で、閉め切った遊山船で花見に出かけた芸者が言うような、「へえ、なんや咲いてるようなカザがしました」というくらいには。

 頑張って稼いで、岩手でも広島でも京都産でもむしゃむしゃ食い倒すような身分になろう、と固く決意する。

 あ、吸口は柚子(元町ファーム)。まだ青いぶん、香りが高い。上にオクラを刻んでゆがいたのを留める。

○焼物・・・これも鴨の鍬焼きやら甘鯛の若狭焼きでは豪奢に過ぎる、ということで蛤の松前焼き。殻から外した身を、酒で湿した昆布の上で焼く。味付け不要。酢橘を滴滴とたらす。

○炊合・・・新小芋・蓮根・茄子・万願寺・胡麻入り生麩。蓮根は加賀のもの。茄子は色よく仕上げるには一度揚げるのがよいけど、とにもかくにもワビサビゆえ、所々皮をむいたあと、胡麻油をさっと塗って、グリルで焼き目をつける。仕上げはむろん新柚子の皮をおろしかける。我ながら上出来。

○八寸(もどき)・・・正格の茶料理だったら、焼き目をつけた栗(山)と蟹の子の塩辛(海)とでもする所。これではあんまり愛想がないので、山=栗と柿の辛子和え、海=蟹の菊膾とした。

山=少し前に思いついて、一度作ってみたかった(本で読んだのではないと思う)。栗は渋皮までとって湯がく。多少身割れしても構いません。むしろその方が風情がでる。柿は角に切ってちょっぴりの味醂を掛け回しておく。甘味を殺すために味醂にはリキュールのビターズ(なけりゃチンザノでも)をしのばしておく。衣は白和えと基本同じ。水切りした木綿豆腐をよくよく擂って、淡口と酒で調味、辛子を加える。ワビサビのため、黒胡麻も少し入れて擂った。

海=蟹は渡り蟹。蒸し上げて、身をほぐす。わたの部分は別にして、それだけで食べる。菊は八戸の市場で求めた菊海苔を使った。ゆがいたあとさっと冷水にさらす。柚子をしぼったのに淡口と昆布出汁を混ぜる。蟹と菊は出会いのものですな。瀟洒な肴となりました。

○酒肴(飯は食わないから、どうせ皆酒肴なのだが)・・・蟹みそ、鮒寿司、からすみの粕漬け(『播州地酒ひの』から買ったのを漬けた)

○香の物・・・花丸胡瓜のぬか漬け、茗荷の梅酢漬け、ひね沢庵(かなり塩をきかせて漬けたので、九月まででも充分保つ)

 

 一応は懐石仕立てだったので、「幻の地酒」てな感じは合わんかと思い、酒は萬歳楽のひやおろしと、菊正の特別純米(これは燗酒用)。六時頃から作り始め、ちびちびやっているうちに十二時を越えていたことに気づき、慌てる。そういや肝腎のお月様を見てない。ベランダに出てみると、今宵の主役は雲の波間を漂いながら、それでも澄み照っておりました。

 

 菊なます輪廻の果てのけふの月   碧村

 

 

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ヌリカベの日

 左官屋稼業、始めました。一日限定だったけど。

 

 

 『いたぎ家』の改装を手伝ったのだった。アニは「大規模じゃないっすよ」とか言っておったが、壁を塗り替え、床板を貼り替え、カウンター席の棚を撤去し、テーブル席の荷物置きをつくり、トイレの入れ替えまでしてどこが大規模ではないのか。ま、龍神野菜・滋賀酒・器のトリニテが崩れない限り、アニにとって店の根本は変わったことにならない、ということなんだろう。たしかにいくら内装は同じでも行ってみて「パフェ専門店になりました」とか「発泡酒飲み放題とカラアゲ食べ放題どうっすか」とか言われても困りますしねえ。

 

 無論のこと、まさとアニーだってたくみオトートーだってアニーヨメーだって内装に関しては素人である。参集した馴染み客(鯨馬入れて六人)も御同様。どうするのかというと、専門家を呼んで、その指導の下に我々が作業を進めていくという仕掛け。

 

 『チーム クラプトン』、という。二人の兄ちゃんがやってきて、てきぱきと手順とコツをアドバイスしてくれる。オニの現場監督というものでは全くなくて、「みんなでワイワイ言いながらやっちゃいましょう」という雰囲気。

 

 で当方はカベヌリ、それもお手水の担当になった。ご存じのようにあすこは常識的には一人しか入らない場所ですから、勢い「みんなでワイワイ」を聴きながら孤独に珪藻土を塗りつける作業を重ねていくばかり。

 

 途中からソルジェニーツィン、とかドストエフスキー、とかプリーモ・レーヴィ、とか色んな名前がアタマの中をぐるぐるしだす瞬間が何度かあった。

 

 もっとも、作業自体は愉しかったことは言い添えておかねばなりません。はじめの内こそ「ここで見事な鏝さばきを見せて『今入江長八か、はたまた挟土秀平を越える天才出現か』なぞとキャーキャー言われるのも悪くないわい」と妄想ばかりふくらんでいたのだが(挟土氏に陳謝します)、まあ見事なほどうまくいかないのですね、これが。要は土を平らに塗りゃいいんでしょ、きぃっ!とアツくなったアタマで観念はふくらむものの、手先の鏝は莫迦にするがごとくへにゃりへにゃりと波打って。でまたそれがなんだか愉しくって。日々活字ばっかりにらんでいるような人間には手仕事がいかに重要か、よく分かる。

 

 『クラプトン』のおふたりの人柄もなつかしく、またこういう仕事にたずさわれたらいいなあと思う。アニ、はやく店の「大規模改装」しましょうよ!

 

 と書いてきた後で読んだ本の覚書もどうかと思うが、次々に溜まっていくのであるから是非もなし。

 

曾布川寛『中国書画探訪  関西の収蔵家とその名品』(二玄社)・・・上方で中国の書画をいつでもたくさん見られるところってどこになるんだろう。あ、台北故宮に行ったほうが早いか。

○山田和『夢境 北大路魯山人の作品と軌跡』(淡交社

○イアン・モーティマー『シェイクスピアの時代のイギリス生活百科』(市川恵里他訳、河出書房新社

佐々木敦筒井康隆入門』(星海社新書)・・・兎も角も全短篇について言及している(た筈)のはえらい。

中村紘子『ピアニストだって冒険する』(新潮社)

藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書

藤森照信『フジモリ式建築入門』(ちくまプリマー新書)・・・こう言われても藤森さん、別段喜ばないと思うが、大変な名文家である。放胆にして粗雑ならず。

○松岡由香子『仏教になぜ浄土教が生まれたか』(東西霊性文庫、ノンブル社)

○吉田伸夫『科学はなぜわかりにくいのか 現代科学の方法論を理解する』(知の扉シリーズ、科学評論社)

○瀧下嘉弘『仕口 白山の木霊  Japanese joinery on display  tree spirits o Mt. Hakusan : The art of shiguchi』(仕口堂)

○ロシア・フォークロアの会 なろうど編著『ロシアの歳時記』

御厨貴阿川尚之・刈部直・牧原出編『舞台をまわす、舞台が回る 山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)・・・敗戦当時、山崎少年は満州にいた。ソ連軍の侵攻とその後の地獄絵図、そしてそれにも関わらず厳然と進行する教室での授業。好きな言葉ではないが、これが山崎さんの《原風景》なのだろう。それにしても大変なおしゃべりですな。歴史的事実よりむしろ哲学的な議論で長広舌になるのもこの人らしくて愉快である。

矢野誠一『落語のことすこし』(岩波書店

稲葉振一郎『政治の理論 リベラルな共和主義のために』(中公叢書)

池澤夏樹『のりものづくし』(中公文庫)・・・文庫オリジナル。

○カンダス・サビッジ『カラスの文化史』(瀧下哉代訳、エクスナレッジ)・・・「○○の文化史」という書物、最近やたらと出されるが軽妙にして軽佻、薄手なつくりのものが多いねえ。もっと勉強してよ。

○ジャネット・ウィンタースン『ヴェネツィア幻視行』(藤井かよ、ハヤカワノベルズ)・・・ずいぶん前に出た本だったか知らなんだ。でもこんな題名だったら読むしかないでしょう。内容はまあ、若書きという他ないが、主人公がヴェネツィアから来たときいたある人物が「あのサタンの都から!」と驚愕する場面が笑えた。昔のヨーロッパ人にとっては、あの街はそう見えただろうなあ。

山崎まどか『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)・・・著者の推す「少女小説」は少しも読みたいと思わない。でも面白くこの書評&読書コラム集を読み通せたのだから、この書き手はホンモノである。文章が、いい。

○エミリー・ボイト『絶滅危惧種ビジネス  量産される高級観賞魚「アロワナ」の闇』(矢沢聖子訳、原書房)・・・気持ちはよーく分かります。オレだってカネとヒマがありゃ、暗い取引に手を染めてたはず。

天野忠幸『松永久秀下剋上 室町の身分秩序を覆す』(中世から近世へ、平凡社)・・・長年三好長慶なる御仁の動きがどうもよく分からなかったので、将軍義輝との確執も含め、三好氏の動向が精細に記述されていたのが嬉しい。

○サイモン・クリッチリー『哲学者190人の死にかた』(杉本隆久他訳、河出書房新社)・・・それなりに面白くは読んだけど、やはり山田風太郎『人間臨終図鑑』とは比べものにならない。なにせ主題が《死》なんだから、それを叙する文章が冴えきっていないとダメなんである。まあ、風太郎さんに引き比べるのは気の毒なのだが。注して言えば、鯨馬子は山田風太郎が名文家であるとは考えていない。

池澤夏樹『詩のきらめき』(岩波書店)・・・この連載やめてしまったのそうな。池澤さん自身が言うように、少々繰り返しが増えてきたきらいはあるとはいえ、いま、こんな感じで詩を語れる人少ないからなあ。惜しい。

小島毅朱子学陽明学』(ちくま学芸文庫)・・・文庫化されるまで知りませんでした。思想「史」的アプローチを重視した、と著者がいうように、蒋介石陽明学贔屓は日本経由のものだとか(そもそも陽明学贔屓と知らんかった)、朱熹はライバルとの角逐のなかで出版文化を最大限利用したとか。宋代にくらべて明初は書物の流行が滞ったとか、学説理解以外の部分でほおっと思う箇所多々あり。

藤田覚光格天皇』(ミネルヴァ評伝選)・・・光格研究の第一人者。後水尾とか霊元とかとは違ったこの「自意識」(としか表現できません)。これこそが《近世》的ということか。いい宿題をもらった感じ。

○メアリー・セットガスト『先史学者プラトン 紀元前一万年--五千年の神話と考古学』(朝日新聞出版)

スティーヴン・ミルハウザー『十三の物語』(柴田元幸訳、白水社)・・・前の『木に登る王』よりさらに一段小味。雨の休日に読むのに丁度よろしい。

 あと、日外アソシエーツが「三芳屋落語速記本復刻明治大正落語名人選集」シリーズを出し始めました。これは有り難い企画で、同じネタでの古今、および東西での演出の違いが調べやすい。目下、四代目橘家円喬、二代目三遊亭円遊、さん馬(八代目桂文治)、二代目三遊亭遊三、と読み進めております。

 

十三の物語

十三の物語

 

 

 

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

 

 

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灼熱BBQ

 メリケンパークでのBBQイベント。出店は《神戸オールスターズ》といっても大袈裟ではない顔ぶれだったから、店の名前を記録のために掲げておく。

 

モゴット、柏木、梵讃、マメナカネ惣菜店、clap、寿志城助、嘉集製菓店、la luna、クチヅケ イルバール、料和 大道、Nick、ラシック、海月食堂、メゾンムラタ、アワとワインとシェリーとチーズ、バー コネクション、バー シャラ、神戸ロバアタ商會、ホルモンバルBovin、河内鴨料理田ぶち、食堂晴レ男、ビストロギャロ、料理屋植むら、ウサギのハネル、アサヒビールエノテカ

 

 壮観というか圧巻ですな。それにしても、極上を通り越したような晴天で、こちらの方が炙り焼きにされてる、という按配であった。ビール五杯、ハイボール六杯、それにモヒートとレブヒートを二杯ずつ呑んだだけでも充分参加費の元は取れたというもの。まだまだ行けてないお店が多いので、その雰囲気の一端なりとうかがえたのは喜ぶべし。

 

 さて八月の本・・・結局は『ゲーム・オブ・スローンズ』を今公開されてる第7シーズンの最後まで見てしまい(惜しめ惜しめと自戒しながら)、現在はいわばスローンズ・ロス状態。ので、それほど読んでません、という言い訳であります。『スローンズ』の新作が見られない以上(泣)、九月はじゃんじゃん読むぞうっ。

 

○吉岡信『江戸の生薬屋』(青蛙房

ニコス・カザンザキス『キリストはふたたび十字架にかけられる』(藤下幸子・田島容子訳、教文館

バーバラ.W.タックマン『遠い鏡 災厄の14世紀ヨーロッパ』(徳永守儀訳、朝日出版社

○トビー・グリーン『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』(小林朋則訳、中央公論新社

○中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸の共和国』(創元世界史ライブラリー、創元社

○八木沢敬『「数」を分析する』(岩波現代全書、岩波書店

○森和也『神道儒教・仏教 江戸思想史のなかの三教』(ちくま新書筑摩書房

○『藤森照信の建築探偵放浪記 風の向くまま気の向くまま』(経済調査会)

鹿島茂『カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 上下』(キノブックス)

池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』(中公新書中央公論新社

○青木健『マニ教』(講談社選書メチエ講談社

○テリー・イーグルトン『文学という出来事』(大橋洋一訳、岩波書店

ヨハネス・デ・テプラ『死神裁判 妻を奪われたボヘミア農夫の裁判闘争』(青木三陽、石川光庸共訳、現代書館)・・・文学的珍品。15世紀の作。愛妻を喪った農夫が、死神相手に訴訟を起こすという筋立てで、農夫・死神が代わる代わるに陳弁する。双方の言い分を聞いてると、具合悪いことに、どうも死神の主張の方が真っ当なのである。キリスト教文化圏では死神の地位ってどうなってるんだろうな、そ言えば。

正村俊之『主権の二千年史』(講談社選書メチエ講談社

○大高保二郎『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』(岩波新書岩波書店

○J.M.クッツェー『モラルの話』(くぼたのぞみ訳、人文書院

○ポール・モラン『黒い魔術』(吉澤英樹訳、未知谷)

 

 クッツェーとモラン(『夜ひらく』の小説家)の短篇集は愉しめた。後者は中米などを舞台にした連作で、世界的に影響を与えたらしい。たしかに鯨馬の大好きな《独裁者モノ》(アプダイクの『クーデタ』とか、ウォーの『黒いいたづら』とか)のあれこれが自然と連想される。グレアム・グリーンなんかはどうなんだろう。

 

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御位争い

 

 盆の時期は出勤にしてもらって、業者も来客もないしづかな職場で溜まった仕事を片付ける。その分は秋頃に旅行の為に使うことが多い。先週末の三連休はだから、当分は無い連休だったのだけれど、旅行はおろか一歩も家を出ずじまいだった。『ゲーム・オブ・スロウンズ』を立て続けに見ていたせいである。

 

 三日間で第五シーズンの途中まで、つまり四五時間は画面に食いついていたわけ。こんな経験は『ヱヴァンゲリヲン』か『ツイン・ピークス』くらいでしかしたことがなかった。

 

 今頃見始めたんかい、と莫迦にされても仕方がない。三年ほど前に某店のネエちゃんに熱烈に勧められていたにも関わらず、なんとなく気ぶっせいで放っておいたのだった。

 

 それにしてもまあ、これでもかというくらい執念く権力闘争と虐殺と陰謀が続いていく辺り、ヨーロッパの連中はさすがにタフだなあと思いました。我が『グイン・サーガ』ですら後半はあてどない感懐のたゆたいが主になってたしねえ。映像の美しさもさることながら、思わず笑い出してしまうほど、筋立てがコテコテしてるところを存分に愉しみました。そういう点では山田風太郎のある種の作に近いのかもしれない。

 

 一等気に入ったのは《小鬼》ティリオンの筋。悪辣にして陽気、野卑にして善良、おまけにシャイロックめいた長大な名演説もあって、泣かせるではありませんか。

 

 王冠をめぐる果てしない争いが、題名通りに主筋ではあるのだろうけれど、一体にこのドラマ・シリーズ、脇のエピソードに味があるのがいいね。ジェイミーとブライエニーの道中とか、ジョン・スノウとサムウェルの友情とか。そうそう、ジョン・スノウみたいな(キット・ハリントンみたいなと、言うべきか?)超絶オトコマエが、恋人に大剣で頭をポンポンはたかれる場面なんぞ、呑んでたワインを噴いてしまったほどである。あ、この三日は買い物にも行かず、ひたすらビールとワインとバーボンを飲んでました。人間、意外に食べなくてもやっていけるものである。

 

 閑話休題。いや、本題も充分閑話でありますが。ファンタジーのいいのは、人間どもの地獄絵図をさらに《外》から撃つ視点が持ち込めるというところにあって、とはつまり、北の《壁》の向こうのバケモノどもがいつ越えてくるのか、というサスペンスが物語の枠を引き締めているのは間違いない。果たしてどう収束させるのであろうか。

 

 最終シーズンの公開はまだ当分先のようだから、残した第五の後半から第七までをいつ見たものか。まことに悩ましい。それよりもまず、この悩ましさと、架空世界にずっぽり浸り込む快感とを語り合える友人、いないかなあ。

 

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魚菜記

 八戸から戻ってこの方、神戸にいる自分がどこか「虚仮なる人」のように思えてならない。向こうの最高気温が二七、八度なんどという情報を見るにつけ、余計にそう思う。あまりの暑さで、近所の平野祇園神社の祭礼にもお詣りしなかったくらいだものな。御許しくだされ素戔嗚さま。風流を愛でおはします御神なれば、「猛烈な暑さ」の下、犬の如く喘ぎ喘ぎ石段をよろぼひ登る苦行はよもことほぎ給ふまじ。それにしても「猛烈な暑さ」よりまだ気温が上がったらどう表現するつもりなのだろうか。上方なら「えげつない暑さ」と言えば足りると思うが。

 

 休みも家にいることが自然と多くなる。遮光カーテンを閉め切った部屋で、テレビも見ず、最近はゲームもせず、本を読むのは常のこととしても、いささか時の過ぎゆき方が単調になりがち。目の法楽でもすべいかと思い立って、綾波レイの特大ポスター・・・ではなく、観賞魚を久々に新しく買ってきた。水草のみで遊ばせていた小水槽二本に、ドジョウ(マドジョウとスジシマドジョウ)とミナミヌマエビとをそれぞれ投入。砂にもぐったドジョウが間の抜けた顔だけを表に出している眺めは誠に愛嬌があるし、ミナミのちょこまかした、それでいて魚とは異なり不思議と騒々しさのない動きも見ていて心落ち着くものである。

 

 ベランダの睡蓮鉢にも「黒メダカ」(とペット屋では書いていたけど、カダヤシちゃうかしら)を放ち、新開地「ふみ」のおかあさんから頂いた茗荷の苗を大きなサイズの箱に植え替え、ついでに茄子も剪定し、芹三ツ葉の枯れた葉を除く。そうそう土用なんだから、梅漬けも乾さねばならぬ。

 

 マンションの二階だから、ちょうど目の前にケヤキの葉むらが揺れているのだが、幹にとまった蝉は鳴きもせず、動こうともしない。

 

 まぼろしの雷声のなか蝉ねむる

 三伏や蝉鳴く前の一刹那       碧村

 

 ここまではもっぱら観るほうの魚であり菜ですが(茗荷の収穫は再来年くらいと言われているし、茄子もまだ実らず、ドジョウも当面は丸鍋にするつもりでない)、食べるほうでは何といっても漬け物。水キムチづくりに最近熱中しているという話はフェイスブックに載せた。それ以外にも、ぬか漬けは今が盛りだし、茗荷や胡瓜の梅酢漬けもこの時候が一等旨く食べられる。

 

 シコイワシをさっと酢で〆てから大根おろしに和えたのと、湯がきたての蛸のぶつ切りに、漬け物の豪華(このことばはこういう時にこそ用いるべきであろう)盛り合わせ。海にも山にもUSJにも夏フェスにも行かずともかかる贅沢が愉しめるのだから、まんざら夏も悪くない。

 

 最近読んだ本。

 

内田樹釈徹宗聖地巡礼』シリーズ(東京書籍)・・・内田さんの「暴走」をむしろ釈さんが引き留める気味合いなのが可笑しい。涼しくなったら自分で〈兵庫篇〉実行するか。

中沢新一『精霊の王』(講談社)・・・たとえば能楽という芸能が、いかにこの列島根生いの神々によって文字通りに鼓舞されているか。シャグジという〈小さな神〉の神出鬼没ぶり(神なんだから当たり前だが)がじつに興味深い。折口信夫的な言い回しだと「庶物の精霊」の跳梁する世界、ということになる。書き手にはこれまであまり相性がよくないなと感じてきたが、この仕事には瞠目。カイエ・ソバージュのシリーズもこんな感じなのかな?

巌谷國士澁澤龍彦論コレクション』(勉誠出版)・・・全5冊。「トーク篇」が面白かった。ここまで語り尽くす著者もすごいが、こういう本をだす勉誠もエライ。

○ロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』(樋口幸子他訳、合同出版発売)・・・犯罪者やら異端者やら野獣やらが徘徊する西欧前近代の夜が危険なのは言うまでもないとして(それにしても同時代の日本よりよほど物騒な気がする)、それに対抗するかのように放蕩にうつつを抜かす連中が絶えなかったというところが愉快。そういやオレ、最近放蕩してないなあ。

○本田紳『八戸藩』(「シリーズ藩物語、現代書館)・・・いわゆる土地の人気(じんき)・気質というのは、県ではなく旧藩の広がりによって規定されている、としみじみ思う。

○清水真澄『戦国時代と禅僧の謎 室町将軍と「禅林」の世界』(洋泉社

○岡地稔『あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』(八坂書房)・・・ヨーロッパ中世ファンタジー好きの方、巻末の「あだ名一覧」は根本資料ですぞ。

○レト、U.シュナイダー『狂気の科学 真面目な科学者の奇態な実験』(石浦章一・宮下悦子訳、東京化学同人

○平松洋『最後の浮世絵師月岡芳年』(角川新書)

○ダン・スレーター『ウルフ・ボーイズ 二人のアメリカ人少年とメキシコで最も危険な麻薬カルテル』(堀江里美訳、青土社)・・・ノンフィクション。面白く読みましたが、副題長すぎるやろ。まあ、最近はほとんど本文の要約に近いくらいくだくだしい副題の本ばかりなのだが。

○J.G.バラード『22世紀のコロンブス』(南山宏訳、集英社)・・・バラードも昔はこんなコテコテのSF書いてたのね(笑)。鯨馬は、「ヴァーミリオン・サンズ」のシリーズが一番好きだな。

○パトリス・ゲニフェイ, ティエリー・ランツ編『帝国の最期の日々 上下』(鳥取絹子訳、原書房

沓掛良彦ギリシアの抒情詩人たち  竪琴の音にあわせ』(京都大学学術出版会)・・・哲学者(ソクラテスプラトン)や劇作家(ソフォクレスエウリピデス)ならともかく、古代ギリシャの詩人なんて、サッフォーとかピンダロスとか、文字通りの名前に過ぎなかったから、これは貴重な一冊。名声がいくら赫々たるものがあろうと、自分の詩的感性からつまらないと思う詩人には率直にそう言っているのも信頼できる(なかなかこれは言い切れないものだ)。全体にやや繰り返しの記述が多いように見受けられるが、ともあれ枯骨閑人の文業なお盛んなることに、乾杯。

長崎浩摂政九条兼実の乱世 『玉葉』をよむ』(平凡社

○ジュリアン・ハイト『世界の巨樹・古木  歴史と伝説 ヴィジュアル版』(大間和知子他訳、原書房)・・・炎熱の中、部屋で寝っ転がって読むのにこれ以上ふさわしい本はない。屋内にいてなお緑陰を涼やかな風が渡るのを体感出来る。

○野林厚志編『肉食行為の研究』(平凡社

○ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか』(菅沼潤訳、藤原書店)・・・答えは無論「然(ウィ)」なのであるが、ル=ゴフの本に結論だけ求めるほど虚しい読み方は無いよな・・・と思いつつ頁を繰って訳者あとがきに行き着くと、なんとル=ゴフは急逝していたのだった。まあ、まだまだ翻訳は出るだろうから、それを慰めとするしかない。

 

 小説ではカルヴィーノの初期短篇集『最後に鴉がやってくる』(関口英子訳、「短篇小説の快楽」シリーズ、国書刊行会)を堪能した。パルチザン体験なども題材としてふんだんに取り入れられているのだが、そこはカルヴィーノだから、精緻な語りと構成できっちり仕立て直されている。そこからかえって生々しい田舎の農村や戦争末期の生の匂いが吹き付けてくるように思われるのが妙。

 

 

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ウミネコの島~南部再訪(2)

 宿酔なんぞは気の持ちようである。と気を持ち直して朝から温泉に浸かり、朝食のせんべい汁を啜ると、重苦しい酔いの残りはどこかにすっと消えてしまった、という気がする。

 

 それこそ前回は二日酔い、というか寝不足で種差海岸に行けなかった。今日こそ行くべし。本八戸(地元の人間は「ホンパチ」)から電車で三十分もかからない。

 

 ここは天然の芝地が広がることで名高いとのこと。抜けるような青空の下で見たらまた別の感慨があるのだろうが、この時は予想通りにどんみりと雲が広がり、海もまた空の色を映して暗く、そして冬の日本海でも見たように大きな波が岩に打ち寄せては激しく砕ける。風は冷たく霧雨が身を包む。歯の根が合わないくらい寒い。どこかイギリスのコーンウォールあたりを連想させる荒涼たる光景はかえって賞翫にたえる・・・というより自分の裡なる荒魂が呼びさまされるようで、いつまでも見続けたかったけれど、旅先で肺炎になるのは困る。

 

 そそくさと灰色の海を背にして、駅前に泊まっていた遊覧バスに乗りこむ。困惑したのは、客が当方一人だったこと。遊覧バスなので、ガイドさんが付いている。これはどうも気詰まりな状況に陥った。一宮を巡歴していた川村二郎さんが同じような目にあったことを書いてたなあ、と思い出す(peinlichというドイツ語で形容していた)。ここらへん、その文章に似せて書いている。

 

 さて、微妙な空気は向こうとて同じこと。思ったよりもintimateな、とは通常のガイド口調ではない調子で説明してくれるので幾分ほっとする。

 

 前述のように突兀たる岩場に波が荒々しく打ち付ける眺めは同じ、ただ少し走ると綺麗な砂浜の手前(つまりバスが走る道路との間)には松林が伸び、それだけならどこでも見られるかもしれないが、松の根元に草地が広がるのは、少なくとも当方には珍しい。今は月見草が盛りですね、それから岩のあいだに咲いているのはすかしゆりです、とガイドさん。なるほど、一面にうす桃いろ(月見草)と橙いろ(すかしゆり)が点描されている。暗い海を背景にして、これはなかなか奇とすべき眺めだと嬉しくなる。あれ、ガイドさん、ひょっとして日光きすげですか、あそこに咲いているの。

 

 高原に咲くものとばかり思っていたが、ガイド嬢によると、海から吹く冷たい風、いわゆる「やませ」のために、海抜ゼロメートルの辺りでも高原くらいに気温が下がり、そのためにこの黄いろの端正な花も広がっているのだという。そこにえぞよろいぐさの白が可憐にアクセントを添える。

 

 僅か三十分程度ながら、夏の三陸海岸を堪能した。ちなみにこのバス、どこまで乗っても百円。

 

 終点の鮫駅までは行かず、八戸水産科学館前で下車。打ち割って言うと、水族館というよりは水槽コーナーという規模であっても、水族館好きは特に不満をおぼえない。ただ、折角だから海胆とか鮑とか鯖とかオイランガレイとか烏賊とか、八戸名産の魚を展示したらいいのに、とは思った。アロワナやデンキウナギならどこでも見られるのですから。

 

 水産科学館から、八戸随一の名所・蕪島まではすぐ。ご存じの方も多いだろうが、ここはウミネコの繁殖地、それも人の居住する領域に一番近い繁殖地として知られている。蕪島から続く砂浜にして既にウミネコが皆同じ方向を向いて身を竦めている。今は頂にある神社が改装中で島自体には入れない。それにしても鳥の数の多さ、いやこのかしましさよ。前後左右そして上方からも絶え間なくみゃあみゃあにゃあにゃあと声が押し寄せてくる(という感じなのだ)。それはなにか、デパートのセール会場(中高年女性向きの売り場である)に放り込まれたような印象であった。五分もいると、何故だか「汝は魯鈍である」「お前はやくざな酔っぱらいである」と糾弾されてる心持ちになって(後者はその通りなのであるが)、しまいにはムカムカしてくる。鳥対人間、ここでは人間の完敗という絵面となった。

 

 鮫駅に着いてみると、電車が来るまで小一時間ほど。どうせ同じ時間をつぶすなら、と陸奥湊駅まで歩いていくことにした。道中格別な街並みではないものの、廃業した銭湯とか三嶋神社の祭礼準備とかを眺めてあるくと退屈しないものである。正確には半分退屈しているのを余裕をもって愉しんでいた。

 

 陸奥湊からは電車で八戸市街に戻る。遅めの昼食。煮魚定食(あぶらめとなめたかれいの二種類あり)や鯖定食、イカ刺し定食といった高雅な品には目もくれず、育ちの賤しい鯨馬なんぞはここでも海胆尽くし定食を頼んでしまう。おまけに殻付き海胆は一つ五百八十円という安さに引かれて、更にお代わりを頼んでしまう。ここでも海胆のトゲはうねうねしていた。不思議に、どの海胆もスプーンで身をほじくりつくす、その途端ぴたりとトゲの動きが止まってしまう。してみると、最後の最後まで感覚を保っている訳か。案外、冷たいカネのサジで身をほじられるのは快感なのかも知れない。マゾヒズムの極致だな。

 

 昼から海胆にまみれた恰好だが、次八戸に行ったら(行くに決まっているのだが)、その時は是非なめたかれいの煮ざかなで瀟洒に一杯やりたいものである。

 

 夕方までは銭湯でうつらうつらしたり、スーパーを冷やかしたり。相変わらず気温は低いが、銭湯でほこほこしているから、かえって気持ちがいいくらいだった。歩き回っていい具合に腹が空いてくる。

 

 我ながら愕然としたことには、晩飯を考える時に「海胆に鮑はもういいかな」という思いが浮かび上がってきたのである。あれだけでまさか一生ぶんの海胆・鮑を食べ尽くしたという訳ではあるまいな。訝りつつも、カラダの要求にはさからえず、青森シャモロックを出す店で焼き鳥を食った。しこしことコクのある肉を頬張りながら、ビールとハイボールを阿呆みたいに乾す。

 

 そうすると我ながら愕然としたことに、店を出る頃には「さて、どこで最後の生海胆と鯖燻製とせんべい汁と糠塚胡瓜を食べるべいか」と探し回っていたのであった。

 

 八戸の、夜は長い。

 

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北の語り部~南部再訪(1)

 何せあのおっそろしいような大雨でしたからね。十分遅れた程度で飛行機が飛んでくれただけでも有り難いと思わなければならぬ。雨も二泊三日の旅の最終日にやや強めに降ったくらい。総じていい条件だったと言えるでしょう。

 

 青森は比較的短い期間で三度目となる。空港の警察官、駅の売店のオネエチャンの顔に見覚えがあるのがなんとなく嬉しい。新奇な土地に初めて足を踏み入れるのもいいが、こうして少しずつ自分と行く先の土地が馴染んでいく感覚もまた旅ならではの愉しみである。

 

 朝一番の便だったので、朝食を取る時間が無く、青森駅に着いた時(十二時前)には倒れそうなほど空腹。まずは以前から目を付けていた駅前の食堂で昼食、とすぐ決まった。駅からだだーっと走り込む。時分どきには前に行列が出来るのを見ていたためである。案の定、こちらが注文を終えるころには既に満員。外まで人が並んでいた。

 

 といっても観光客は六割といったところか。地元の会社員や現場のおにいちゃんの姿が目立つ。もちろんこうした方々はもりもり「昼ご飯」を平らげてらっしゃる。暢気な旅行客は、相席のお兄さんの視線を気にするフリをしつつ(本当は気にしてない)、帆立のフライ、かすぺ(アカエイ)の煮付け、けの汁、ミズの水ものといったあたりでゆっくりとビール二本、酒一合を呑んだ。

 

 後ろ二つの料理は注釈が要るかもしれない。けの汁の具は、今思い出せる限りでいうと、大根・人参・凍み豆腐・揚げ・こんにゃく・蕨など。この「おさない」では味噌仕立てだった(青森の郷土料理の本では清汁仕立てと説明していた)。ごく淡味なので酒の肴にもなる。本来は小正月に食べるものらしい。この旅では最高気温が十九度という日が続いたので美味しく頂けたが、やはりこれは寒のうちにふうふう吹きながら食べるべきもののようである。そしてミズ。東北名産の山菜。水ものというのは要は浅漬けなのだが、塩をしているだけでなく、唐辛子の輪切りと一緒に、水に浮かせてある。つまり水キムチのような恰好。これがたいへん宜しい。丼いっぱいでも平らげられそう。むろん、酒のアテとしてですよ。

 

 客が当方ひとりとなって酒を呑み終えると、新幹線の時刻にも丁度良い頃合い。前の旅からもう四ヶ月か、なぞと感傷に耽ってる余裕もあらばこそ、本八戸にはあっという間に到着。

 

 寒い。青森でも神戸から来た身には相当寒く感じられたが、細かい雨が小止み無く降る中をとぼとぼ歩いていくと、胴震いがするほどだった。

 

 これは要するに、晩飯では熱燗ということですな。とひとりごちてホテルへ向かう。今回の宿は中に温泉がある。さすがに三時過ぎでは誰も入っていなくて、ほわんと湯に浮いていた。かなりキック力のある湯で、部屋に帰ると体の芯までしびれるように熱くなっている。ベッドに倒れ込むとそのまま二時間熟睡。

 

 で、目覚めるとすぐ「何食おうかな」と考え始められるのであるから、まったく旅というのはこたえられません。

 

 いや、「何を」というのは正確ではない。この季節に八戸に来て海胆と鮑を食わないような莫迦がどこにいよう。だからこの問は厳密には「海胆と鮑の次に何を食べよう」と発せられるべきであった。

 

 三月の旅では居酒屋・屋台みたいなところばかり周っていたし、今回はひとつ料理屋に行ってみるか。と言っても予約していないから、懐石や会席の店は無理だろう。腰掛け割烹だったら大丈夫かな。と狙いを定めて徘徊、ろー丁(江戸時代、牢屋が置かれていたことから)の店に入る。「とりあえず生海胆と鮑を下さい」。

 

 海胆は殻付きを半分に割ったのが出て来る。その殻の棘がうねうね動いているのにたまげた。無論味は極上。塩も醤油も山葵も不要、ひたすらスプーンで卵巣をほじくる。「晩飯では熱燗ですな」とか呟いていた舌の根は、はやくも冷酒で潤されている。

 

 やはり浪が高かったらしく、水貝にするほどの大きさは獲れなかったとかで、鮑はステーキに。肝を刻んだので海藻を和えたソースがおいしい。これでまた冷酒を二杯。

 

 この後、海胆刺し(殻付きではない)と海胆の軍艦巻も食べた。普段口にするのに比べたら旨いのだが、それでも殻付き海胆の気品ある甘さには到底及ばないな、とか思いつつさらに冷酒の杯を重ねる。

 

 板前さんとぽつぽつ話しては呑んでいい気持ちだったところに、突如オッサンの集団がどやどやと繰り込んできた。いずれも獰悪にして兇暴、酷薄にして猥褻なご面相であって、陶然たる気分がいっぺんに吹っ飛ぶ。

 

 板前さんが、八戸だか青森だか東北だかの、中学だか高校だかの校長会だ、と教えてくれた。

 

 逃げ出すようにして店を出ると、生海胆と鮑は食せた訳ですから、至極ゆったりと二軒目を探す。同系統では気分が変わらないから、次はみろく横丁の屋台かな。

 

 一軒目ではホヤと胡瓜、それにせんべい汁を頼んだ。ホヤも旨かったし、殊にこの気温ではせんべい汁を啜ると極楽にいる心地だったが、逸品というべきは胡瓜である。糠塚胡瓜、という。縦に六ツ割にして普通の胡瓜の細目のやつ位の太さがあったから、元は余程雄大な形に違いない。皮は綺麗に剥いている。太い分、余計にさくさくした歯触りが愉しめるし、味も普通の胡瓜の青臭さがなく、どちらかというと、「まっか」(真桑瓜)に近い。

 

 言うまでもなく酒の下物に好適である。この店では氷水の鉢に浮かせての提供だったが、家庭ではこれを刻んで辛味噌と和えるのだそうな。飯に佳し、酒に佳し。

 

 しかし、糠塚胡瓜以上の御馳走は南部弁だったかもしれない。料理を作るのも、酒や料理を出すのも、そして横で呑んでいるのも、ばあさまである(と見えた)。この三婆の会話がよかった。といって、当方に話しかける時以外のことばは半分、いや三分の一も分からないのであるが、抑揚といい音節の多さといい、じつに音楽的で、最年長とおぼしきばあさまが、「店にスマホを忘れて、慌ててタクシーで取りに帰った」、というだけの話を語り出すと、なんだか古代より誦みならわされてきた神話伝説の類いを聴いているような気分になるのだった。

 

 あとは簡略にこの日の足取りを。屋台村でもう一軒、地魚の炭焼きで呑み、前回の旅でも入った出汁おでんの店で熱燗を呑み(美人ママは変わらず美人で、常連客の顔ぶれも前回とほぼ同じだった)、このおでん屋で教えて貰った蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食い、これまた前回居酒屋の客が連れてってくれたバーで極上のバーボンを呑んだところで一日目は修了。ホテルに帰っても、さすがに温泉に入る気にはなれませんでしたな。

 

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