パンチ&ジュディ

 ここに来てややバテ気味・・・夏痩せではなく、8月29日(ヤキニクの日)から三連チャンの焼肉パーチーによる肉食傷というのでもない。

 六月からずっと遅番のシフトが続いており、家事全般・買い出しには精励恪勤なる主夫(兼勤め人)としてはかなりストレスがたまっているのです。十一月末まで保つのだろうか、この調子で。すまじきものは宮仕え。

○トルクァート・タッソ『詩作論』(村瀬有司訳、イタリアルネサンス文学・哲学コレクション、水声社)・・・おおむねアリストテレスに則った詩論。アリオストの『オルランド』を批判している箇所もある。このシリーズ、ご贔屓のピエトロ・アレティーノの新訳も入るようで楽しみ。
○『塚本邦雄全歌集』(短歌研究文庫、短歌研究社)・・・一冊2000円でも高くはない。でも噎せ返るように濃密だから、全冊読み通すのには結構時間がかかりそう。
○コストマリー事務局/繻 鳳花『中世ヨーロッパのレシピ』(新紀元社)・・・出版社名で反応した人はファンタジー好きのはず。この本も同人誌「中世西欧料理指南」の改訂版として出されたもの。驚愕の名著『13世紀のハローワーク』といい、こーゆー過程で出来る本って増えてきてるんだなあ。
○板東洋介『徂徠学派から国学へ』(ぺりかん社)・・・明快な徂徠学解説の書と見た。冒頭の丸山眞男ばりのクサい文体も、体系全部をまるごと噛み砕き飲みくだしてやろうという鼻息、いや意気の強さの外に表れたるものと見ておくべし。ただし、そういう意味で、高山大毅さんのような、新たな問題系の提出には至っていない。望むらくは、徂徠学の問題系でついにときかねる壁にぶちあたって呻吟する様を暢達な表現で伝えてくれるような、学問の現場報告たる一書なり。
ジュリアン・グラック『街道手帖』(永井敦子訳)(風濤社)・・・エッセイ集。
芳賀徹『桃源の水脈』(名古屋大学出版会)・・・たいへん魅力的な主題ながら、水っぽい。やたらと東京大学東京大学と振り回すのも煩い。二点、見てみたい絵を教えてもらったことで辛抱しておきますか。
コンラッド『シークレット・エージェント』(高橋和久訳、光文社古典新訳文庫)・・・裏表紙の紹介文には「皮肉な筆致」とあるけど、普通に滑稽小説でいいのではないか。
オウィディウス『変身物語(1)』(高橋宏幸訳、京都大学学術出版会)・・・散々岩波文庫にはお世話になっていたオウィディウス。新訳は歯切れよく、清新。寝っ転がって残暑をやり過ごすのに最適。
○ロバート・リーチ『「パンチ&ジュディ」のイギリス文化史』(岩田託子訳、昭和堂)・・・冒頭の章では訳者の手になる「日本におけるパンチ&ジュディ小史」があって便利。伊東四朗パンチ&ジュディを演じていた、というのはなんとなく分かる(ただし園児向けにやや毒は薄めているとか)。所々で丁寧に上演されたあらすじが紹介されているのもありがたい。どのみち現代日本では絶対に見られない類いの芸だからなあ。。太夫・才蔵の古い型の漫才にもこういうあけすけに残虐な芸があったのかもしれない、ドツキ漫才の原型はここにあった、なんて論考があれば面白いのだがとか妄想する。妄想もうひとつ。鏡花の傑作長篇『山海評判記』のブキミな人形劇一座の出自は意外とここにないか。
長部日出雄『愉快な撮影隊』(毎日新聞出版)・・・追悼長部日出雄
○乾石智子『夜の写本師』(東京創元社)・・・「写本」のモチーフはもう少し丁寧に、いやこってりと扱ってほしかったが、佳作と言えるでしょう。今頃何言ってんのと莫迦にされそうだが、読む本は多く人生は短し。
○徳富猪一郎『蘇翁夢物語』(中公文庫)・・・さすがというか、尻尾をつかませない書きぶりがいっそ愉快。
辻静雄プルーストと同じ食卓で』(講談社)・・・辻静雄が文学者を招いて、文学作品に出てくる(またはその当時の雰囲気を再現した)料理でもてなす。ため息の出るような贅沢な料理。もちろん食材の高価ということもあるが、今風の料理ではないくらい手が込んでいる。

 料理といえば、北窓書屋主人菱岡憲司氏のブログで教えられて
○『「ラ・ベットラ」落合務のパーフェクト・レシピ』(講談社)・・・を買う。ま、イタリア料理ということもあって、辻さんの本に出てくる料理よりはうんと簡素なんですが、それにしてもかなり現代的になっている。少しの工夫でたしかに味は変わるものだ。パスタのような特にシンプルな料理だと違いは露わ。ただ、和食以外はほとんど作らない鯨馬にも、2019年現在ではやや常識となっている技法、もしくは移り変わった技法が含まれると見えた。というわけで、もっと現代的な調理法はどうなっているのか、と探して、次は
○『イタリア現代料理の再構築』(旭屋出版)・・・を読む(落合氏が代表をつとめるイタリア料理協会編)。ここまで来ると鯨馬なんぞの論評できる範囲ではありませんから、単に楽しんで読みました。伝統技法と現代的「再構築」が併記されているのがありがたい。日本料理も、低温調理はじめ、だいぶ新手がなじんできたようだが、かといってこれくらい流通が発達したあとは結局好みの問題になってくるのではないか。現に、
○高橋英一/高橋義弘『京都・瓢亭四季の日本料理』(NHK出版)・・・のごとき、「超」の字のつくオーソドックスな献立のかくも美味そうなこと。まずは若竹煮や冬瓜の葛煮を直球ど真ん中に打ち込める腕がなければ話にならないのだ。そして家庭料理でその腕があれば充分なのである(問題は今の料理人のうち何割がその腕を持ってるか、ですな)。

北へ南へ

【北篇】
 草津のビストロ『ロンロヌマン』さん、と書いたのではいかにも他人行儀の感じがする。前田卓也シェフのファンとしては「前ちゃんの店」という認識。今回も堪能しました。

○前菜1:野菜三種。①マッシュルームのサラダ・・・キノコは生。チーズとヴィネガーで和え、さらにグリュイエールをふんだんにかけている。なのに味の軽さが「おっ」という感じ。②キャベツのサラダ二種・・・紫の方はヴィネグレット、白い方はクミン風味。どちらも混ぜてあるハムやサラミを噛み当てるとき、じわーっと幸せを感じる。
○前菜2:ハムエッグ(!)。ちゃんとメニューにもおすすめ印が付いておる。ハムと卵の上にはサマートリュフをふんだんにあしらって。黄身に切れ目を入れ、ハムにたっぷりまぶし、サマートリュフをのっけて口に運ぶと、思わずニタニタしてしまう。シェフは「ソーセージの嫌いなヒトとは友達になりたくありません」という名言の主であるが、その彼に「ハムエッグを食べて嬉しくならないヤツも人間としてどうかと思うね」などとコメント。目下アンチ炭水化物キャンペーン絶賛実施中ながら、「お大師様、どうかお目こぼしを」と唱えつつ、パンのおかわりをもらって黄身もあぶらも残さずさらってしまう。
○前菜3:ハム類の盛り合わせ。シャルキュトリに力を入れてる店だから、主菜としてもいいくらいの充実ぶり。①ロースハム:これが本日の秀逸。柔媚にまとわりつく感触がこたえられない。②モルタデッラ:薔薇いろのレースのような切り口。ロースの、官能中枢に直接ひざげりしてくるような艶っぽい味より、もう少し花やか。③パストラミ:味がくどくて今までもひとつ好きになれなかったパストラミがしっとりと品のいい香りに仕上がっていることに驚く。
 ハム・ソーセージは言ってみれば、肉の塩干モノなわけで、乾物が大好物の鯨馬が、こういった肴で白葡萄酒(ブルゴーニュのラ・ロッシュ・ヴィニューズ2015)を愉しむのはまことに筋が通っている。
○主菜:近江シャモの煮込み・・・「せっかく滋賀に店を作ったのだし」、と仕入れはあの『かしわの川中』さんから。値は相当張るが、「スープののびが違う」のだそうな。ここの肉を買ったこともあるし、直営『穏座』で食べたこともあるから、そうだろうそうだろう、と首肯できる。実際、とろとろに煮込まれた皮の部分とダシをバターライスにまぶして頬張ると、炭水化物断ちをしてるかどうかに関係なく、なんとなく甘美な罪悪感をおぼえてしまう味だった。お大師様の他にもお祖師様観音様お不動様などご一統にお許しを乞いつつ綺麗に平らげる。

 食事の成功は、味は無論のこととして会話が愉しいがどうかに大きく依拠する。そして実際ここまでシェフ、ソムリエールの奥様と三人たいがいわあわあやってはいたのだが、いかんせん草津より神戸に戻らねばならぬ身とて、今回はここでお開き。

 しかし考えればなにも家に戻らねばならぬことなどないのである(危険思想でしょうか)。これも前田さんお得意の、そして鯨馬の酷愛する野鳥がこの冬には登場するらしいから、是非とも草津駅前のホテルに泊まり、もっと時間をかけてジビエ血と骨髄をすすりまくり、旨い葡萄酒を味わい、もっとわあわあ談笑せねばならぬ。
※前田シェフのジビエ料理に関しては、拙ブログ「プロの秋、アマの秋」「年の瀬に怒る」「鶉が叫んで冬が来る」も併せ読んでいただければ幸甚です。

【南篇】 
 草津の翌々日には、『ピエール』ご夫妻のお招きを受けて淡路へ。昼日なかからの宴会、バーベキュー、花火、朝からカレー、海水浴、ともう間然するところなき「夏合宿」でありました。同行の皆様も大好きな方々で、やっぱり始終わあわあ騒いでいたのでありました。四十路も半ばを越えて、こういいう遊びがあろうとは。
 あと、澄み切った淡路の海もよかったなあ。海水に浮かんでぽけーっと朝の月をながめていると、涙がでちゃう。くらいに幸福だった。

 駄句ひとつ。
山百合にささやく少年の日の秘密  碧村

 夏はおわった。

 

忍び寄るもの

 呑んで帰った時、マンションの階段で転倒、二週間ほど矢吹ジョーないしお岩様のように左目周りが腫れていた。それから一月ほど、激しい雨音に目を覚まし、居間の窓を閉めに行く途中、突然気を失って倒れた(数分意識がなかったようだ)。このときは膝をうった。「人の世の旅路のなかば」という詩句が痛切に身にしみる。

 だから、別段流行に乗って糖質制限しはじめたわけではない。元々あんまり興味が無かったけれどもなんとなく食べにゃならんのだろうなあと思い込んでいたところ、「そうでもありませんよ」と各方面から教えられて渡りに船とばかり飛びついた、という次第。

 朝・昼(弁当)の飯はぐい呑みに軽く一杯。夕食にはまったく食べない。その分、野菜・乾物いろいろ・肉・魚をもりもり食べる。ただし酒は“特別会計”として、焼酎・ウィスキー以外に、ビール・清酒・ワインといえどもこれを嫌わない。がぶがぶ飲む。それでもカロリー摂りすぎとは思えない。現に三か月足らずで三キロは痩せた。

 といって、たかだかダイエット療法程度に頭から湯気を立てるのは阿呆らしいので、外食のコースの時など、気にせずに食べる。『鷹楽園』の激辛焼きそばも『トラットリア サッサ』のイカスミパスタも、『海月食堂』の冷製担々麺・冷やしラーメン、いずれも美味しく頂きました。「腹いっぱいにするため」という枷が外れただけ、純粋に味を愉しめるようになったのかもしれない。

 ま、いくら食っても太らない十代二十代へのやっかみ半分なんでしょうな。

 読書がそうなっては終わりだわな、と思いながら、進行する老眼をかこちつつ本を読む。

石井公成『東アジア仏教史』(岩波新書)・・・いかにも日本的と思われている親鸞の思想を、たとえば東アジアという地平のなかで見てみるとどうなるのか。中国的仏教である禅・浄土を受け入れる際、何を切り捨てたのか。てな問題が浮かんできたりする。そういえば四方田犬彦さんも親鸞解読してましたね。
○スチュアート・ケルズ『図書館巡礼』(小松佳代子訳、早川書房)・・・長短様々な章からなる。寝転んで読もう。
大岡昇平小林秀雄』(中公文庫)・・・『本居宣長』には奇妙なほど沈黙している。一流の知識人でもあって、骨の髄までの文士、という人だったのだ、大岡昇平
アレクサンドル・デュマ『千霊一霊物語』(前山悠訳、光文社古典新訳文庫)・・・題名通りの珍品ではあった。
河合隼雄・松岡和子『決定版 快読シェイクスピア』(新潮文庫
○青木健『新ゾロアスター教史』(刀水歴史全書、刀水書房)・・・贔屓の学者のひとり。
○中村隆文『リベラリズムの系譜学』(みすず書房
○中路啓太『ミネルヴァとマルス 昭和の妖怪・岸信介』上下(KADOKAWA)・・・小説仕立ての伝記。陰キャにしか見えない主人公の陽気・豪気な部分に照明を当て、逆に吉田茂小林一三といった“宿敵”のほうが陰険そうに描かれている。陽気な統制派と陰気なリベラリスト。こういう切り口で戦前のあの社会を小説にするというのは発見。
○宮下規久朗『闇の美術史』(岩波書店
○宮下規久朗『聖と俗 分断と架橋の美術史』・・・宮下先生は、この書に限らず、ずっと“聖俗”という問題意識を持ってこられたと鯨馬は考えている。そしてそれを御専門のカラヴァッジョ研究だけにとどめず日本のポップアートまで視野に入れて考え続けているのが凄い。というか凄味がある。
○池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(筑摩書房)・・・大冊だが、生涯編・作品編と分けて、それぞれに汗牛充棟の学説を綺麗に整理してくれているので、大変便利な本。
アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』(巌谷國士監訳、河出書房新社)・・・新装縮刷版。前の本は重すぎて寝転んで読むには危険だった。
エドゥアール・シャヴァンヌ『泰山』(菊地章太訳、平凡社東洋文庫
○マーク・フォーサイズ『酔っぱらいの歴史』(篠儀直子訳、青土社)・・・内容は、ま、書名の通り。類書がたくさんある中で、いかにもイギリス人らしい皮肉の効いた口調が面白い。この著者がレトリックの本を書いてるというので早速ポチってみたところ、これもまた面白い(The Elements of Eloquence  Secrets of the Perfect Turn of Phrase )。レトリック好きにおすすめしたい。
○津野梅太郎『最後の読書』(新潮社)・・・老眼等々で本が読めなくなった、という話柄でからっと読ませるのがいい。
池内紀『ことば事始め』(亜紀書房)・・・鴎外『雁』の解釈に唸った。そうか、あれは滑稽小説だったのか!
 滑稽小説といえば、最近国書刊行会ボルヘスの『バベルの図書館』新装版を刊行した。旧版はほとんど読んでいたにも関わらず、数冊を合綴した装幀の迫力(カヴァーを剥ぐといっそう凄みがある)に圧されて手に取った。今までばらばらだった作家が一冊にまとまっているので、読み方に一種のゆがみが生じ、それが新鮮。たとえば、ドストエフスキー『鰐』(野卑でどす黒いユーモア)の照り返しに目を細めつつ、その前のカフカの諸篇を読み直すと、やたらと可笑しい(文字通り笑える、という意味)。そして意外に瀟洒。まあ、これは池内さんの訳文が《語り》の調子をきれいに活かしているからでもあるのだろうが。この調子だと、かつては退屈で仕方なかったレオン・ブロワなんかもおもしろく読み返せるかしらん、と今から楽しみ。
○藤田昌雄『陸軍と厠』(潮書房)
宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか』(新教出版社)・・・書名と関係のある論考は一篇のみ。それも神学的な検討ではなくドイツの栄光を発揚した民族英雄の系譜という切り口だった。ので勝手に考えたが、やはりカトリックからヒトラーは生まれないんではないか。
関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』(NTT出版)・・・イエスは仏教の宣教僧だったのではというところから始まる。著者がいう「スキャンダルとしての思想史」なんでしょうな、これは。私はあはは。あはは。と愉しみながら所々でグラスを置いて(飲みながらのほうがいいですよ)ふーむ。と考えた。それにしても日本を褒める人たちってなんで会津、とか上方、とかいうスケールで発想しないのかな。
 田辺聖子さんを偲んでは三冊。
○『田辺写真館が見た“昭和”』
○『姥ざかり花の旅笠』・・・江戸時代、九州の奥様連中三人が善光寺・日光・江戸・上方を見物した旅日記を基にしている。おっとり花やいだ叙述が、いい。
○『いっしょにお茶を』
○ジョン・G.ストウシンガー『なぜ国々は戦争をするのか』上下(等松春夫他訳)・・・むろん鯨馬は戦史については全くの素人だけど、その眼から見てもえらくナイーヴな史観だなあと思う。評価軸もブレてるようだし。
小林信彦『生還』(文藝春秋)・・・脳卒中で入院した顛末の記録。その主題はともあれ、いい意味で独り合点な文体にますます磨きがかかっている。いつかこの著者は小林秀雄の文体を評して「東京者のせっかちな口調」といったが、それに近づいているのか。
○山川三千子『女官 明治宮中出仕の記』(講談社学術文庫)・・・なぜか心にしみた明治帝のことばをひとつ。「わしは京都で生まれたから、あの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことにきめたよ。」貞明皇后への隠微な批判も見え隠れする。
○ジョゼフ・ミッチェル『ジョー・グールドの秘密』(土屋晃訳、柏書房)・・・日本語版ミッチェル全集(選集か)というべき四冊のなかではやっぱりこの一冊がいちばんいい。なんといっても表題作がいいもの。巻末の青山南さんのエッセイも入魂の文章。私はこの青山さんの推理、当たってると思います。それにしても訳者はいうまでもなく、このシリーズを出してくれた柏書房さんに乾杯!
○ソフィア・サマター『図書館島』『翼ある歴史 図書館島異聞』(市田泉訳、東京創元社)・・・世界幻想文学大賞をとったハイ・ファンタジー。もひとつ。いかにも「異世界の風物・習俗をちりばめました」的な文体がなんだか洒落くさくてねえ。ゲームだと設定はいくら細かくても構わないのだけど。小説はやはり雰囲気ではなく、モノを伝える文章で語ってくれないと。

○向後千里『富士山と御師料理』(女子栄養大学出版部)
宮内庁侍従職監修『宮中 季節のお料理』(扶桑社)・・・興味深い発見がいくつも。盂蘭盆会の料理が出たり(神道の親玉の家にして!これぞ国民に寄り添う皇室と申すべきか)、年越しそばが出たり(御所を移るときには引っ越しそばも出るのだろうか)。それにしても、吸い物がみな磁器の椀で出るのは、中身はともかくなんだか不味そう。心から同情申し上げます。
○村田吉弘『和食のこころ』(世界文化社
塩田丸男『ニッポンの食遺産』(小学館
○小倉ヒラク『日本発酵紀行』(ディアンドデパートメント)
いしいしんじ『ある一年』(河出書房新社)・・・食日記という体裁だが、やたらに面白い。文学というのはこうあるべき。ある若手エッセイストの本(食べ物について語った本ばかりを扱う本)は、文章がぬるくて読めたもんじゃなかったもんな。
川上弘美『卵一個ぶんのお祝い。』(平凡社)・・・これもそう。どこを切っても作家の樹液がぽたぽた垂れるような川上ワールド。

 

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本当にメモ

 梅雨入り前の風は本当に気持ちがいい。昼酒呑んで川ばたを歩いて帰る時などは特に。

 最近読んだ本。このところ色々弱り気味なので、いつも以上に無愛想なメモとなる。

 

柄谷行人『世界史の実験』(岩波新書

○山泰幸『江戸の思想闘争』(角川選書

村上春樹『若い読者のための短篇小説案内』(文藝春秋)・・・とことん実作者の視点から、というところが面白い。といって技術批評に終始するのではなく、それぞれの作家の核に当たるぬるっとした部分に控えめながら言及しているくだりこそが読みどころ。

○市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書

○ケイトリン・ドーティ『世界のすごいお葬式』(池田真紀子訳、新潮社)

鈴木健一不忍池ものがたり』(岩波書店

○田中祐子『公共的知識人の誕生 スウィフトとその時代』(昭和堂

○バーツラフ・シュミル『エネルギーの人類史 上下』(塩原通緒訳、青土社

○北村暁夫『イタリア史10講』(岩波書店

○国分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』(講談社選書メチエ)・・・連作エッセイというスタイル。対談はどうしても薄味か情報過多になりがちだから、こういう書き方はもっと試みられていい。

○桑木野幸司『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ)・・・イエイツの浩瀚な研究書はちょっと・・・という人にお勧め。たいへんすっきりと整理してくれている。この著者の本や論文、もう少し読んでみたい。

○倉田実『庭園思想と平安文学』(花鳥社)

○フィリップ・ソレルス『本当の小説 回想録』(三ツ堀広一郎訳、水声社)・・・今回はなんといってもコレ。ソレルス読んだことない人でも面白く、何作か読んだ人ならなおさら、ソレルス贔屓ならいうまでもなく愉しめる。相変わらず好き勝手言い放題だなあ、全く。悪びれないところに風情、というか妙な色気あり。

 

本当の小説 回想録

本当の小説 回想録

 

 

 

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市中の大人(たいじん)~追悼 田辺聖子

 たとえば『道頓堀の雨に別れて以来なり』でもいい。ひとまずは川柳作家・岸本水府の評伝である。「ひとまず」というのは、水府個人の人生の足跡を辿るにとどまらず、大阪そして日本全体の同時代の川柳界の動きをあやまたずとらえ、そこから近代川柳史のみあもとまで時にさかのぼり、合わせて主として戦前の大阪という都市の政治経済社会生活のくまぐまを生き生きと描き取る。近代川柳の詞華集にもなっている。

 

 文庫版では当然ながら上中下、合わせて千六百頁になる。見るだにうんざりする分量。ところが読み始めると、これがいつまでも頁が減らないようにと祈りたくなるくらいに面白い。ひとえに作者の《眼》の冴えによる。全冊どこのくだりを取り出してみても、田辺聖子の声がぴぃーんと響き渡る。

 

 しっかり調べて、じっくりと眺め、なで回し、得心のゆくまで(あるいは得心には到りえないと悟るまで)考え抜いた。何よりその過程一切を存分に愉しんでいたことは明らかである。愉しむ、とはつまり文学者として対峙していたということであって、博引旁証は知識情報の羅列に堕さず、かえって論旨に花をそえる。蛇足だろうけれども、愉しみと身の細るほどの苦心とはこの場合一つことである。

 

 当世風俗の取り入れ(特に食べもの、食事の活かしかたは絶品であった)、大阪ことば、エッセイでの軽妙なやり取り、そして世に名高きタカラヅカびいき・・・どれも田辺さんを語るには欠かせないエッセンスではあるけれど、文藝における機微、人生における「あや」(西欧語では「修辞」と同じ語で表される)、両方をごく自然に透徹してしまう《眼》の持ち主を形容するのに、本質的に知的だった、という以上の表現が思い浮かばない。

 

 大阪ことばへのこだわりは単なるローカリズムではなく、相対的な思考視線の謂であるし(そこでは東京文化だけでなく、無論大阪の気質・人性・風土も相対化して眺められるのである)、『女の長風呂』シリーズでの精彩に富んだ掛け合いは家族も仕事も所詮は関係ない、人間はひとり、というきびしい認識に裏打ちされたものだった。

 

 だからといって、世を白眼視する偏窟な隠者のイメージにちっとも結びつかないとこがいかにもこの作家さんらしい。だいぶ前になるが、田辺さん行きつけの某店に入ったことがある。「いつも楽しそうにお酒呑んではりましたでえ」と店主に聞いて、ありそうなことだ、いやそうあって然るべきだ、そうこなくてはならんのだ、とこちらまで愉快になって杯を重ねたのである。

 

田辺聖子の小説作品をひとつも挙げてないではないか。しかしこちらの見方では田辺さんの小説は出来不出来の差があまりなく、というよりは洋菓子にするか和菓子にするかという、その時々での気分に任せて愉しむのにふさわしいものだから、特定の作品をあげるのは意味がないのである。

 

 

 

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緑陰読書

 即位改元のめでたさはそれとして、なんだあの上皇后という称号は。「言うに事欠いて」という表現はあるけれど、皇太后なり大后なり由緒正しいことばがある以上、「事欠いて」ですらない。鰻丼や鮨食ってんじゃああるまいし、全く何たる呼びざまか。「(「皇太后」という呼称には)過去に権勢を振るったというマイナスイメージがあるから」などという言い訳をしてるようだが、それならば「上皇」はどーなる。代わりに「上天皇」とでもするのか。この言い方のいかにもいかがわしい響きからして、役人や政府関係者の思考が愚劣、少なくとも日本語、とはつまり日本文化の伝統に関しては鈍感極まるものであることが分かる。戦前でなくてよかったねえ、きっと蓑田胸喜あたりに狂気の如く噛みつかれてあげくテロの標的になってたところですよ。

 

 連休中もしずかに本を読む。合間に筍をゆがき、蕨をアク抜きして天日干し。無論その合間にも絶えず酒。思いがけない「プレゼント」もあったが、これは書かない。うっしっし。

 

○揖斐高『蕪村』(笠間書院)・・・「コレクション日本歌人選」の一冊。主題別の編輯となっている。揖斐先生ご自身が「詩」の分かる学者だけに、鑑賞文も過不足無し。

青柳いづみこドビュッシー最後の一年』(中央公論新社

大貫隆『終末論の系譜』(筑摩書房)・・・「新訳」「旧訳」に出る終末論の特徴的イメージを整理。イエスが宴会好き、といった、「おっ」という指摘も多い。

佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書)・・・直接関係ないけど、今の教皇、初のイエズス会出身者なんだってね。

○アルベルト・フックス『世紀末オーストリア 1867~1918』(青山孝徳訳、昭和堂)・・・社会思想よりの視点で、ショースキーのウィーン論の陰画になっている。

○松本栄文『日本料理と天皇』(エイ出版社)・・・なにが言いたい本なのか?

○園部平八『京料理人、四百四十の手間』(岩波書店)・・・「平八茶屋」主人の自伝。若狭ぐじコース、食べてみたいなあ。

池上良正『増補死者の救済史』(ちくま学芸文庫)・・・柳田國男梅原猛の「日本古層論」が批判されているのだが、著者の提出する図式とそれらとの違いがもひとつよく分からん。

レオ・ペルッツ『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』(垂野創一郎訳、ちくま文庫)・・・汚された名誉のために復讐を誓う主人公の思い入れの強さがぴんとこないが、あとはさすがペルッツという話運び。フレミングが絶讃したそうです。

鹿島茂小林一三』(中央公論新社)・・・さすが鹿島茂、あまたある小林一三論とは違って、お得意の人口論を切り口に、ぐいぐい読ませる。先行著書への批判はことごとく当たっている。健全な思考というのがいかに強靱か。どんな人にもお勧めできる本です。

釈徹宗細川貂々『異教の隣人』(晶文社)・・・シク教ユダヤ教などの「異教」のコミュニティ探訪録。神戸の登場回数が群を抜いて多い。それだけ風通しのいい街なのだ、ここは。

○犬丸治『平成の藝談 歌舞伎の真髄にふれる』(岩波新書

ニール・ゲイマン『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』(金原瑞人訳、KADOKAWA)・・・墓場の住人(つまり死者)と近隣の街の住民(もちろん生者)とのパーティーのエピソードがいい。

井伏鱒二『七つの街道』(中公文庫)・・・全集は持っているけど、こういう形でまとめられた文庫本はやはり有り難い。所々で出てくる井伏調がたまらん。

○宮下規久朗『そのとき、西洋では』(小学館)・・・「そのとき」というのは「日本美術史がこのステージにあった、そのとき」ということである。カラヴァッジョ研究の第一人者による日本/西洋美術史の比較論。鎌倉彫刻と盛期ゴシックが同時代だったんだーなどと気づかされる。「考へるヒント」満載。当方個人としては、王朝文化の影響がかくもながく残ったことと、日本美術―というより日本文化一般―における「草書」的性格(アシメトリや破調の重視など)との関連、という宿題をもらった。

橋爪大三郎小林秀雄の悲哀』(講談社選書メチエ)・・・一応江戸時代のことを専攻してた人間から見ると、小林『本居宣長』の失敗は「勉強不足でしょ」の一言で済ませたくなるが、橋爪さんは丁寧に、あきれるほど丁寧に小林の本文をフォローしつつ、“敗因”を分析していく(川村二郎の文藝時評ははやくに指摘していたことであるが)。それにしても、みんななんでこんなに小林秀雄にこだわるんだろうな。

武田雅哉西遊記』(慶應義塾大学出版会)・・・猪八戒という窓から見た『西遊記』。武田雅哉さんにはどんどん『西遊記』周辺の「神怪小説」を翻訳紹介していただきたい。

 

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酒と桜

 二日連続の花見。どちらも当たり前ながら昼ひなかで、恰度気温が高く、うらうら照る日の下でぼけーっと花を見るような見ないような顔つきで酒を呑むのは格別の味わいでした。

 

 職場からの帰りに通る宇治川沿いは神戸でも割合有名な花どころで、この二日とも人出が多かった。ことに老夫婦が手をとりあってゆっくり歩いているのはまことにめでたい眺めながら、個人的にここの花は夕景以降、それも歩くのではなくバイクで三〇キロほどのスピードで抜けていくのが一等味わい深いと思う。連チャンの花見の翌日は、仕事帰りにこのやり方で独り桜を堪能した。

 

 灯ひとつに花ひともとの世界かな  碧村

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 研究職でもなく(=大学の本が利用できず)かつシブチンである(=新刊本はなるべく買わない)人間は大倉山の中央図書館を利用することが多い。ここの三階(専門図書のフロア)の特集コーナーは行く度にのぞいてみる。最近物故した作家の本など、「ほぅ、こんなのもあるのかね」というのが見つかるのだ。今頃はアレか・・・と思っていくと案の定「日本酒」と「桜」の二本立てでありました。テーマは宴会系でも選択は学術書中心のシブいところが心にくい。前の読書メモからからだいぶ経っているけど、今回まずはここで見つけた本から。

 

石毛直道編『論集酒と飲食の文化』(平凡社

○宮永節夫『日本水鳥記器』

○吉田元『江戸の酒』(朝日選書)・・・時代は江戸だが、地域毎の特色で章立てされているのが嬉しい。

○岩﨑文雄『サクラの文化誌』(北隆館)・・・花見の歴史から、サクラの挿し木の方法まで。ゆるりとぬる燗の対手にするに最適。食卓に載っけるにはかさばるサイズだが。

 

 その他の本。

コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』(黒原敏行訳、早川書房)・・・恩師が教えてくださった本。でもなければアメリカ文学が苦手な人間(ピンチョンを除く)が読むことはなかっただろう。いやー実に「元気な」小説であった。まだインディアン(と呼んでおく)と白人が争闘を続けていた時代のアメリカ。インディアン狩りで報奨金を狙う一隊は、合衆国と対立するメキシコ人のみならず、アメリカ人さえ殺戮の対象として、頭皮(証拠にするのである)を容赦なく剥ぎ取っていくという無法ぶり。ほとんど『北斗の拳』的な世界なのだが、なんというか、アメリカらしくどこか脳天気でパワフルなのですな。延々と直喩が連なる癖の強い文体も奇妙にユーモラス。あとは、《判事》と呼ばれる登場人物の印象(優雅で教養があって人好きがして、冷酷残忍)もすごい。登場した瞬間からオールド・ニックだな、と正体はすぐ分かり、そしてラストではいかにもそれらしく再登場する。映画にもなるそうだが、この場面は確かに映画の画面で映えるだろうなあ。

○同『ザ・ロード』(黒原敏行訳、ハヤカワepi文庫)・・・『メリディアン』が面白くて、すぐに注文。同じく暴力と退廃の支配する世界にしても、こちらは本当の世界終末モノ。舞台もそうだし、父と男の子の放浪だから話に波瀾も華もありはしないのに、一気に読ませる。男の子の内面の成長が(しかし未来はおそらく無い)親子の会話からにじみ出るところがうまい。

マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』(畔柳和代訳、岩波書店)・・・現代カナダを代表する作家なのだとか。当方はマッカーシー以来、久々に終末モノの小説が無性に読みたくなって手に取った。三部作の第一。『ザ・ロード』とは異なり、こっちは世界破滅の原因・過程がはっきり書かれている、というよりそれがプロットとなっている。天才とうすらとんかちとのコンビという設定が効いている。このジミーなる抜け作くんが魅力あふれる人物である。ベニー・プロフェインかポール・ペニフェザーのよう、と言ったのではちょっと褒めすぎかな?

○同『洪水の年』上下(佐藤アヤ子訳、岩波書店)・・・三部作の第二。前作のほうがはるかに出来がいい。後半『オリクスとクレイク』の世界に物語が絡み出して、それは楽しかったのだが(ことにジミーが登場するところは)、あまりにも律儀に前作と符節を合わせたような筋の運びが少々ダレる。未訳の第三作に期待をつなげよう。

熊野純彦本居宣長』(作品社)・・・哲学者による国学テキスト読解の試み。長大な研究史整理の部分もたっぷり語ってくれている。

○エトガル・ケレット『クネレルのサマーキャンプ』(母袋夏生訳、河出書房新社

ジェフリー・フォード『言葉人形』(谷垣暁美訳、東京創元社

○ノエル・キングズベリ、アンドレア・ジョーンズ『樹木讃歌』(悠書館)

向田邦子『海苔と卵と朝めし』(河出書房新社)・・・食べ物関係のエッセイを集めている。ファンには申し訳無いが、この作者とはやはりあんまり相性がよくない、と思った。

○工藤庸子『政治に口出しする女はお嫌いですか?』(勁草書房)・・・工藤先生のファンなので、早速読んだ。『評伝スタール夫人』のエッセンスとも言おうか。言論空間のありように焦点を当てて論じていく。サロンが公共でも私的でもなくその間に漂う言論の場だという指摘が興味深い。

○アントワーヌ・リルティ『セレブの誕生』(松村博史訳、名古屋大学出版会)・・・工藤庸子の前掲書で参考文献としてあげられていた。有名人、あるいは有名であることの誕生という視点からの近代史。たしかにこの角度から見れば哲学者と俳優も、大貴族と高級娼婦も同一平面に並ぶわけだ。「素朴で善良な植民地人」というイメージを徹底利用したフランクリンから、有名ゆえに肖像画のモデルになったのではなく描かれたから有名になったエマ・ハミルトン、そしてルソーにいたっては著名だから著名人、という同義反復になってしまう。のんびりと文化史の愉しさにふけることは出来るけれど、これ、無論もっとも現代的なテーマなのである。

○近衛典子校訂代表『動物怪談集』(「江戸怪談文芸名作選」第四巻、国書刊行会)・・・様式性に髄までからめとられたような江戸文芸でも、やはり一作一作に「文体」があることが分かる。「怪談野狐名玉」の上方口調が面白かった。どこがどう上方なのか、うまく指摘できないのだが。

木越治・勝又基『怪異を読む・書く』(国書刊行会)・・・木越治教授の古稀記念論文集がはからずも追悼論集となってしまった。木越氏自身の論文が面白かった。それにしてもここに平田篤胤が登場しないのはなぜ?彼こそは怪異を書くことの意味に徹底的にこだわった作者だったのに。

○ロナルド・ジェンナー、イヴィンド・ウンドハイム『生物毒の科学』(瀧下哉代訳、エクスナレッジ

塚本邦雄『百花遊歴』(講談社文芸文庫

○南塚信吾『「連動」する世界史』(岩波書店

○レーナ・クルーン『人間たちの庭 ホテル・サピエンス』(末延弘子訳、西村書店)・・・これも期せずして終末物。

坪内祐三『昼夜日記』(本の雑誌社

○中村邦生『推薦文、作家による作家の』(風濤社)・・・花やかな芸の見本帳のような一冊。

○坊城俊民『宮中五十年』(講談社学術文庫)・・・暴風の日に、子どもの著者と一緒に戸板を抑えていたという明治天皇のエピソードがいい。

小林登志子古代オリエントの神々』(中公新書)・・・小川英雄の説では伎楽の起源はミトラス教の儀式だという。ほおお。筆者はそれに対して「日本書紀にミトラス教の記述は無い」と言う。そらそうでんがな!

○鎌田茂雄『観音さま』(講談社学術文庫)・・・そうそう、観音さまも遠く中東の大地母神に起源があるのだ。

○國方栄二『ストア派の哲人たち』(中央公論新社)・・・文字通りのコスモポリタン世界になりつつある今、人々の意識を呪縛するのは復活するヘーゲルの壮大な物語か、あるいはストア派の「安心立命」かでなくてはならないのである。

○ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(岩津航訳、)・・・収容所の極限状況では、ことばは必然的に過去の記憶の中でしか用いられない、とは詩人石原吉郎の証言。無論その過去は幸福で豪奢な記憶なので、だからこそプルーストなのだ。カフカのことなど思い出すまでもない、ということだろう。

 

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