我火星人なりせば~コロナに抗して孤独旅①~

 えんぶり以来、ということは半年も経っていないのだけど、合間の大騒動を考えると随分久々という感じがする。

 八戸駅からそのまま鮫駅まで乗り、バスで小舟渡まで。種差海岸で「いちばん海に近い食堂」として有名な『海席料理処 小舟渡』で昼食という心づもり。

 近いどころか、海の上に突き出したという造りで、失礼ながら漁師小屋に毛の生えたような建物がよくうつる。まさに目の前の岩に波がくだけるのを見ながら何はともあれビールをぐいっとやる快感は言うまでもない。今朝はあまり上がらなかったとのことで、お目当ての生海胆丼は注文できず。代わりに定食を頼んだのですが、これは定食というよりコースですな。まず出ましたものを書き連ねてみる。

 ・小鉢
 ・つくり・・・わらさ、帆立、鯣烏賊、岩牡蠣、生海胆、牡丹海老
 ・酢の物・・・海鞘酢
 ・焼き物・・・帆立、鯖塩
 ・椀・・・いちご煮

 わらさの造りなぞ、名詞大のものが四切れ。それでも鰤・間八系が苦手な人間があっさりと平らげたのだから、当然だけど、新鮮で旨い。ビールでは間に合わないので地酒の小瓶を頼み、光る海をほけーっと見やりながら魚をつまむ。あらためていちご煮(有名ですが念の為。海胆と鮑の潮汁です)は飯の相手ではなく酒のアテ向きだと思った。薄味の具合といい刻み込んだ大葉の香りといい酒客泣かせ。

 なんて言いながら酒をお代わりしたあと、鯖の塩焼き(堂々片身ぶん乗っかっている)で飯を二三口。「前沖」のサバがあるのに飯を食わないという手はない。

 すっかり腹がくちくなったので、午後は少し時間をかけて種差海岸を歩く。前回、初の八戸旅のときには海霧が上まで這い上るような天候で、震えながら暗い海を見たおぼえがある。うってかわって今日の眺めは豪快そのもの。滑らかな天然芝、または峻険な崖の先に白波がくずれる光景は、たしかに宇宙人でも感動するであろう、と実感。

 唐突に宇宙人が出てきましたが、ここを訪れた司馬遼太郎が「宇宙人が来たら、真っ先にこの海岸を見せてやりたい」と景色を評した由。さすがに国民作家だけあって、褒め方もむやみに景気があっていいですね。人っ子ひとりいない(ように思えるくらい、長い長い海岸なのです)のそこここで足を止めて潮音に聞き入っていると、珍しく感銘は句ではなく歌の形を取って出た。お笑い草にご披露。


 太平の海の揺り越す白波の岩噛むときにすさびては果つ


 市街に戻り、ホテル内の温泉で体をほどいてしばしうとうと。だいぶお腹も空いてきたかな。

 この日は八戸の知人であるmamoさん(2020年2月「鬼が笑う門」をご参照下さい)がコーディネートしてくださった。まずは待ち合わせの前に、ブックセンター横にお囃子の練習を聴きに行った。例にもれず八戸の夏祭り(本来は秋祭り)である三社大祭も中止となっている。不思議と、冬のえんぶりの囃子よりもゆったりしていてどこか哀調を帯びている。えんぶりの方は北国の冬をはね返すために、もしくは予祝の芸として力強い節回しとなったのかな。ともかくこども達が大人やにいちゃんねえちゃんに指導されながら太鼓叩いている眺めは、この町の贔屓として頼もしい光景である。

 さて待ち合わせ場所は長者まつりんぐ広場。ここにあるむやみに背の高い倉庫では三社大祭の山車三基の制作中。そしてmamoさんも鍛冶組のメンバーとしてそこに加わっている。祭での巡行自体は取りやめだが、展示用に作っているとのこと。

 Google先生にあれこれ訊ねていたから概念的には分かっていたが、やはりこの山車の大きさ、華麗さには圧倒された。そしてmamoさんの説明を聞いて、何から何まで(機械で動く仕掛けの工夫まで)町の方々の手弁当による作業で作られると聞いて一層圧倒される。

 うつくしい話。それだけに尚更今年の中止は悔しかっただろう。鯨馬も、復活第一回目のときには何とかして駆けつけたいものだと思う。

 八戸は横丁の町でもあります。とはいえ、みろく横丁の屋台村以外はやはり観光客には(鯨馬のような厚顔なヤツでも)なかなか入りづらい。なのでmamoさんが夕食に選んでくれたのが狸小路にある店だったのは嬉しかった。

 『origo』。ナチュラル系のワインで合わせるビストロだそうな。その意味でも自分では選ばない店である。ここでは我が輩の八戸師匠格であるmamoさんに色々教えてもらうおしゃべりがメインのような趣だった。といって料理がイケなかったどころではなく、前菜の豚レバーの低温燻製も、鴨のロースト、それにカイノミのローストも堪能したのですが、なにせこの店量が多いのですね。というか、普段ならさらっと平らげてもっとワインをぐびぐびやってるはずの鯨馬ですが、昼間に強烈な日光にさらされながら小一時間海岸を歩きづめに歩いた人間はここらで急速に眠くなってきた。

 日本酒バーも最近できたんですよ、面白い飲み屋もありますよとオスピタリテをいっさんに振りまいてくださるmamoさんには本当に申し訳ないが、八戸初日は初戦敗退。次は必ず朝まで呑みますから!(つづく)

 

四国水族館に行ってきた

 六時過ぎに家を出て、開館前に着いたはずだが、なんじゃこの長蛇の列は。当然館内も大混雑で、こりゃいつクラスターが出てもおかしくないわなと少々ビビりつつ回った・・・からという訳ではないが、もひとつ食い足りない。「○○の景」という展示(しかもサカナの説明は一切無し)がしゃらくさいし、中途半端な大きさの水槽が多く、仰ぎ見る愉しみやのぞき込む愉しみがあまり味わえない。何を目指しておるのか。

 とまあ、ワルクチを並べ立てたくなるのですが、曲がりなりにも神戸から半日で行ける場所に折角新しい水族館が出来たのですから、屋外と屋内を自由に行き来できる開放感と、なんといっても瀬戸内の海景を背にした抜群の眺めとをここでは評価しておきましょう。これからの磨き上げに期待。


○バレリア・ルイセリ『俺の歯の話』(松本健二訳、白水社)……マキ、あなたにおすすめです。
○井奥陽子『バウムガルテンの美学』(慶應義塾大学出版会)
高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史戦後文学篇』(講談社
○ヴィクトル.I.ストイキツァ『絵画をいかに味わうか』(岡田温司編訳、平凡社
○マイケル・バクサンドル『ルネサンス絵画の社会史』(篠塚二三男訳、平凡社
○エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ『気候の人間の歴史Ⅰ』(稲垣文雄訳、藤原書店
マリオ・バルガス=リョサプリンストン大学で文学/政治を語る』(立林良一訳、河出書房新社
○伊藤邦武他編『世界哲学史』(ちくま新書)……中央公論からも哲学史叢書出てるし、講談社の選書メチエでも出てたよね。テツガクばやりなのか。で、このシリーズは「世界哲学」に力を入れている。今のところはヘーゲル的なギリシャ・ローマ(⇒中世)⇒ヨーロッパ近代という図式に接ぎ木したという感は否めないけど、心意気をかいます。
○青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書
○オリヴィエ・ゲズ他『独裁者が変えた世界史 上下』(神田順子、原書房
安田喜憲・荒川紘『龍の文明史』(八坂書房
○多田英俊編『鴻池幸武文楽批評集成』(大阪大学出版会)……いやあ、歯に衣着せぬどころか、金剛砥で歯を研ぎに研ぎまくった上で真っ向から噛み割くような批評。文楽への愛情が、ヘンな日本語ですが壮絶に伝わってきます。これに比べれば鯨馬の四国水族館評などは絶賛といってもいいくらいである。
○阿部泰郎『中世日本の王権神話』(名古屋大学出版会)
○荒井健・田口一郎荻生徂徠全詩1』(平凡社東洋文庫)……同じ東洋文庫から出てる『徂徠集 序類』の訳注と合わせると、だいぶん徂徠研究も進むのではないか。
○ヒューム『自然宗教をめぐる対話』(犬塚元訳、岩波文庫
佐伯泰英『惜櫟荘の四季』(岩波現代文庫
○松尾恒一『日本の民俗宗教』(ちくま新書
藤森照信『近代建築そもそも講義』(新潮新書
ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(栩木伸明訳、国書刊行会
安田謙一『神戸、書いてどうなるのか』(ぴあ)……若島正さんの書評でこの著者を初めて知った。ユルイようだけどなんだかヘンに骨格正しい日本語で、癖になる。新刊の『書をステディー町へレディゴー』(このタイトルでまず膝がかっくん、となる)も読んでみよう。
○白井明大・有賀一広『日本の七十二候 旧暦のある暮らし』(KADOKAWA
濱田啓介『国文学概論』(京都大学学術出版会)
○ヒュー・ルイス=ジョーンズ『ファンタジーの世界地図』(栗原紀子訳、東京堂出版
○J.M.クッツェー『イエスの学校時代』(鴻巣友季子訳、早川書房)……『幼子時代』に続く第二作。ダビードはますますイラつかせるガキになり、イネスはさらにわがままになり、そのぶん二人に振り回されるシモンが実にあわれ(で可笑しい)。ドミトリーというヘンタイの殺人犯が執拗にシモンたちにつきまとい、ケッタイな長広舌(犯罪哲学?)をふるうところがなんともいえず不気味。第三作は『The death of Jesus』(!)らしい。いずれ鴻巣友季子さんの名訳で愉しめるのだろうが、四年も待たされるのはつらいなあ。久々に原書買うか。
三浦しをん『仏果を得ず』(双葉社文庫)
○藤原昌高『美味しいマイナー魚介図鑑』(マイナビ出版)……最近贔屓の居酒屋の主は珍魚好き。で、当方が生まれてこの方聞いたこともないようなサカナがよく出てくる。少しは勉強しましょう、と手に取った本。著者は、サカナ好きには紹介不要ですね、あのぼうずこんにゃくさんであります。
泡坂妻夫『家紋の話』(KADOKAWA
安藤礼二『列島祝祭論』(作品社)
○モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』(柴田元幸訳、文藝春秋
○ユーディット・シャランスキー『失われたいくつかの物の目録』(細井直子訳、河出書房新社)……これもマキ向きだな。

 

烏賊はどこか哲学的。

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FFXのサンドワーム がおった。

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壺中天

 某日 京都は北大路、『仁修樓』再訪。これだけの味を堪能出来るのなら、新快速で一時間(+地下鉄十五分+タクシー十分)はちっとも面倒だと思わない。

 「紫美」と名の付いたこの日の献立以下の如し。

*凍冬瓜盆……蒸した冬瓜をくりぬいたところに、蟹身と鱶鰭を詰めている。見た目といい味といい水無月の京のひと品めはこうでなきゃ、という一品。でも日本料理ではないのだから、冬瓜も周りのジュレも一口目は涼やかな印象ながら、旨味の底が深い。
*冷製前菜……①トマトと玉蜀黍を胡麻味噌ダレで和えたもの、②くらげ、③野菜甘酢。中華の前菜として尋常な顔ぶれ。つまり、上岡さんが「他との違いを見てくれ」と気合いを込めているということ。たしかにこれだけコリコリしたくらげは食べたことがない。
*広東焼𨿸……前菜を味わっている目の前では鶏に油がかけられている。中華は音も食う、というのは本当だな。「骨付きのほうが旨いのは間違いないが、食べるのに手間取ると皮の食感が消えてしまう」とのことで骨はあらかじめ抜かれている。だから無論皮はさくさくのぱりぱりで、しっとりした身とのコントラストがたまらない。
*乾坤寳甲……えーと、思い出せる限りで書きますと、杏仁・棗・金華ハム・干し貝柱・鶏・干し椎茸、それにすっぽんの蒸しスープ。蒸しているから清澄極まりないくせに、ぐんぐんと旨味がのびていく。「乾坤」とは山海の珍味をつめこんだ、という意味らしい。たしかに乾坤、つまり宇宙という形容にふさわしい豪奢な一碗。
*蠔皇吉品……豪奢の語を使ってしまったら、この干し鮑の煮込みは一体どう評すればよいのか。贅とか華とか豊とか醇とか貴とか精とか麗とか霊とか神とかいった漢字がアタマの中でぐるぐると駆け巡り、それが『ちびくろサンボ』の虎よろしく渾然と融けて、それを一滴に煮詰めたような味、としか言いようが御座いません。上岡シェフが「ここまで来ると、もう、広東料理でも最強クラスと言えると思います」と言うのにハゲシク同意する他無し。まさしく皇帝、王者の味であります。この神鮑の下、神ソースの上には白いふわふわが挟まっていて、これがまた濃艶。卵白と生クリームを炒めたもの、だそうな。この仙人のチーズがあってはじめて、鮑もソースも冷静に味わえるのでしょう。中華の技というのは底知れませんな。
*XO炒時菜……青菜は空心菜。それと牛スジを炒め合わせている。スジ肉が軽やかな風味なので、訊ねてみるに「山椒で下茹でしてます」とのこと。これは色々応用出来そうですね。
*紅焼魚翅……本当はこの鱶鰭自体、贅とか華とか豊とか醇とか貴とか精とか麗とか霊とか神とかいった漢字を使いたくなるレベルの仕上がりなのですが、何せ蠔皇吉品を知ってしまった身としては、「孔子に比べたら孟子は・・・」と言ってしまいたくなる。人間贅沢になれるとオソロシイものです。
*港式白粥……ただし、しっかりコクのある白粥(でもあっさり)に、上岡さんの勧めで鱶鰭煮込みをひと掬い垂らして食べると、二日酔いでも三日酔いでもかかってこい、という気分になれる。あるいはこの一碗で、三日酔いになれるまで呑める(やっぱりここは老酒でしょうな)と謂うべきか。
*湯……陶然として粥を啜り終えると上岡さん、「あと一口いけます?」。シェフのこのニヤリ顔に抗うことなぞ当方には無理。というわけで食事の最後はスープ。二口くらいの麺(目の前で切って茹でる)が入っている。これは鶏だけでとったとのこと。味を邪魔しないように、麺には玉子も鹹水も使っていないとのこと。懐石でいえば箸洗いのような位置付けであって、実際にすっぽん、鮑、鱶鰭のあとでは、「余韻」それ自体、というような味わいだった。これでおわかりのように、上岡誠さんは、料理の技術だけでなく、献立の構成にも抜群の冴えを見せる料理人なのです。鯨馬は惜しみ惜しみスープをのみながら、鮑やすっぽんに別れを告げておりました。
*杏露蕃茄……トマトのコンポート。なのであるが、トマトの旨味が濃いので、これでまた紹興酒をやりたくなってしまう。

 一体に上岡さんは、広東料理の真ん中をびしっと攻めてくる人で(だいぶんこちらの好みに合わせてくださったのも大きいけど)、とはつまり、スパイシーさやあぶらっこさではなく「ダシ」中心に味を組み立てているから、料理を愉しみながら、つねに日本料理との対比を意識していた。スープを蒸してとる、とか山椒で下処理するとか、和食の技術であってもおかしくはないのだけれど、ぎりぎり和食という線に近づきながらも、やはり曰く言い難い何かがある。翻って「日本料理とはなにか」と考えてしまう。これは、シェフが講釈を垂れるタイプとはほど遠いだけに、「中華(というか広東菜)とはなにか」と日々思い巡らせているゆえの効果なんだろうなあ、とこれは帰りの新快速でしみじみ思ったことでありました。上岡誠さんに感謝。ちなみに今はランチ営業はされていないとのことです。

 

 

日没閉門

 ある会合でご一緒した方が陽性と判明。ブログ子も二週間の自宅待機を余儀なくされた。さすがに夕景になっても呑みに出る訳にもゆかず、気分としては蟄居謹慎仰せ付けられた感じ。

 テレワークをしていると、職場ではなんだかんだと体を動かしていたことに気づく。運動不足およびストレス解消のために、昼の休憩時には近所を散策。ま、客観的には徘徊というべきでしょうが。爛漫の花の下に人がいないのはやっぱり異様な光景で、もし世界破滅モノの小説書くならこの光景から始めるのもいいな、と考える。

 夜の時間は読書して過ごす。ゲームしたり、映画を見たりする気がほとんど起きなかったのは我ながら意外。

○桐山昇・栗原浩英『新版東南アジアの歴史』(有斐閣
○澤井義次『ルードルフ・オットー 宗教学の原点』(慶応義塾大学出版会)
吉中孝志『花を見つめる詩人たち マーヴェルの庭とワーズワスの庭』(研究社)……当然ながら川崎寿彦『マーヴェルの庭』(初読の際、卒倒しそうなくらい熱中した)を意識しているが、川崎先生の本がバロックとしたら吉中氏はいわばロココ、彼がシュトルム・ウント・ドランクとすればこれはビーダーマイヤーという研究スタイルの違いがまた面白い(スタイルの差であって、価値評価ではありません)。
○ジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』(服部由美訳、講談社
○ジャン・アメリー『新版 罪と罰の彼岸』(池内紀訳、みすず書房
伊藤薫『修辞と文脈 レトリック理解のメカニズム』(プリミエ・コレクション、京都大学学術出版会)
藤田達生『藩とは何か 「江戸の泰平」はいかに誕生したか』(中公新書
宮脇淳子『皇帝たちの中国史』(徳間書店)……夫君(岡田英弘)同様、文章のガラが悪いのがかえってなんだか可笑しい。
○クリフォード・ピックオーバー『ビジュアル医学全史』(板谷史訳、岩波書店
○久保田淳『藤原俊成 中世和歌の先導者』(吉川弘文館
亀山郁夫野谷文昭『悪魔にもらった眼鏡』(名古屋外国語大学出版会)
○長尾健二『歴史をつくった洋菓子たち』(築地書館
○黒田俊雄『王法と仏法』(法蔵館
アーシュラ・K・ル=グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(谷垣暁美訳、河出書房新社)……エッセイ集です。
井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版
○長谷部恭男『憲法のimagination』(羽鳥書店)……時々吹き出す。巧いなあ。
鹿島茂『本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論』(集英社)……最近の鹿島さんは、徒手空拳・孤軍奮闘でがんばってる。
○雲英末雄・佐藤勝明校注『花見車・元禄百人一句』(岩波文庫
○『週刊読書人 追悼文選』(読書人)
森まゆみ谷根千のイロハ』(亜紀書房
カズオ・イシグロ忘れられた巨人』(土屋政雄訳、早川書房)……初読では途中でやめた。今はファンタジーの設定も気にならない。なんでだろうか。
○『わたしのベスト3』(毎日新聞出版)……選ばれた本よりも、選者と対象との組み合わせの方が興味深い。
○広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)……すべての演目で、それぞれの高座/CD/DVDでの演出・空気の違いを解説している!
丸山健二『新・作庭記』(文藝春秋
エリック・マコーマック『雲』(柴田元幸訳、東京創元社)……『ミステリウム』など、マコーマックの他の作の世界が自在に混じり込んできているのが嬉しい。黒曜石雲のエピソードはもっと丁寧に処理してほしかったけど。
牧村健一郎『評伝獅子文六』(ちくま文庫
○小坂井敏晶『増補責任という虚構』(ちくま学芸文庫)……この著者の、容赦なく論理をつきつめていく姿勢が好き。
○佐藤康宏『絵は語り始めるだろうか 日本美術史を創る』(羽鳥書店

双魚書房通信(21)~奇人VS学究 川平敏文『徒然草』

 『徒然草』と聞くと誰でもげんなりする。教科書古文の代表作だからである。著者は「そうでもないんですよ」と横に立って言う。その口調が、大上段にふりかぶる感じでもやたらと力んでる感じでもないのが好もしい。
 川平さんは本来は近世文学の専家。江戸時代の人々がどうこの書を読んできたかを研究してきた。文部科学省検定済みの読み方、とはつまり現代、というよりは戦後日本の古典文学観を相対化するのにもってこいの立ち位置である。返す刀で(という比喩は変か)、近世の人々がどんな眼鏡をかけていたかも浮き上がるという仕組み。一粒で二度美味しいとはこのことである。
 篤実な学究だけあって、ふしぶしにほぉという知見がある。たとえば皆様ご存じ序段の書き出し、書名にもなっている「つれづれなるままに」とはどういう意味か、憶えてらっしゃいますか。退屈?所在ない?学校で教わったその解釈がどのように形成されたか、そして維新以前の解釈はどう違っていたのか、その違いはどこから生まれてきたのか。うんざりするほどの(失礼!)用例を周到に検討しながら説き明かす行程がじつに面白い。
 教科書には載らない(載せられない?)章段へも丁寧に案内してもらえる。あるいは無類の色好み、またある時は落語家の祖たる達者な語り手。澄ましかえった隠者ではなく、端倪すべからざる観察者としての兼好法師。少なくともこれまでの抹香/説教くさいコテンというイメージは綺麗さっぱり消えているはず。たしかに「そうでもない」らしい。
 ここからは私見だが、『徒然草』は本当は教科書なんかに載せてはいけない本なのである。「随筆」というと、毒にも薬にもならない閑文字の連なり(だからテキストにはぴったり)のように聞こえるけど、この古典はすこぶるケッタイな本なのである。奇書といってもいい。「そこはかとなく」連想をつないでみれば、ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』やトマス・ブラウンの『医師の宗教』やジョン・オーブリの『名士小伝』と同じ種族に属する、まことにアクの強い、猛毒成分保証付きの文章。まだしも『徒然草』を現代語に直した感のある(丸谷才一が指摘している)佐藤春夫『退屈読本』のほうがよほど随筆らしい(佐藤の本も名文章が多いのだが)。
 しかし、こう書くと、さる高名な批評家の有名な『徒然草』讃とあまり変わらなくなってしまうようである。「見え過ぎる眼」とか栗ばかり食べる娘について「どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」とか、例によって例の如きケレンたっぷりの手に負えない文体だが、ともかくも、『徒然草』にはこう熱っぽく語らせてしまう中毒性があるのだ。
 川平さんの案内に心地よく身をゆだねながら、一粒で三度目の美味しさを求めてしまったのは、つまり近代や近世の見方を通したのではなく、『徒然草』本体の魅力を川平さんにもっと語って欲しく感じたのは求めすぎだろうか。あるいは作品そのものと向き合うという発想自体が近代主義なのか。
 きっと兼好法師なら囁くに違いない。「そうでもないんですよ」。

※ちなみに兼好法師の生涯、及び『徒然草』の註釈については、本書であげられているとおり『兼好法師』(中公新書)、角川ソフィア文庫版『新版徒然草』がよい。どちらも小川剛生著。とくに前者はめちゃくちゃ面白い。

 

徒然草-無常観を超えた魅力 (中公新書)

徒然草-無常観を超えた魅力 (中公新書)

  • 作者:川平 敏文
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 新書
 

 

 

たつぷりと象の屁をひる日永かな

 王子公園に出るついでがあったので、久々に動物園に寄ってみた。コロナ騒動で、屋内閉館のところが多いために入場無料。そこそこ親子連れでにぎわっていたのは慶賀すべきだが(帰りにはどこかのお店で食事していきましょう!)、熊のボーといい、レッサーパンダのガイアといい、老いの衰えのあらわなのに哀れ、いや、「もののあはれ」をおぼえる。

○村岡晋一『名前の哲学』(講談社選書メチエ)・・・面白かった。古代ギリシャからの「名前」についての学説史の整理のようなつくりだが、名詞、ことに固有名詞がこれほど哲学の”問題児”扱いされてたとは知らなんだ。なかでも著者が専門とするドイツ・ユダヤ系の思想家(ベンヤミン、ローゼンツヴァイク)の論理が刺戟的。神の名前の位置付けも面白く読めた。今回いちばんヒントをもらえた本。名前こそが、地域・時代を越えて、見知らぬ人々(圧倒的な数の)と共感・対話できる秘鑰なのだ。震災でいのちを落とした方々のことに思いいたらざるをえない。
伊藤之雄『元老』(中公新書
西村義樹野矢茂樹言語学の教室』(中公新書)・・・哲学者が認知言語学に挑む。面白い学問だけど、文化本質論に陥りかねない危うさもあるね。
○桑木野幸司『ルネサンス庭園の精神史』(白水社
○マルコ・ピエール・ホワイト、ジェームズ・スティーン『キッチンの悪魔』(みすず書房)・・・イギリス人シェフ(最年少三つ星獲得!)の自伝。かなりトガった人格だけど(顔もコワイ)、根本が真面目なひとなんでしょうな。なんだか好感がもてる。
○ヒロ・ヒライルネサンスバロックのブックガイド』(工作舎)・・・わたしこの人のファンなんです。半分以上は読んだことある本だったけど。各書の目次を載せてくれているのがうれしい。
渡辺一夫ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫
○麻生繁『日本料理一汁三菜』(光文社)
○島谷宗宏『京料理炊き合わせ』(旭屋出版)
○神原正明『ヒエロニムス・ボス』(勁草書房
ロジェ・カイヨワ『文学の思い上り』(桑原武夫訳、中央公論社
ピーター・メイル『南仏プロヴァンスの25年』(池央耿訳、河出書房新社)・・・メイルの遺著になるのかな?才筆ぶりがすっかり枯れた感じ。
ピーター・ホール『都市と文明』(佐々木雅幸訳、藤原書店
正津勉『京都詩人傳』(アーツアンドクラフツ)・・・天野忠の肖像が面白い。
○『龍蜂集』(国書刊行会)・・・澁澤龍彦が遺したメモに拠る泉鏡花選集(全4冊)。選択には?という部分もあるが、ともかく造本・版組みが素晴らしい。じつに素晴らしい。
○島内景二『和歌の黄昏 短歌の夜明け』(花鳥社)
○デイヴィッド・B・モリス『痛みの文化史』(渡辺勉訳、紀伊國屋書店
○伊東剛史・後藤はる美『痛みと感情のイギリス史』(東京外国語大学出版会)
○南条竹則『ゴーストリイ・フォークロア 17世紀〜20世紀初頭の英国怪異譚』(KADOKAWA
三浦哲郎おろおろ草紙』(講談社
武藤康史『文学鶴亀』(国書刊行会
東雅夫下楠昌哉『幻想と怪奇の英文学』1・2(春風社)・・・東さんの名前があるからてっきりアンソロジーだろうと思って手に取ると研究者による論文集だった。それはいいのだが、巻末インタビューで「幻想文学とは」にトドロフの定義を出してきている方がちらほらいるのに驚いた。まだトドロフですか。新しけりゃいいというもんではないけど。
○戸矢学『古事記はなぜ富士山を記述しなかったのか』(河出書房新社)・・・風水の本でした。
○ルイス・ダートネル『世界の起源』(東郷えりか訳、河出書房新社)・・・形而上学の本ではなくて、地理・気候条件がいかに文明・文化の歴史に影響したかを説く。ま、これも決定論になずみがちな論調なのですが、なにせ地球史レベル、つまり何十万何百万年という規模の時間をあつかっているから、読んでて気がせいせいする。
○原田英代『ロシア・ピアニズムの贈り物』(みすず書房
○倉本一宏『公家源氏 王権を支えた名族』(中公新書
○杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社)・・・晩年はモーツァルトでもベートーヴェンでもなく、ブラームスに親炙していたそうな。つくづく人を煙に巻くのが好きなオッサンや、と改めて辟易する。

 

門々より囃子のこゑ~えんぶり紀行(3)・了~

 定宿の朝飯はせんべい汁も出てすこぶる充実している。普段ならゆっくりしたためるところ、この日はせんべい汁だけ啜って飛び出した。言うまでもなく新羅神社での奉納摺りに駆けつけるためである。

 今のうちにえんぶりの基礎知識・用語をまとめておきましょう。

*起源は不明だが、豊作の予祝儀礼として始まったという説が多い。
*踊る・舞うと言わず、摺ると言う。地面に擦り付けるような動作が多い。田植えの動作を模したからだという。
*門付けの風習が卑賤だとして、明治にはえんぶり自体が禁止される。⇒識者の奔走で、新羅神社の稲荷の神輿渡御に伴う豊年祭という形で復活。つまり元々は特定のお宮に属さない祭礼だったらしい。
*地域ごとに組があり、着付け・所作・囃子が異なる。
*摺りの中心を太夫という。三名乃至五名。
太夫は馬の頭を模した花やかな烏帽子を付ける。手には鳴子やジャンギと呼ばれる、農具を模した棒を持つ。
*「ながえんぶり」「どうさいえんぶり」の二種類がある。
 ・ながえんぶり…荘重優雅な動きが特徴。太夫の頭領である藤九郎と他の太夫が異なる動きをする。
 ・どうさいえんぶり…勇壮華麗な動きが特徴。太夫全員が同じ動きをする。
太夫の摺りの合間には、主としてこどもたちによる祝福芸(えびす舞・大黒舞・えんこえんこ等)が行われる。

 昨日以上に冷え込みは厳しい。雪も時折。ま、二月の八戸としては気の抜けるような程度ではあるのだけれど、「ああ、今からえんぶりが始まるんだなあ」としみじみ実感。そして長者山の麓にたどり着くと、かすかに流れてくるお囃子の音でその気分はさらに盛り上がる。うねうね道を思わず早足になって上る。

 杉林を抜けると、そこはえんぶり国だった。

 所狭しと各えんぶり組が奉納摺りの順序を待って並んでいる。主観的には目路の限りという感じで、幟を先頭にして太夫、えびす・大黒に分したこども、囃子方(無論えんぶり用の装束)が続いていた。

 どの組も、待つ間も休むことなくお囃子を奏し続けているので、笛・太鼓・すり鉦・かけ声のリズム・高さが少しずつずれながら、でも全体としては力強い響きの奔流となって空に駆け上っていく勢い。

 老来あちこちのセンがゆるみつつある人間は急速に視界がぼやけてきた。カラダがしびれる。ああ、ようやく「ここ」に来られた。

 しばし瞑目して囃子の流れに身を浸したあと、えんぶり組が通る参道傍に移動。奉納の時は太夫の摺りだけらしい。次々と組が換わってゆく。その分、各組の装束の違いや摺りの所作の特徴がよく分かる。足許からの冷えも気にならず、見続ける。白粉を塗り、紅をさしたこどもたちの中には、二三歳と見受けられるのも混じっている。年長の子に手を引かれて歩を進めながら時折こっくりこっくりしているのがまたなんとも可愛らしい。そうそう、えんぶり組のなかには○○小学校・□□中学校・八戸市庁といった幟が見えるのも頼もしい感じでした。

 そのうち、背後の広場では撮影会が始まった。こちらは太夫の摺りもフルヴァージョン、こどもの祝福芸も挟まる。観光客には所作の細かいところは分からないが、摺りの「決め」の瞬間における太夫の視線の揃いかたがすごくカッコイイ。また、このときには囃子が止まり、親方の唄と、単調にとーんとーんと太鼓だけが鳴り渡る(『忠臣蔵』四段目みたい)。その厳粛な空気のなかで激しく烏帽子を振る動きが本当に素晴らしくて、また涙が流れてくる。

 それにしても、前の奉納摺り、後ろの撮影会と、振り向きまた振り返り、泣いては眼鏡を外して涙を拭い、鼻をかんではスマホで撮影し、なんともせわしない見物である。行列の組の方たちから「けったいなやっちゃなあ」と(南部弁で)見られていたように思う。

 二時間近く経って、漸く奉納待ちのしんがりが見えてきた。次はどうなるのか。あんまりスケジュールを把握していなかったので、あるえんぶり組が山を下りるのについて行く。二三分歩くと、広大な広場が見えてきた(長者まつりんぐ広場というのだそう)。えんぶり組があふれかえっている。中心街への行列出発のあいだまで軽食をとったり、振りの最終確認をしたりして過ごすらしい(取り締まりのおじさんに伺った)。まだ時間があるので、当方も一旦ホテルへ戻って朝食を取り直すことにする。

 まつりんぐ広場にふたたび来てみると、もう各組が整然と列を作っていた。壮観という他ない。

 十時になると合図の花火が打ち上がって行列出発。朝の寒気はだいぶ和らいで、雪は小雨へと変わっていた。鯨馬は幟の文字をたよりに行き着いた中居林組にくっついて行く。ここは前々回に紹介した地元の写真愛好家・mamoさんこと二ツ森さんご推奨の組ときいて、一斉摺りでは「定点観測」しようと決めていたのである。

 なにせ三十を超える組が歩くわけですから、街の通りの端から端までがえんぶり一色。四角く回っていくところでは、ビルや民家のあいだから向こうの通りにも烏帽子や太鼓がのぞいたりしてなんとも不思議な感覚。言うまでもなくこの間ずっとお囃子が響いているのです。

 さて我が中居林組(←すでに調子に乗っている)は、十三日町のヤグラ横丁で歩みを止めた。いよいよ一斉摺りのはじまり。鯨馬は歩道のきわ、一番前に陣取って見ております。

 中居林はながえんぶりのなかでは唯一五人の太夫で摺る組らしい。それだけに、先に記した太夫の視線がぴたっと合う瞬間の恰好よさといったらない。背筋がぞくぞくする。また摺り終わった後の辞儀がとっても低く、そこから左前に顔を振りながら少しずつ立ち上がっていく動きにも見惚れる。

 えびす舞はこども二人が出てくる(これも組によって違う)。えびす様が釣り竿を取り出して鯛を釣るまでを表した舞で、剽げた味わいがある。このえびす役のうちひとりの男の子にも感心した。滑稽な舞だからといってけしてそれらしい表情・仕草を強調せず、むしろ真摯な顔つきなのだが手をひらひらさせる時の動きや目のやり方に自然とにじむ愛嬌があって、「逸材ですなあ」と唸ってしまう。

※あとで二ツ森さんのブログを読んでいると、同じ舞手を褒めていたので嬉しくなった。「この新人は筆力あるなあ」と見極めをつけた本が、『毎日新聞』書評欄で鹿島茂に絶賛されているのを見た気分。


 一斉摺りは小一時間続く。さすがにひと組だけでは勿体ないので、時間の許す限り見て回る。とりどりに面白かったが、中居林以外でとりわけ良かったのは横町組。

 ここもながえんぶり。だから全体としては神事らしいグラーヴな趣なのだが、藤九郎の動きが裂帛の気合い、と古風に形容したくなる激しいもので、はっ。とさせられる。烏帽子の振りも、頭をあおのかせてするので余計に鋭角的な印象をもたらす。その藤九郎の動きの左右では、太夫が中腰になって、右手の鍬台を後ろ手に地面に突き立て、左手の手ぬぐいをある時は緩やかにある時は素早く肩へ向けて振る所作を続ける。このアンサンブルが素晴らしい(是非YouTubeでご覧あれ)。スマホの撮影などとっくに忘れて見つめ続けるうちに、ただただ涙が溢れてくる。我ながら可笑しいくらい溢れてくるが、なに人目など構うものか。

 あっという間の、でも圧巻の一斉摺りだった。

 別々に行動していた禄仙子とは食堂で待ち合わせ。こちらはなめた鰈の煮付け、向こうは鯖づくしの定食。どちらもむやみに量がある。酢の物盛り合わせまで頼んで、普段ならこのコンビ、ぐだぐだと呑み続ける状況ながら、生ビールは一杯のみで切り上げる。お察しのとおり、次なるえんぶり披露に間に合わせるためである。

 場所は八戸市庁舎前の広場。元は南部の殿様にご披露したものなので「御前えんぶり」と名前が付いている(今は殿様の恰好に扮した市長が見物する)。この頃にはすっかり晴れ上がっていた。親方の唄(歌詞はさっぱり不明)が青空に立ち上っていくという感じがめでたい。

 この後、晩飯まではまたも自由行動。禄仙は銭湯に行く、と言う。鯨馬はその間も街を回って、あちこちで行われるという門付けを見ていた(後で聞けば、銭湯の中にも門付けが来て、湯上がりの禄仙、当分出られなかったらしい)。新羅神社、または一斉摺りの時ほどの迫力は無いにしても、門々(本当にあちこちでやっている)から囃子の音色、太夫の口上のひびいてくる風情は格別。どこかの信用金庫での門付けを横から見ていると、窓口の向こうでは男性の行員が直立し、謹直な表情で摺りや大黒舞を見ているその後ろで他の行員が一心不乱にパソコンをたたいてる光景が可笑しかった。ま、門付けが来るたびに全員手を止めてたんでは仕事にならんわな。

 続きましては更上閣なるお屋敷での「お庭えんぶり」。庭を鍵の手なりに囲む座敷・縁先に座布団を並べたところで観賞するという趣向。距離が近く、しかも解説が付いているのでゆったりと見られる。豊年を予祝する儀礼だから、激しく烏帽子を振ってジャンギなどで地面を摺る動作は、田の神を眠りから呼び覚ますため、という説明になっている。それに違いはなかろうが、庭のかがり火に照らされながら摺る太夫の所作を見ているうちに、なんとなく太夫その人もまた、「まれびと」として田を祝福しに降り立った神なんだな、と思った。あの厳しくも麗しい目つきは、そう神のものだったからなのだ(と妄想)。二組の摺りを見て、せんべい汁・甘酒、それにお土産の菓子までついて二千八百円は安かった。

 ホテルで小憩してるあいだも頭に囃子が鳴り続けるくらい堪能したのですが、まだこれで終わりではなかった。晩飯は昨日のリベンジでみろく横丁『ととや烏賊煎』。みろくのなかでは大構な店で、鯨馬も初見参。禄仙と二人、「いや結構でしたな」などと地酒をあおっておりますと、またしても門口から囃子の音が。

 思いついた鯨馬、女将さんに「門付けはこちらからお願いしてやってもらえるものなんですか」。「もちろんです。内容はご祝儀の額によって変わります」。

 何ぞこの機会をみすみす逃そうか。女将さんの助言通りに親方に些少ながらとご祝儀を渡すと、がらっと戸口を開けてえびす舞・大黒舞・摺り納めを披露してくれた(えびす舞が巧者でよかった)。他の客がきゃあきゃあと言いながら撮影してるのを横目に杯を含んでいるのは、なんというか、クラブでシャンパンタワーをおごったみたいで、たいそう気分が良いものでありました。

 『烏賊煎』で食べたものは、
○烏賊そうめん・・・特になんと言うこともないが、しかしやっぱり旨い。
○なまこ刺し・・・「なまこ酢」ではなくて刺身。山葵醤油で。酢を吸ってないぶん、こりこりしている。
○モウカのホシ・・・モウカザメの心臓の刺身。ゲテモノのようでさにあらず。こんにゃくのような食感で至極あっさりしている。ニンニク醤油で食べる。
○姫ニンニクの天ぷら・・・根っこと茎も付いている。品よい甘さ。香りも穏やか。
○北寄貝の炙り・・・一切れで一合いける。うまみの塊。

 二軒目のリクエストを訊いてみると、「もう一回『鬼門』に行きたい」とのこと。当方もそう考えていたところ。カウンターの端っこに入れてもらい、独活の酢味噌・鮟鱇の共和え(あっさりしてるようで充実しており、脂ぎっているようでくどくない)・そしてまたあの驚異の白子なぞで八戸最後の夜を惜しみつつ呑んだ。仙台まで新幹線で戻る禄仙とは『太助』の蕎麦でお別れ。

 翌朝。どうにも立ち去りがたい思いで本八戸駅に向かっていると、おお、ああ、またしても囃子の音が。一目惚れしたときみたいに心臓がキュンとなる。音のしてくる小路に駆け込んでみると、内丸えんぶり組が近所の店に門付けしていたのだった。何と御名を申し上げればよいのか知らないが、「八戸の神」の指先が当方にそっと触れたように感じた。

 来年も行く。有給を使いはたしてでも、親を質に入れてでも、行く。