文武両道

  神戸は、紅茶の消費量が日本一多い街だそうな。紅茶好きとしては慶賀に堪えないところである。
  「鯨飲」とタイトルにはうたっているが、酒と同じくらいのお茶好き。紅茶だけでなく日本茶もふだんづかいのほうじ茶、食事用の玄米茶、もちろん煎茶、時間がある時に楽しむ茎茶、玉露と取りそろえている。中国茶も二三種類。ハーブティー。「茶」ではないが、コーヒー豆も北海道の専門店から焙煎したてを二種類送ってもらっている。「添乗員付き」の飲み屋さんの勘定は除けて、自宅で呑む酒だけで考えれば、茶葉への出費のほうが多いかも知れない。
  「口腹の楽しみは結局茶と果物にきわまる」と言ったのは、たしかイギリスの文芸批評家で、エピキュリアンとしての生き方を貫いたシリル・コノリーだった。身辺から酒瓶を廃して苦茗(お茶の別名)をすすることに無上の喜びをおぼえるほど悟りきってはいませんが、それでもていねいに淹れたお茶を呑むのが愉悦ともいえる経験であるには違いない。
  先日はダージリンのファーストフラッシュ、つまり春摘みを二種類もとめた。
  紅茶では断然ダージリンを好む。シャンパンにたとえられる高貴な香りは、やはり他の産地の茶葉では期待すべくもない。そしてダージリンの精髄は秋に摘んだ、成熟した茶葉においてこそ味わえる。つまり春摘みには少し不満がなしとはしないのだが、底が浅いものの軽く舞い立つ香りの華やかさ・爽やかさは、一年のうちわずかにこの時期しか味わえないこともあって、なかなか見過ごしもならないわけである。
  買ったその日、行きつけの寿司屋で飯を食い、のれんをおろした後、主人にも少しおすそわけして二人で味わう。だからこの日はアルコールは控えめ(いつもはお銚子がえんえんと立ち並ぶ。寿司屋の客としては下品だが)。
  春摘みの紅茶なんて初めてという女主人曰く、「夢を見ているような味だわ」。たしかにそれくらいに繊細な甘みと香りだった。
  酒も呑まず、あまっさえ紅茶のカフェインで目は冴えている。翌日はおあつらえ向きに休みである。こんな日は徹夜で読書に淫するに如かず。御贔屓ジュリアン・バーンズの『イングランドイングランド』、『イエスの遺伝子』、それにネビル・シュートの『渚にて』を朝までかかって読み上げる。小説ばかり読んで徹夜というのも近頃には珍しい。
  バーンズは知的な趣向がまずは売り物の作家だが、小便くさいポストモダニズムの連中とは違う。何よりも面白く読めるのである。本作では、「王室小説」の趣向が巧まれている。
  そういう名称があるかどうかは知らないが、イギリス(正確にはイングランド)の作家は英王室を題材に奇想天外なフィクションを繰り広げる伝統がある。最近の作では、エリザベス2世が小説にハマったら、という設定のアラン・ベネット『やんごとなき読者』がよく売れている。ミステリ作家ではP.ディキンスンに『キングとジョーカー』、これは一度ご自分でお読み下さい。とんでもない小説であることは保証します。
  バーンズの作でも、エリザベス2世逝去後(この設定からしてすぎごい)の国王夫妻が登場するのだが、二人とも浮気している。のみならず国王はどうしようもない無能としても描かれている。国王の従兄弟はベッドで3Pというシーンをスキャンダル新聞に撮られてしまう。その新聞社の記者を載せたヘリコプターを、国王護衛の軍用機が(ミスからとはいえ)撃墜し、記者その他は全員死亡・・・・。
  イギリスは成熟した国である、と感嘆せざるを得ない。
  さて小説では王室ネタは、実のところ脇筋であって、趣向の中心は、伝統的な“メリー・イングランド”のイメージを全面に押し出したテーマパークの建設を、誇大妄想狂の富豪が思いつくことから始まる、「イングランド偽史」である。わくわくしませんか?
  第三章が駆け足に過ぎてコクが足りない憾みはあるが、これ、読んで損はしません。
  『渚にて』は人類滅亡テーマSFの古典。小学生の時、「滅亡」の二字に心躍らせて(踊らせないような小学生がいるだろうか?)手に取ったのを覚えている。そのときはやけに地味な小説と思ったばかりだったが、今読むとこれだけ動きのない物語でよく描ききったなと、逆に感心する。滅亡を目前にしてパニック状態になるばかりが人間性の真実ではないだろうし、ある意味そのような設定は想像力の怠惰とさえ思えるのだ。
  『イエスの遺伝子』は、もしキリストの遺伝子が残っていたならばというこれも荒唐無稽な発想(これはほめ言葉)から書かれた小説だが、例によって例のごときキリスト教秘密結社モノ「まがい」になってしまうところが結局の所、興味サクゼンたる感じ。まあ、このプロットでは出さないわけにもいかないだろうが。ちなみにいっておくと、『ダ・ヴィンチ・コード』よりは五年前の出版である(さらにちなみにいっておくと、ぼくは新刊の小説は基本的に買わない。ケチだから)。
  純粋な教義のことはおいていえば、とはつまりグレアム・グリーンイーヴリン・ウォーのようなカトリック作家(両方とも大好きである)とは違った意味で、カトリックというのは小説になるなあ、というのが読後感であった。浄土真宗秘密結社!では、やはり売れないでしょうな。『聖☆おにいさん』という力業もあるにはあるが(これはマンガ)。
  で、本日の結論。「王室小説」的なギャグ満載のストーリーで、教皇庁を徹底的に洒落のめした小説が出たら売れるのではないか(あればどなたかご教示下さい)。