烏賊と鱧とプルーストと

  一緒に呑んでいても、一定の酔い加減になったら、飄然とかつ決然と帰ってしまう人がいるが、今年の梅雨明けはそんな感じでした。

  シーツからソファのカバーから全部洗濯し終え、凛然として東山市場に向かう。活けの蛸が無いかな、と思って見て歩いていたところ、贔屓の魚屋から「鱧安うしとくで」との喚び声。ううむ綺麗な鱧だ・・・夏祭りの時季ではあるしな・・・これにしましょう。「にいちゃん、鱧おくれ」。「骨切りしとくから、その間によそ見てきたら」「いやそのままでええねん」。

  今日は自分で鱧を料るつもりなのであります。あとはこれもぴかぴかの大きな剣先烏賊を一ぱい買って帰る。

  午後いっぱい、山形孝夫『聖書の起源』、高階秀爾肖像画論』、ペインターのプルースト伝を読みふける。山形氏の本は、オリエントの神々とのつながりから聖書の成立を見るという試み。「治癒神イエス」という概念が面白い。ギリシアのオリンポス神族における医療神(アテネやアポロ)を追い落とす形で興隆してきた医療神アスクレピオスを、さらに駆逐したのが「治癒神イエス」だという。しかもアスクレピオスがもっぱら外科的な治療に長けていたのに対し、イエスは癲癇など、内面的(と考えられていた)な病に焦点を当てたことにその「勝因」があるという。刺戟的な論考であった。
 
  古代異教の神々とキリスト教との抗争という主題は、何故か性に合うらしく、ウォルター・ペイターの『享楽主義者マリウス』を初めて読んだ時は驚喜した。メレジュコフスキーの『神々の死』をえらく古めかしい訳文に難渋しつつ読んだのはたしか中学生の時である(辻邦生の『ユリアヌス』はいただけなかったが)。ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』が今以て個人的な《小説のオールタイムベスト》上位から動かないのも、この主題を重ねて読んでいたからかもしれない。

  高階氏の本とプルースト伝は、ひたすら楽しめる本。前者に収められる図版の数々を眺めつつ、自分の印象派嫌いを再確認。後者は『スワン家の方へ』や『楽しみと日々』や『ジャン・サントゥイユ』の頁を逍遙しつつの読書でなかなか進まない。気がつけばうとうとしており、夢と現実を行きつ戻りつの午後だった。

  さて夕方。洗濯物をとりこんで鱧と烏賊に取り組み始む。開くところまで処理してもらった鱧の中骨を外す。これは意外に簡単にいった。あとは腹骨をすきとって、背びれを取り去る・・・のが難物であった。

  じりじり。ごり。じり。ごり。じり。ごり。汗たらり。

  堪へがたければわれ空に投げうつ鱧の骨。剣先のゲソもそこに閃きつ。

  と伊東静雄的世界を展開したくなるのをじっとこらえて包丁をすすめていく。ここを超えれば、骨切りの作業は楽である。しゃりしゃりと包丁から伝わる《涼しげな手応え》は快感に近い。

  身の半分は椀種に置いておく。残り半分は「おとし」に(ちなみに最近食べ物屋では「鱧ちり」とか「鱧の湯引き」とか言うが、元々関西ではそんな呼び方をしてなかったはず)。味はもちろん梅肉。酒で梅肉をゆるめる。今季の初鱧ということで、残り数少ない十年物の自家製梅干しを一つ使用した。剣先はそのままつくりに。

  冷酒がすすむなあ。牡丹鱧のお椀は、鱧の頭と中骨と昆布で出汁をとり、オクラを塩ゆでして小口に刻んだのを添えて、青柚の皮を吸い口に。

  飯のあと、さっとシャワーを浴び、着物に着替えて祇園祭へ。久々にのんだひやしあめがおいしかった。幼き頃の夏の記憶がいっぺんによみがえってくるような味である。これぞわが《マドレーヌ》か。