あまくち からくち

  南瓜が安かったので久しぶりに炊いた。

  一度書いたが、夕飯では主食のたぐいを食べないので、どうしてもごはんのおかず的な献立は少なくなる。コロッケやカレーは数ヶ月にいっぺんも作るかどうか。そもそもおかず的な味付けが苦手。豚キムチと肉じゃがと豚生姜焼きとが(たとえば居酒屋などで)出て来るとげんなりする、三大げんなりメニューである。この南瓜にしても、ふつうに炊いたのでは酒の肴にはならない。そこで一工夫することになる。

  南瓜はふつうの煮物よりもこころもちこぶりに切る。切って鍋にいれ、いきなり砂糖と塩をまぶし、表面がしなっとするまですり込む。砂糖の分量は・・・量ったことがないのでわからない。南瓜四分の一個に、さあ、小さじ一杯もいれてるだろうか。もっとも酒飲み用に甘味は控えてある。塩はひとつまみ強くらい。

  カマスの干物でいっぱいやっていると、南瓜から水分がしみ出してきている。これをこのまま極弱火でゆっくり加熱していく。水は一切入れない。南瓜の水分だけで蒸し煮にしていく。呼び出しに酒を少々ふりかけてもよい。なるべく鍋は動かさず、形を残したまま炊きあげる。

  まだ完成ではない。ある程度冷めてから露生姜を落とす。しのび生姜よりはもう少しきつめ加減で。最後に胡麻であえる。黒胡麻をよくあたったもので和えたらややよそいきの小鉢に、白の切り胡麻で和えたら家庭向きかな。

  それでもこちらの口にはまだ甘い。うーむこれはどうも焼酎のほうがよさそうだ。

  酒の相手は、はじめ『アドルノ 文学ノート』だったが、これはアドルノの著作すべてにいえることで、超辛口。読んでいるうちにこちらの神経までひりひりしてきたので、塚本哲也メッテルニヒ』(文藝春秋)に切り替える。

  新聞記者(乃至は元新聞記者)の文章は好きではない。悪達者で、妙に愛想のいいところがもう一歩つきあいきれないのだ。平易というのと平俗とは違うだろう。本評伝も、まあ、南瓜の相手に丁度良かった。世界史の人物でもっとも好きな一人はタレイラン(あとは蘇軾とアッシジのフランチェスコ)なので、ウィーン会議でのメッテルニヒタレイランの虚々実々の駆け引きをもう少しこってり書いてほしかった。

  贔屓の目からすれば、メッテルニヒタレイランに比べて役者の格が一段落ちるといわざるをえない。それでも興味津々で読みとおせたのはやはり十八世紀という時代の魅力によるところ大だろう。


  さて、十八世紀は甘口なりや辛口なりや。ブーシェフラゴナールの絵の印象をもってすれば甘口か。しかし彼らとともすればひとくくりにされやすく、しかし内実はまったく異なるワトーの絵はすでに苦みを、とはいえロココらしく軽い苦みを含んでいる。

  ちなみに言えばロココの哲学者の王・ヴォルテールは、熱狂的なコーヒー好きだった。