夏を撃つ

  詩人有田忠郎に、「セヴラックの夏」という一篇がある。十節あるうちの、最初の一節を引く。



  夏は広大な音楽をつれて少しずつ傾いてゆく

  ピレネーの秋の訪れ そのひそやかさ 迅速さ
  (それは夏の大気の微粒子にかくれている澄んだ刃のようなもの)
  八月がなかば影にひたされるとき
  高原は海よりも芳香をはなち
  草刈りびとの利鎌のさきから淡いしぶきが飛びたってゆく
  熟したひかりを鱗粉のようにまぶして



  多田智満子さんの、これは夏の詩ではないけれど、「川のほとりに」の最終節にも、次のような一句がある。


  そしてどちらの岸から
  わたしは見ているのであろうか
  へさきにとまった蜻蛉が うすい翅で
  広大な午後の重みを量っている

「なかば影にひたされ」た八月の、午後から夕暮れにかけては、まことに「広大な音楽」が鳴り響いていると形容するしかない、豪奢な頽落の気配が感じられる。

  一日の終わりと季節の終わりとが入れ子となって照応しているからだろう。おなじ四季でも晩春や晩冬ではこうはいかない。頽落はその前提としての生命の充溢を要請する。とすれば、夏の終わりの音楽がひとしお身にしみるのは、こちらも生命力の絶頂を過ぎて「油のような空間を/やさしい死へと漕いでゆく/夜明けも夕映えもいちどきに見た」(同氏「蝉」から)年齢にさしかかりつつあるからかもしれない。

  ・・・・などとしおらしいことを言っていますが、半ばは嘘。今年は夏の休暇が八月の最終週にとれたので、夏の終わりがことさらに華やいでみえるというだけの話。もっとも、東門街で呑んでると、「夜明けも夕映えもいちどきに見」ることも無しとはせず。

  先日、大学時代の先輩と後輩が、学会のついでに拙宅をたずねてくださった。おもてなしは以下のごとし。お客をするのは久々だったので、しかも当日はこちらも仕事があったので、品数も少なめ。

  ?たこのサラダ(パプリカ・バジル・トマトをチーズ、ワインビネガー、オリーヴオイル、塩胡椒で和える)
  ?鱧のフリッター(メレンゲにも塩を入れていたのを忘れて鱧に味を付けてしまったので、しょっぱすぎた)
  ?カジョス(ハチノスのトマト煮込み。一番好評であった)
  あとはぬか漬けや茶豆やチーズ、果物など。イタリアワインを抜いての久々の語らいはそれこそ明け方近くまで続いた。

  翌日は朝から歯医者。昼からは水槽のメンテナンスで一汗かいた後で昼寝。目覚めれば、おお、「広大な音楽」が空いっぱいに響いているではないか。宴じゃ宴。とばかりに、例の近所の「鯛屋」に晩酌の肴を仕入れに行く。

  「鯛屋」は休店日前のタイムサービスで全品二割引。朝からほとんど何も口にしてなかったこともあって、興奮してあれこれとカゴに入れてしまう。当日の夕餉の献立は以下の如し。
  
  ?天ぷら(しらさえび、剣先烏賊、オクラ、ししとう、マッシュルーム、なすび、茗荷)
  ?剣先烏賊、大羽いわしつくり
  ?小鯛笹漬け
  ?真魚鰹塩焼き(青柚の皮をおろして)

  これで冷酒をやる。しらさえびの頭は素焼きにして茄子と炊く。これはうんと冷やして明日の冷酒の肴とするつもり。

  酒の対手は、紀伊国屋BOOKWEBから届けられたばかりのRomantic Poets,Critics,and other Madmen。著者チャールズ・ローゼンは現役のピアニスト。知識人としても有名で、近著の『ピアノ・ノート』(みすず書房)はかなり話題になったはず。その訳者後書きで、この本に言及しており、なんでもエドワード・サイードがほめていたとのことで、さっそく注文に及んだのである。日付がかわっても読みふける。どうせ明日も明後日も休みなんだから。