豊後 湯のたび(三)

  日田着はまだ十時半。観光客など誰もいない。駅前でレンタサイクルを借り、ホテルに荷物をあずけたあと、まずはお目当ての咸宜園に向かう。

  咸宜園は江戸後期の儒者・広瀬淡窓の私塾で、入門者は八十年で四千八百名にのぼる。数もすごいが、教育方針もまた開明的で、咸宜、すなわち「咸(みな)宜(よろしい)」を方針に、身分や年齢を無視して入門者は平等に扱った。「いわばわが国最初の市民自由大学である」とは故・種村季弘さんの評言である。

  以上のようなことを(種村さんのことばを付け足したのはぼくだが)諄々たる名調子で語ってくれたのが、咸宜園の案内のおじさん。客は当方ひとり。ただでさえ気のさす状況ではあり、しかも話の内容は『論語』だの『孝経』だのが出て来る、いたってオカタイもの。すっかり辟易・・・といいたいところだが、こちらは大学・大学院と都合十二年(!)を、江戸の学芸にしたしんで過ごしてきた学者のなりそこないである。にこにこと気持ちも鷹揚に、うなずき、相づちをうつ。ふと見るとおじさんは目をつぶって名調子を続けているのであった。

  ひとくさり説明が済むと、いたってあっさりしたもので、「後は好きなところを好きなように見てまわってください」。

  というわけで、淡窓の書斎であった遠思楼という建物にあがる。淡窓は漢詩人としても有名で、その詩集を『遠思楼詩鈔』という。つまり、淡窓の詩の大部分はこの部屋で作られたというわけ。さすがに感慨深い。けれども絶句の一首も口をついて出てはこないのが、末世の学徒(くずれ)とはいえ、大いに慚づるところである。

  ここは建物とその遺構しかないので、豆田町にある廣瀬資料館へと向かったが、こちらでも、殿様より拝領の南蛮皿や時計などの豪商廣瀬家の遺品ばかりで、それ自体は興味深いものの、こちらがあてにしていた、淡窓やその弟の旭荘(これも中国人からも「日本第一」と讃歎されたほどの詩人)の詩稿や書簡などはほとんど展示されていない。とはいえ、そうした資料はきちんと保存されているとのこと。あいにく当方は飛び込みの旅客であって、すぐに拝見できるはずがない。

  少し閑そうな館長さんや学芸員さんと話をする。「旭荘の全集は二十年かけて刊行されてますが、同じように淡窓の全集も新版で出ないものですかねえ、日記を通読したいんですが」。「旧版は古本屋にもなかなか出ないからねえ、出てもとんでもない高値がついてるし」。また、淡窓の実家である廣瀬家のこと。「よほどしたたかだったんでしょうな」とは館長さんのコメント。「でなければ、あの時代に身分も年齢も問わず、なんて教育方針でお上からつぶされずに続いたはずはないですものね」。ぼくは、こういう商人のしたたかさを深く尊敬する。

  資料館を出るとちょうど昼どき。『いた屋』という老舗のうなぎ屋に入り、天然鰻のせいろ蒸しを頼んだ。町のいたるところに水路をめぐらせている「水郷」だけあって、うなぎや鮎などの養殖も盛んなのだ。翌朝ホテルを出て歩いていると、川魚問屋のトラックの荷台から鯉が撥ね出て、アスファルトでびちびちしているのを見かけた。

  それにしても暑い。由布院を出るときに、旅館の人から「あすこは暑いですよぅ」と脅されていたが、いやたいしたものである。町中にカーンと音が響きつづけているような暑さ。町外れの琴平温泉というところまで自転車を漕いでいったときには、汗みずくになっていた。

  このお湯は、谷川のすぐ横にあって(浴槽は作った物だが)、おおげさではなく、手を伸ばせばさわれるような近さにハヤかなにかの小魚が群れて泳いでいるのだった。ここでもまた別天地気分を満喫する。

  晩は和食。とくにコメントすることもなし。ただここで椿事発生。「神戸から」と言ってえんえん呑んでいると、横にいた、いかにも遊び人という風体の40がらみの男から、「神戸牛といってもたいしたことない」と言われる。いやこちらは牛肉にはさほど興味もなし、ここで愛郷心が刺戟されはしませぬ。

  店の主人から、日田では有名な焼き肉屋の主人だと教えられる。九州の牛の最上等のやつを何度も競り落としていることで評判が高いとか。

  なるほど、ときいてさらに飲み続けていると、「おもろいやっちゃ」と(むろん本当は日田弁で言っているのである)呑みに誘われた。今回の旅では夜遊びはしないつもりだったが、これもまた一興、と尻軽に誘いに乗る。一軒目に連れて行かれたスナックは、ママも客もすべて知り合いというお店。ひとしきり日田の交友関係についてお勉強し、次の店にうつる。ここは倉庫か体育館かと思うような、天井の高い店で、老夫婦がやっている。バーボンを飲み過ぎる。

  翌朝、二日酔いのまま汗だくになって、自転車を駆り日田の郊外まで。ごちそうになった焼肉屋社長の店に行くためである。サービスしてくれた特上のロースは、文句なしの甘み。しかし三十六才にもなると、悲しいかな、牛肉はこれほど上等であればあるほど、量がいけない。あつくお礼を申し述べて日田を出発する。

  帰りのフェリーはひたすら眠るのみの旅でありました。