悪の研究

  十月四日は「古書の日」だそうで(なぜこの日なのかは分からぬ)。

  それに合わせて古書市があちこちで開かれている。関西だと、四天王寺大阪天満宮、谷町古書会館。たしかに、いい季節だしなあ。秋気澄明の下、古書をあさるのは無上の快楽である。

  とはいえ、こちらもお酒を飲んだりぬか床かきまわしたり、水槽磨いたり、そして何より買った本を読まねばならぬ。古本市ばかり廻ってるわけにはゆかぬ。

  というわけで、このシーズンでは谷町の古書会館の市のみに行った。その前には天神橋筋の天牛書店に立ち寄っている。四天王寺や天神さんの古書市は、こちらが何度も足を運んできたためだろう、品揃えや価格がなんとなく予想がついてしまい、失礼ながら索然とするところがなきにしもあらず。古書会館は二回目だったので、まだまだ目新しい。じっくり時間をかけて見て回る。

  アンドレ・シモンの『美食事典』(英語版)1200円、ホーソンの『呪われた館』(原題は『七破風の家』)100円、などなど、ぼくにとってはウレシイ買い物が出来た。中に就いて掘り出し物の筆頭を、政治学カール・シュミットの『陸と海と』(福村出版)100円(!)とする。

  この「危険な」思想家は、政治にも政治学にも関わりが無く、むろんヒトラーの思想に共鳴しているわけでもないぼくが唯一その著作を読み続けている政治学者である。

  『陸と海と』を一気に読了し(薄い本なので)、その勢いを駆って書庫からシュミットの本を引っ張り出して読みふけってしまう。『パルチザンの理論』を読み、『政治神学』を読み、『リヴァイアサン』を読む。

  茫としたアタマで考えたのは、このヒトがずっとこだわり続けていたのは《悪》という主題なんだなあ、ということ。『政治的なものの概念』でいう「敵」とは《悪》と読み替えてもいいのではないか。これは、シュミットが《悪》の具現化そのものと言うべきナチスに協力していたという事実を指して言っているのではない。それにしても、キリスト教を背骨に持つヨーロッパの人間は、こういうときトクだよなあ、というのが感想の第二。

  なぜそんなことを考えたのか。

  十年来あたためつづけている小説の構想があって、そこでは《悪》が重要なファクターになっているからだ。もう少し具体的に言えば、この「いまだ書かれざる傑作」(お笑い下さい)はある架空の国の崩壊をテーマにしているのだが、《悪》というモメントを崩壊と結びつけれらないか、と悩んでいるのである。

  小説においては《悪》は描けない、描くということはそれを内側から理解するということであり、理解されたとたんにそれは「絶対的な外部」の特質を喪ってしまうから、というのは丸谷才一の説。スタヴローギンがいるじゃないか、と思うヒトもいるでしょうが、あの超人的な悪人は、丸谷さんによれば、理解を超絶していて、小説のキャラクターとしては生きていない、ということになる。

  いわれてみるとたしかにそうだ、という感じがする。これは小説に限らず、マンガでもアニメでも事情は同じで、はじめは絶対的な《悪》として登場した敵役が、話が進むにつれて、「なんとなく感情移入できちゃう」存在に落魄(と言ってもいいだろう)してしまうのはよくあるケース。そうした《悪の人間化》を極端におしすすめたのが、故(とつけなくてはいけないのが悲しい)栗本薫の『魔界水滸伝』や『グインサーガ』で、この二作においては、究極の《異類》ともいうべきクトゥルー神話の神々とすら「対話」が成立してしまっているのである。

  だから原理的には《悪》は描けないとしても、キリスト教を持ち出せば一応の格好はつく。そのもっとも通俗的な例は『エクソシスト』や『コンスタンティン』といったオカルト映画に見いだせる。ぼく自身はキリスト教とは縁遠い人間で、「原罪」だの「贖い」だのと聞かされるとうんざりするほうだが、この、いわば《悪》の存在論的根拠を与えてくれるという一点では、キリスト教をもつヨーロッパの文明がうらやましい。
  

  まだまだぼくの「大」小説は完成しそうにないのであります。