生々流転

 退勤時間をまちかねるように、カバンをひっつかみ、電車に飛び乗る。
 行き先は、さんちかホール。古書市の初日なのである。会場が閉まるまであと一時間足らず。しっかり見て回れば二時間くらいはかかるはずである。そこで、作戦をたてた。文庫・雑誌の類は一切見ない。立ち読みもしない。自分が踏んだ値付けより二割以上高かったら即座に買うのを諦める。
 古書などという、どこか時間の流れから切り離されたような世界には似つかわしくない慌ただしい買い方だが、今回は仕方がない。こちらの休日に来ればもちろんゆっくりと見て回れるのだが、それでは何日か後になってしまう。初日独特の熱気(客のほうとしてはウブい棚を目で掘り崩していく快感、店側としては、どれだけの売り上げがあがるかという期待感の化合物)に浸りたかった。
 さて、このような短時間ながら、成果は十分。イギリス文学の研究・批評を中心に十数冊。中橋一夫「道化の宿命」とエリザベス・シューエル「ノンセンスの領域」(高山宏訳)を思ったよりも廉く手に入れられたのが一番の収穫か。
 この二冊は、同じ箱から釣り上げた。箱まるごとがイギリス文学系統の本、それも研究書とおぼしき、ややカタイ書名が多い。
 英文畑の学者だったのだろう。亡くなった後、遺族はたいてい故人の蔵書をもてあます。そしてたいていはこうして「処分」される。
 以前、三宮随一の繁華街を入ってすぐの所に、二階建ての建物で営業していた古本屋があった。「古本屋」というより「古書店」という感じの風格の店だった。重厚な研究書が天井一杯まで並べられ、関西の古本屋では珍しく、洋書もたくさん扱っていた。
 ある時、なにげなくのぞいて仰天した。こちらが関心を持ち始めていた、西欧修辞学の歴史・理論の研究書が棚一杯にならんでいる。持ち金ではむろん足りない。貧乏学生のこと、預金の残高でも間に合わない。あわてて親父と交渉し、なんとか分割払いを了承してもらって、棚の大半を引き取った。
 よほど嬉しかったのだろう、当時の日記には、蔵一つ分にもなる中国の学者の著作を手に入れて驚喜した江戸時代の儒学者の口吻をまねて、「天の寵霊」と記してある。
 ナントカ文庫という名前を付けられて大学の図書館に寄贈されるより、よほど素敵な「処分」である。現にこうして手に入れた方はほくほく顔だ。本にしても仕替えをとってさぞかし気合いが入っていることだろう。
 こいつらはどこで「二度の勤め」をするんだろう。我が家の書庫で、ときおり、そう思う。