人はなぜ大樹の陰によるのか

  日曜日、元教え子のまる。夫妻と三宮で昼食。しばらくぶりにタイ料理『バーンタイ』に入った。汗をかきながら烏賊の炒めたのや海老の春巻などを食べる。そのあとは『マリアージュ・フレール』でお茶。お互いの仕事のことなどを話す。奥様は今度『アタック25』に出演されるとのこと。見事エーゲ海クルーズを獲得して下され。


  夫妻と別れて、ジュンク堂書店で何冊か本を買った後、鯉川筋を西に入った所にある竹中大具道具館に入る。『ベルギー木の匠の技』展を見たかったのである。西欧の木造建築の伝統というものは、あたりまえの話なのだが、日本に比べてより早く衰微した。従って「失われた技術」の考証という性格のつよい展示だった。面白かったのはむしろ、常設の展示品の数々。釘をつかわずに材をつなぐ継手や組手の精巧に目を見張り(大工は立体幾何学の素養がないとこうした仕事が出来ないのだそうだ、これもいわれてみれば当然の話だが)、いま見てきた西欧の大工道具と日本のそれ、中国のそれ(も展示している)を見比べるのも興味深かったが、なによりの収穫は一階の展示ケースにならんだ、名工たちが鍛えた大工道具の名品の数々。とりわけ千代鶴是秀作の鉋や鑿があったのは嬉しい不意打ちだった。

  千代鶴の名を初めて知ったのは、斉藤隆介『職人衆昔ばなし』(文春文庫。一読をすすめます)だった。昔の職人は、なべて千代鶴の作った道具を持ちたがったそうな。なるほど、冴え返った刃の鋭さには、勁(つよ)さと同時に優美な繊細ささえ感得されるほどである。じつにすばらしい。しかし、ナントカに刃物とはいうけれど、刃物をながめて陶然としている図は我ながらかなりアブナイものである。

 ミュゼを出た北隣にスコーンのお店があるとは知らなかった。ベリーとホワイトチョコ、三種のナッツの二つを買って家に帰る。

  さて唐突ですが、東山市場から我が家に戻る道沿いに、榎の大木が二本、見事な樹容をみせてくれているところがある。歩いて戻るときでもバイクで戻っているときでも、ここを通ればいったん止まって見上げている。いまは若葉がことにうつくしい季節だけれど、大樹はいつの時候でもそれだけで見るにたえる。

  なんの話かというと、たまたまジュンク堂で買った一冊の中に、講談社学術文庫に入ったフレーザーの『図説金枝篇』があり、竹中大工道具館でみたオークの大木の写真とこの本の「樹木崇拝」という一章の記述が、天王川の榎へよせるわが親炙(畏敬?)の念をなかだちに、うまく符合したというわけ。このフレーザーの大著は、従来の岩波文庫版(永橋卓介訳)は訳文が生硬でとても通読できたものではなく、かといって分厚い原書を手に取るのも面倒、というわけであちこちを拾い読みした程度に過ぎなかったのだが、学術文庫(吉岡晶子訳。単行本は東京書籍から、一九九四年刊)は読みやすい。あまりに面白く、文庫では省略されている(原著の抜粋なのだ)箇所を、原書と岩波文庫を引っ張り出して読み継ぐ。

  自分の中の「原始人」的心性が明快に解きほぐされているような、つまり民俗学の論文を読みつつも同時に自分が精神分析を受けているような、ケッタイな感銘である。昂奮したまま紅茶を淹れ、スコーンをあたため、バターをてんこもりにしてほおばる。海外旅行するなら、絶対にオークの巨木をたずねる旅だな、手始めはイングランドか。ドルイドツアーだ、などと妄想がひろがる。

  この日、他に買ったなかではコンラッド『ロード・ジム』がいちばんの愉しみ。池澤夏樹個人編集の世界文学全集(河出書房新社)はこの巻をもって完結する。おそらくはナボコフの『賜物』とともに桃李をなすと呼んでもいいんじゃないかな。翻訳は贅沢にも柴田元幸さん。

  この本の書評は「双魚書屋通信」に掲載する予定です。だいぶん時間がかかりそうですけど。