幸福の探求

  筒井康隆さんの『漂流 本から本へ』(朝日新聞)は、かなり反響をよんだ連載だった。こちらも本好きとして毎回楽しみにしていた。自分が知らない名作を教えてもらうという実利的な側面もむろんあるけれど、一冊一冊の本の内容が過去、とりわけ少年時代の記憶と結びついて回想されるときの甘美さにとりわけ惹きつけられた。 

  子どもの時期は誰にとっても黄金時代だとはよく言われることだが、読書でもそれは当てはまる。いたずらに美化するのではないけれど、詩人の眼と心臓という魔法の杖を持っていた「あの」頃には、書物の別乾坤にいささかも苦労せず入って遊べた、と思う。その息詰まるような幸福感が、筒井さんの文章の端々から匂い立つ、そこに一読者もうっとりしたのである。

  さて、黄金時代に読んだ本を現在読み返すことで、黄金時代そのものを呼びかえせるだろうか。いってみればお茶にひたしたマドレーヌや中庭の不揃いな敷石と同じ喚起作用を一冊の書物が持ち得るかどうか。「桃源郷は夢見るもので、住んだり行ったりするところではない」とは賢者・種村季弘の教えながら、どの道書物とは現実そのものではなく夢見るものなのだから、わが少年時代の愛読書を再読してみても差し支えはないだろう。

  と七面倒なことを考えたうえでというわけではないが、さる古書店でローリングズの『仔鹿物語』を見かけ、思わず買ってしまった。新潮文庫、山屋三郎訳の上下巻。この二冊、何にもすることがなければ半日で読了できそうな分量をたっぷり一週間かけて読み上げた。

  もうおわかりだろうが、娑婆即浄土、桃源郷の現前というほどの恍惚感ではないものの、十分にプルースト的体験は味わえた、ということである。大熊スルーフット、ハットゥばあさん、せむしのフォダウィングといった登場人物(?)だけでなく、鶴の群舞に主人公親子が見とれる場面や、大水が出て蛇の死骸が道一杯に広がっている場面などの細部も、訳文を追いながら子どもの時の記憶が次々と鮮やかによみがえる。子ども時代に帰ったといっては明らかに大げさだが、幼少のみぎりの自分の背後に現在の自分がぴったりはりついて、彼が眺めるものや彼の感動を、少し曇ったガラス一枚ごしに眺めている、そういう感じ。

  子どもの時に一番昂奮し、このたびもまた同様にうっとりしたのが飲食の記述だったのには笑えた。ムカシから変わってないのであるなあ。


  『仔鹿物語』はアメリカ南部、フロリダの未開拓地を舞台にとっているから、主人公ジョディとその一家、隣人(といっても数マイル離れてはいるのだが)の生活の記述がいきおい、今風にカントリーライフと形容すれば牧歌的にひびくが(「田舎暮らし」だの「カントリーライフ」だの、イデオロジックでいかがわしい語だ)、ありようは今日明日をどう生き延びるか、具体的にはどう食っていくか、とは文字通りどのように食糧を確保するかという、むしろ『ロビンソン・クルーソー』に似た描写が多くなるわけである。小学生は食物の名詞の即物的な羅列に酔った。

  乾ふじ豆とベーコンの白肉の煮合せもの、栗鼠の油揚げの大皿、はこがめと馬鈴薯とたまねぎとでこさえた肉饅頭、甘藷の焼パン・・・・。


  少年がかわいがっていた仔鹿をやむなく撃ち殺し、そのことに傷つくことで大人になっていく、という筋立てはむしろ初読のときのほうが通俗で甘い、と感じられたような気がする。クヌート・ハムスンの名作『飢え』ほど凄まじい描写ではないものの、南部開拓民の生活の過酷さがしっかり書かれているので、そこを背景にして見れば、菜園を荒らす仔鹿を殺さねばならない仕儀にいたるのもリアルに納得できるのである。

  ・・・軽挙妄動、すぐその気になってしまう性格で、この日は読書のあとトアウェストにある蜂蜜の専門店でローズマリーと栗の蜂蜜を買った。なにかと言うと、パンケーキを焼いて蜂蜜をたっぷり、ジューシーに焼いたベーコンとマグカップになみなみと淹れたコーヒーを添えたブランチで、バクスター家の献立を気取ろうというわけ。それにしても、蜂蜜たっぷりのパンケーキを食ってジムでトレーニングか。本格的な病人だな、これは。


  《あの人は今》ならぬ《あの本は今(読めばどうだろう?)》企画(?)は当分続けていくつもり。次は君島久子訳の『西遊記』か、『孤島の鬼』か、それとも・・・・。