もの・イデー・ことば

  以前ちらっと書いたことがあったが、ぼくの長年の野望は「石原版」日本思想史をものすること。勢い、日本思想史・日本文化論と銘打った著作に眼を通す機会が多くなる。多いのだけれども、感服することはおろか、啓発ないし(戦闘意欲をかき立てられるという意味で)反発すらさせてくれる叙述にはめったにお目にかかれない(今回は全部この調子。居丈高な物言いが続きます)。

  いうまでもなくそこにある不満足感とはあくまでも自分にとってのものであり、その限りでは、感覚の根源にある要求の輪郭を明確にすることは、自分の書きたい思想史の「理念」を確かめることにもつながるはずである。

  具体的に話そう。たとえば最近たまたま手に取った本に、前田英樹『日本人の信仰心』(筑摩選書)がある。保田與重郎を大きく扱った、という前書きに興味をもって読み始めたのだが、途中から例の「感覚」がふくれあがり、後半は行文をたどるにさえしばしば行きなずんだという結果に終わった。

  《根源》に下り立つ前に、どういう叙述に齟齬をおぼえたのか。数カ所を引いてみる。


 宣長の言う神の道は、「物にゆく道」であった。神々を助けて米を作り、神々を招いて饗宴を開く生活は、奪い取られる「国」を所有していない。むろん、近代に言う「民族」も持ってはいない。ここに生きる農人たちは、ただ「物にゆく道」を黙って歩く。彼らにとって、米を育てるものは、この道以外にはないのだから。人をそしることも、人と争って覇を競うことも、この道では何の役にも立たない。保田與重郎が『延喜式祝詞』の言葉に見たものは、覇道と無縁の政治、つまり祭事であり、生産生活と信仰との完全な一致であった。「祝詞」の言葉は、そうした一致を記録しているのではない、今を生きる〈原理〉として存在している。(第四章「自然を生きる」)


 日本にあった最も古い信仰が、〈若い〉とか〈幼い〉とかいうことをどんなに慈しんでいたかが、これによってよくわかる。ここで慈しまれる若さには、威圧がない、狡知や権謀や保身の腐臭がない。ただ未来に伸びていこうとする清らかな成長力があるだけだ。何よりも、それをよしとした。それを神の永遠の本性とする信仰に生きていた人々があった。(第七章「神々の在る所」)


 なるほど、この石仏は美しい。聖林寺の十一面観音にも劣らない。そう思うが、その美しさはやはり天平時代のものとは異なっている。天平の豊かな清明は、言葉のない円熟した沈思に深まっている。(第二十章「歴史の風景」)


こういった部分に読み手は非常な空虚さを感じる。しかし問題はその空虚さの質である。これらの文章が実質を欠いた、うわべだけの美文だと言おうとするのではない。ことは前田氏という特定の書き手の癖や『日本人の信仰心』という一冊の書物に由来するものでないので、その説明として白洲正子の数多ある著作をあげることも出来る。

  没後ますます評価の高まりつつあるこの高名な随筆家が日本文化を語った文章に、ぼくは一度も心動かされる思いをしたことがない。その時の気疎さと前田氏の著書に感じる違和感は少なくとも自分の中では通底するものがある。

  先に前田氏の文章が美文というわけではないと言った。では美文とは何か。ここでは殊更に新奇な定義をしようというわけではなく、美辞麗句をこらして、描き出すべき対象を飾り立てただけの空疎なスタイル、というほどの意味である。

 その「対象」が前田氏のように宣長の「神の道」であれ、白洲正子のように十一面観音や熟練の職人の生み出す道具類であれ、とはつまり抽象たると具体たるとを問わず、書き手がそれらの《もの》や《イデー》と、自分とのあいだにある一回性の照応を見いだしたことは疑えない。対象の現象的なありようとしかと見定めた、あるいは自らの観想が根を伸ばして対象の本質を探り当てたと感じたであろうということは疑えない。でなければ、文章は文字通りの空疎な作り物にすぎなくなってしまうだろう。

 言い換えれば、ぼくは書き手に《もの》や《イデー》に対する敬虔さを見出せないと弾劾しているわけではないのだ。見出せない、少なくとも見出しにくいのはクレドの際に用いられることばへの敬虔さである。

 上世の農人の生き方や名匠の技芸に魂が震撼させられ、主観的にはそれと一体化したように感じることがあったとして(繰り返すがそれを疑っているのではない)、その体験を伝えるのにいかにも言語は桎梏の多いきわめて不十分な道具なのだろう。意余って詞足らず、表現者は何度もそう呟いたかもしれない。

 しかし表現者はあくまでも「表現」者でしかない。彼らは結局《もの》や《イデー》に対してはどこまでも外部的存在でしかあり得ない。それは一読者として、作者を裁断しているのではなく、すぐれた「実在」に触発あるいは鼓舞されてヴァレリーのいう「歌う状態」の上空に揚げられた作者みずからが、さてその翼を羽ばたかせようとした途端に感じるあの深い断絶感そのものである。悪夢の中で怪物からにげようとするにも関わらず足が膠の如く地面に張り付いて動かないあの感覚。または頭のうちにこんなにも完璧に響いている旋律を口に出した刹那、無残笑止な音の残骸に朽ちてしまうあの感覚。

 だからこそその虚しい音の残骸を、心をこめて洗い上げる必要があるのだ、と思う。あまりに軽々と振り回されすぎたことばは、ことばの世界では結局それだけのものでしかない。そうではないと言い張るのは胡乱な神秘主義にすぎない。前田氏が何度か言及している小林秀雄ならあるいは例の如く颯爽とした口調で託宣を下すだろう、「そう、自分の書くものはつまるところことばの彼岸にある『物』へ向けた神秘主義的観想だ」と。しかしこの言明は二重に詐術的である。まず、ことばをこえた存在への深い畏敬に満ちた沈黙ではなく「あえて書く」方途をとったことの意味を自分に対してつきつめようとしていないから。そして語り得ぬものをあえて語ろうとする真の神秘主義の言語にだけ見られるあの謎めいた、錯綜し重層し屈折した表現(あえていえば保田の著作には、それは見られるものである)の代わりに、ここにあるのは実のところ、啓蒙的で明快な図式ばかりなのだから。

 大学の先輩で、和歌の資料的研究を専門としていた方にある時こう言われたことがある。「石原くんは大変だね、おれはことばそのものを探り当てれば済むけれど、思想はことばを探って更にことばが述べようとしている思考を相手取らないといけないんだから」。むろん「ことばそのものを探り当て」るのがどれほど困難なことか、こちらもその先輩の博捜ぶりを目の当たりにして痛感させられていた。これは文学研究者の中に混じってひとり野暮ったく近世儒学の文献をこつこつ読んでいた人間を慰めようとしてくれた台詞なのだろう。しかし今にいたってその「大変」さの内実が了解されてきたように感じる。

 まず初めに《語り得ぬもの》がある。この《語り得ぬもの》はしかし、結局の所「語る」ことに依る以外に《語り得ぬ》というその特質を示すことが出来ない。「語らず」という姿勢をとった「思想」家が居並ぶ日本「思想史」の場合、「思想」に係る言説そのものを相手取って言説を構築していくことが困難なので、なおさら《語り得ぬもの》との対峙は避けられなくなる。一方、ことばは語られ出すことで否応無しに自己展開を遂げずにはいない。その結果、鮮やかながら対象に内在する沈黙
の深さを欠いた、惹句の連なりに堕してしまうかもしれない。

 苛立たしい評言が続いた。しかし思想史の始まる“時空点”はこの二重の誘惑のせめぎあう微かな一線の上にしかないと確信している者としては、いわゆる学者=思想史家的なスタンス(※)ではない気構えで書き始めたとおぼしい前田氏の著書の中にその理念をどこまでも探してみたくなってしまう。学者の太平楽ならむしろ、怪物的な博識と偏見をおそれない個性的なヴィジョンで物語られた「グランド・セオリー」のような思想史を俟ちたいものだ。かつてG.スタイナーが、アタナシウス・キルヒャーにたぐえるという、あっといわせる比喩で(すばらしい批評の離れ業)あらたな角度から照明を当てた巨人ジョセフ・ニーダムの中国科学史のような。

※たとえばかつて丸山眞男的な日本思想史の構制の欺瞞をついた子安宣邦氏はあまりにもやすやすと『論語』の注釈という領分に回帰し、同じく思想史の解体を唱えつつもその果てに現れて来るであろう“散乱の光景”を酒井直樹氏は追い詰め、息の根を止めようとしなかった。