長州返り討ち(1)〜水族館のテツガク〜

  大学・大学院で江戸のことを勉強していたから、というのもあまり論理的ではないような気もするが、ともかく心情的に佐幕派。勤王の志士ときくとげんなりするほうで、司馬遼太郎の作にしても、『国盗り物語』と『梟の城』以外は正直敬して遠ざけている(あきれた?「国民文学」にこれだけ冷淡な人間が読書日記を書いてるのである)。

  よって、これまであちこち回ってはきたものの、鹿児島と山口には足を踏み入れたことがない(新幹線で通過したことはある)。会津若松や新潟は楽しんでいるのだから、旅先の好みは幾分筋が通っているといえるかもしれない。

  だから今回の旅にしても、松江か秋田かと思っていたのだが、急に舳先が西に向いたのはこれも俳諧の余徳。といきなり言われても分からないでしょうが、連句(歌仙)を巻いている連衆に、こちらの大学・大学院時代に昵懇を願っていた先輩がいる。号は越村。その越村さん(わたしは越兄と呼ぶ)が山口の大学に奉職していて、こちらの一人旅の話をきいて誘って下さったというわけである。

  長上の命は黙しがたし。長州征伐に向かう老中・小笠原長行の気分で早朝の新幹線に乗り込むこととなった。初めの目的地は下関。鉄道会社の職員にたずねると、「門司まで行ってから引き返すのがいちばん早い」とのこと。別段急ぐ旅でもないけど、ここは言うとおりにまず門司まで行く。駅トイレの造りが洒落ているのに感心した。来る前にはどことなくうらぶれた町、という先入観があったのだが(失礼)、駅周辺にも瀟洒な住宅が建ち並ぶ。

 下関は当たり前だが、右を向いても左を向いても海が見える街である。水好きにはこたえられない雰囲気。ホテルに荷物を預けて、バスで唐戸地区に向かう。巌流島行きの船が並ぶ桟橋を通り過ぎると、巨大なチョコレートケーキのような宏壮な建築が見えてくる。お目当てはここ。下関市立水族館「海響館」である。

  水族館は地方に限る、と言いたい。動物園は真夏の午後にしても冬の夕暮れにしても、いずれにせよ森閑と曝(さ)れた地べたの上で、退屈(にして優雅)きわまる顔つきの獣たちと、彼らに比べて多分に哲学的な雰囲気を欠いた動物(つまりこちらのこと)がお互い見るとも見られるともつかず向きあう間に、無常迅速の風が吹き抜けるその味こそが身上、だからある意味、展示される動物の種類は型通りであるほうがこの味わいは邪魔されずにすむわけである(奇鳥珍獣を眺める愉しみもむろんあるわけだけれども)。

  形而上学的といえば大げさかもしれないが、生命とはまた存在とは、と問うてくる視線がどこかに見え隠れする動物園に対して、水族館は私見(というか偏見)によれば、ひたすら胎内感覚の甘美さを満喫すべきところ、そして大地母神のうしはく領土に参入する手立てとしては動物園とはベクトルの向きを逆にして、《内》に目を凝らすことが重要である。これは内省を謂うにあらず。暗くて天上の低い建物の中に、さらにぽっちりと窓を開いたミニアチュールの世界、つまりは水槽のガラスに顔をくっつけて中をのぞき込むという儀式を通じて、のぞいている我が身もいつのまにか極小の楽土(これをつづめて極楽と言う)にたぐり込まれる、という次第である。

  だから本来水族館の水槽は「大プール」とか称する、馬鹿でかい代物であってはならないのだ。海月や小さな海老がひっそりと躯を動かしているところに目を凝らしているうちに、自分が水に浮かんでいる、あるいは融け込んでいるという想像力の過程が大事なのであって、初めから水でござい、と大波打ち寄せるカタマリを目にしてはならないのだ(それでも何トン?何十トン?という水を目の当たりにして恍惚としてしまうのが癪だけど)。

  目を凝らすためには、ガラスの向こうにいるのがその土地ならではの魚介であるほうが都合がいい。何も天然記念物だの絶滅危惧種だのという、珍魚の類でなくていいのである。一点へ集中するに当たっては、その「場」なり「個物」なりが放射する強烈な特殊・個別性、わかりやすくいえば《ここだけ》性が媒介(メディア=巫女)となる、ということである。

 えらく話がカタくなってしまった。海響館はまだちっとも回れていないではないか。
(この項つづく)


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