長州返り討ち(2)〜龍になった帝とクジラになったおっさん〜

  前項目ではやけに力んでしまいましたが、当日は冬うららという言葉にぴったりの穏やかな晴天のもと、ひたすら楽しんで見て回りしのみ。秋田は男鹿半島の水族館GAOではハタハタ、大分の海たまごでは関サバというように、その土地の名物が一等いい場所をあたえられているのが愉快なところ。むろん下関では、フグではないフクがその座を占める。どの種も間抜け面をしていてしみじみ愛しいが、トラフグ(ク?)の水槽ではびっくりした。いやーあんなにでかくなるものなのですねえ。1メートルはゆうに超えるのではないか。

  こう思ったのはけっして自分だけではないと信じますが、あれだけのトラフグがもし雄だったら、さぞかし白子は食べでがあるだろうなあ、とひとしきり非・魚類学的空想に耽ったことでありました。

  トラザメの卵(中で稚魚が動いているのが見える)やらシーラカンスの標本(ひたすら不気味で迫力あり)やらアオリイカとマナガツオの競演(後者はなかなか飼育しにくいのだそうな)やらシロナガスクジラ骨格標本(全体標本は世界でも稀らしい。圧巻)堪能した。迂闊なことに、地形の模型(潮流がわかるように水が流れている)を見て、下関という街が日本海(響灘)、瀬戸内海(周防灘)の二つの海に接しているのを体感的に認識した。日本ではここだけだもんなあ。豊か、という形容詞が頭に浮かぶ。

  水族館を出ると時分どき。町歩きのまえに腹ごしらえと参ろう。というわけで、食堂に入り、フクのコースを注文する。昼間から贅沢だなあ、と思う向きもあるかもしれないけど、別にてっちりをつついたわけではない。フクの唐揚げにフク飯(てっさをご飯の上に敷きつめ、アサツキを散らしてポン酢をかけ回した丼)、それにフク汁。これに鯖の燻製(塩辛くなくて旨い)を頼んで、ビール一本にコップ酒二杯。飯は減らしてもらったがさすがに満腹で動くのも大儀である。コーヒーを飲んで桟橋でしばしうとうと。何せ日差しが暖かいから。

  まどろみから醒めてまず向かったのは赤間神宮。向かうといっても、海響館からは目と鼻の先なのだが。

  ここは安徳天皇を祭神とする。大河ドラマにのっかって言うわけではないが(見たことが無い)、安徳天皇は歴代の中でも好きな帝の一人である。十善の位にありながら、歴史の大波に引きずり込まれて果てた少年のことを思うと、自然と哀悼の思いがこみ上げてくる。といっても、光厳院や花山院、花園院といった贔屓筋の帝王たちとはちがって、わずか六才か七才で入水した人間に、くっきりした個性が読み取れるわけではない。ただ、むごたらしい死の後、水神(水天宮)として祀られるようになった、その民衆(嫌いなことばだけど)の心性における安徳のあり方がゆかしく、なつかしい。

  どこの文化においても水神(雷神でもあり、蛇=龍神でもある)という神格は、体系化された正統教義からは胡乱なものとして見られがちだが、それは逆に言えば土俗の信仰のあり方にもっとも近いカミということ。その死に方からして、荒れ狂う御霊となってもおかしくない幼帝が、辺地(下関の皆様、ごめんなさい)の民によって、官製の教義体系からはつねにはみ出すような形で祀られることになったことが慕わしいのである。

  何だか今回の旅行記、理を立てる方に傾きがちですな。現場の印象に即して今言ったことを確かめるならば、赤間神宮の威風堂々として俗悪な神殿(竜宮をイメージしたのだろうか)には、そこそこ参詣客の姿が見られたものの、明治の廃仏毀釈以前に安徳の御陵であった阿弥陀寺陵は、神門のすぐ側にあって誰も参る者はいない。教義体系からはみ出すといったのはこういうことである。御陵の目の前には光る海が、その向こうには門司の街並みを前に控えた山並みが連なる。せめて死後これほどの絶景が祝福する地に鎮まることになったことを慶ぶ。心を込めて参拝する。ふと思ったのだが、源氏に追われた敗残の帝王に寄せる同情をしも判官贔屓と呼んでよいものやら。

  その後は赤間神宮内の平家塚に回る。横には耳無し芳一の堂がある。子どものころ、たしか父親がもっていた落語のテープでこの話を聴いた覚えがある(露乃五郎?三遊亭圓生?)。あれはコワかったなあ。 

  椿落つ海の響きや平家塚  碧村

  これは単なる嘱目吟。

  赤間神宮のあとはバスで長府のほうまでのすことも考えたのだが、何度も言うように陽光あたたかく、潮風も心地よい。ぶらぶらと町歩きをすることに決める。どの観光ガイドにも載っているけど、英国領事館や秋田商会などの明治建築が、商業都市の殷賑を思わせる。といっても、明治になってから急に栄えた町ではないのだ。旧街道沿いには、藩時代の陣屋跡を示す碑が立っている。「越荷」(新潟経由の船荷)を担保にして金融で莫大な利益をあげたという。今でもその空気は感じられる。商店街すなわちシャッター街という光景はいずこも同じ日本景気の夕暮、という落魄の風情にしても、町全体としてみれば単に観光スポットだけが白々とそれらしい風景を糊塗しているようでもなくて、しっかり実質のつまった経済が回っているのではないかという印象。

 この印象は駅の西口、グリーンモールと呼ばれる商店街を歩いてみて強化された。ガイドの類は一切見ていないから、何の先入見も持たずに歩いたのだが、ふと見て、まず違和感を覚え、そしてすぐに腑に落ちて、その後は身に馴れた感覚を玩びながら歩く。「下関ホルモン・センター」とか「韓国家庭料理」とか焼き肉屋といった系統の店がやたらと多いのだ。「腑に落ちる」といったのは、こちらが神戸に住んでいるから。つまりは長田近辺の雰囲気を思い出し、次いでやはり下関は釜山に近いのだな、と実感したことであった。それにしてもこれだけ焼き肉屋の数が多い(しかも大半は観光客を当て込んでいないような店作りである)のは、やはり町がそれなりに豊かでないと見られない光景だろう。

  かなり歩き回ったので、昼間のフクもすっかり消化してしまい空腹をおぼえる。このまま焼き肉屋の一軒に飛び込んで、ハラミだのセンマイだのをむさぼり喰うという衝動にも駆られたが、ここは我慢。豊前田、という市内随一(そして県下でも随一らしい)の繁華街を歩いている最中に、よさそうな店を見つけていたのだ。こういう時の嗅覚には自信がある。

  いったんホテルに戻り、シャワーで塵埃を流した後、いざその店へ。名を『くじら館』という。いかにもぞっとしない店名ながら、わが嗅覚を信じて良かった。ここは当たりであった。

  店内はまさしくくじら一色。くじら以外のメニューは無い。ナガスクジラの刺身からはじまって、百尋(腸)やさえずり(舌)、オバイケ(市販のぺらっぺらのものとは違い、ふっくらしている。無論酒のアテには最高)、まめわた(腎臓)、百畳(胃)、まる(心臓)、タケリ(ペニス)、定番のベーコン、本皮と大根煮、竜田揚げなどを次々にむさぼり喰う。いずれも噛めば噛むほど味があり、しかもそれぞれに食感が違うのが愉しい。これが冷凍でなく生だったら、と思うとコーフンする。アングロサクソンの連中はやはり度し難い馬鹿だと再認識する。

  酒は「貴」と「わかむすめ」という対照的な味の地酒を飲んだ。前者が濃醇、後者はさらりとしている。オバチャン二人でやっているのだが、この二人のかけ合いが絶妙。「呑みすぎだ」「呑みすぎだ」と交互に叱られながら杯を重ねる。

  最後は小鍋で、という計画だったものの、さすがにクジラは獣肉だけあって実質がある。つまりこのあたりでもう満腹。さてここらで御帰館・・とは参りませぬ。だいぶ長くなりましたので、この後はまた次項にまわします。

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