芭蕉追跡〜山中温泉独吟の旅(その二)〜

  ともあれまずは一風呂。浴衣に着替えて浴場に向かう。露天風呂からは眼下に谷川を見下ろせる(くどいようだがここも敷地の内)。山はまだ冬木立のまま。三月初旬とはいえ、町中ではないのだ(仲居さんの話によると、今年はやはり気温が低いらしく、例年ならそろそろ咲き始める辛夷の花も、まだ全然駄目らしい)。これが新緑や紅葉の時季ならどれだけ鮮やかな景色になるか。

  さて夕食。献立は以下の如し。

・食前酒  花梨酒
・先付   春浸し:蕨、うるい、独活、子持ち昆布、浜防風、生姜
・前菜   大豆昆布(枡大根に盛っている)、クリームチーズ粕漬け(味噌漬けより軽い味。表面をあぶって)、小糠にしん、菜の花辛子和え、白魚柚香煮
・吸物   鶯仕立:ほうぼう、白玉、ぶぶあられ、花柚子
・造り   平目昆布〆、障泥烏賊、甘海老
・しのぎ  飯蒸:空豆、干子、塩昆布、黒胡麻
・焼物   金目鯛若狭焼、野蒜、はじかみ
・焚合せ  百合根饅頭野菜餡
・一品   茹でずわい蟹(どーんと一匹。肥えた蟹肉の味は栗に近いことを初めて知った。臓物の結構なことは言うまでもなし。あとで社長に聞けば、これでも一月二月の蟹とは比べものにならないらしいが)
・合肴   ミニステーキ
・酢の物  水蛸湯引き、行者にんにく
この後に飯・汁・香の物・菓子が出る。料理全体は、むろん美味しくいただいたのだが、例の本から想像していたのに比べると、材料も調理法も、盛り付けも「破調」どころか堂々の正攻法。つまりややおとなしい印象(理由は後で判明)。

  酒は「凜」という純米吟醸吟醸のくせにとろりとして旨味がつよい、いいお酒だった。途中で社長が挨拶に見える。得体の知れない若僧のところにわざわざ、と恐縮したが、こちらが連句に興味があることを仲居さんからきいて、どれ一つ顔を見てやろうと思ったのであるらしい。  

  ちびちびやりながら、ゆっくり食べ終えた後、「お食事のあと、もう少し社長がお話ししたいと申しております」とお招きにあずかった。独吟歌仙はまだ発句だけで、全然動いていないのだけれど、なさねばならぬ仕事でもなし、と思って宿の中にあるサロンに移動。ここではバーボンをいただきながら、二時間ほど社長と歓談。『とくとく歌仙』興行の時のエピソードを色々話してくれた。「みなさん、やはり文士といいますか、ことばを取り交わす場となると目つきが変わって真剣そのものでしたな」という一言が印象的であった。

  この社長(上口昌徳氏)は、今はいろんな役職についてずいぶん多忙らしい。と書けばなんだかどこにでもいそうな田舎の名士らしく聞こえるかもしれないが、法政大では大内兵衛に学んだというだけあって、どこかこつんと叛骨の気概が感じられる方であった。酒もタバコものまない。贅沢な食事もキライ。ただし女性は好きでねえ、とこちらを笑わせる。八十才の誕生日を迎えたばかりだそうな。お洒落な老人である(失礼)。ここで先ほどの料理の話。社長とそれこそ二人三脚で『かよう亭』の今の盛名を築いてきた先代料理長の石政進さんは、まだ五十代(ときいたような)の若さで昨年(とこれもうろ覚え)急逝なさったそうな(合掌)。翌朝、朝食の給仕をしながら、仲居さんは「ものすごくおっかない人でした」と語っていた。それだけ真剣に料理を作っていたということだろう(これはむろん今の料理長がそうではない、という意味ではない)。現在は、社長の秘書が、山菜の取り場所と時季とを逐一料理長に伝えているという。これは蕨が何月、というような一般的なものではない、何月の何日には、斜面のどの木のふもとに何がどれくらい生える、沢のどのあたりでこれが芽を出すといった、ごくごく精密なカレンダー/地図らしい。先代の意気をついでさらに素晴らしい料理を出していって下さい。

  部屋に戻って、もう一度軽く風呂につかったあと、次の間で炬燵(これが嬉しい)に入りながら、歌仙の続きを巻き始める。微醺をおびてちょうどよい状態ではあったが、表六句はかなり苦吟。やはり歌仙の「顔」だけあって、儀式性が強いところなのだろう。結局六句を仕上げるのに、三時までかかった。さすがにぐったりして布団に這いずりこむ。

  三時まで起きていられたのは、朝食を九時に頼んでいたからだ。翌朝はやや寝不足のまま風呂に行き、ぬるめのお湯の中で少しまどろんでいるとだいぶん疲れがとれた。

  朝食の品数が多いのも、『かよう亭』の売りである。全部は覚えていないが、以下の如し。

  湯豆腐(仲居さんが煮え加減を見てよそってくれる)、はたはたと鱈子(これも卓上で焙ってくれる)、だし巻(あつあつ)、小女子(こうなご)のおろし和え、岩海苔(これも卓上に炭火が用意してある)、白和え、野菜焚き合わせ(小鉢ではなく、おおぶりの蓋物にどーんと出て来る)、堅豆腐(名物らしい。辛子味噌との相性がよい)、それに飯、味噌汁(確かタカモという海草の汁で、これがすこぶる美味。汁はぬるぬるして、本体はしゃきしゃき、香りがまたいい。味噌はごく控えめ)、香の物(昔風の沢庵と赤蕪がよかった)。

  これで酒を呑まねば鯨飲馬読の名がすたる。ビールを頼むと、仲居さんが「そうこなくては」とにっこりする。付きっきりに給仕をしてもらい、ゆっくり飯をおえた(ビールは二本)、贅沢な時間であった。

  残念だったのは、昼食にと思っていた鮨屋の予約がとれなかったこと。金沢では有名な、ご存じの方はご存じのあの店である。多忙を極めていた(はずの)井上ひさしさんが、わざわざ東京から飛行機に乗って毎月食べにきていたという。むろんめったに予約が取れない店なのだが、上口社長の肝煎りで今の店を出した、ときいてひょっとしたら・・と期待していた。この日は席がいっぱいなのではなく、主の都合で臨時休業だったのだ。ま、これは仕方ない。 

  朝食後、チェックアウトの十二時ぎりぎりまで炬燵で歌仙を巻き続ける。表六句が済んで、やや調子が出てきた気がする。

  なんとも風格のある女将に見送られて宿をあとに。寄り付きに植わっている大きな紅梅のつぼみはまだ固いままだった。
                    (この項つづく)

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