安曇野の孫行者―双魚書房通信かな?

  旅行だなんだで先週はろくに読めなかった。夕食は牡蠣入り玉子焼き(葱を大量に入れる)とあんかけ豆腐で簡便に済ませ(この時はビール)、その後焼酎のお湯割りをちびちびなめながら積み上げていた本を片付けていく。

  まずは竹内薫『科学嫌いが日本を滅ぼす』(新潮選書)、伊東光晴『日本の伏流』(筑摩選書)。時流めいた話題を扱う本はほとんど登場しない暢気ブログであるが(そーゆー本を麗々しく採り上げるのは浅ましい気がするのだ)、この二著は読ませる本であった。竹内氏の本は、二大科学雑誌『ネイチャー』『サイエンス』を比較するという視点で書かれたもの。前者が商業誌で後者は同人誌であることすら知らなかった人間にとっては興味深い情報が色々。ただ内容はそこにとどまらず、震災後の、ヒステリックというかイデオロジックな反乃至脱原発運動に対して冷静に処する必要があることも説いている。

  市民運動(の大方)は冷戦構造崩壊のあと生き延びた、数少ない旧イデオロギーの所産であるとかねがね考えて慊焉の念を禁じ得なかったから(環境イデオロギーは、共産主義ユートピアニズムの仮装でなくてなんであろうか)、この竹内氏の所論はすんなり納得できるものだった。ちなみに、こう考える人間が脱イデオロギーを謳う市場原理主義(主義!)もイデオロギーと見なしているのはいうまでもないこと。いわずもがなの注だけど。

  反乃至脱原発運動にポピュリスムの匂いをかぎとっている点では、伊東氏の本は竹内氏の本と共通している。それにしても事実を尊重し、理論的に(イデオロジックの意にあらず)思考されたうえの提言がこのように貴重に見えるのはお寒い話である。郵政改革での小泉旋風がいかに空虚かつ破壊的なものだったか、筆者につきつけられて慄然としない読者は少ないだろう。

  というのが、大新聞にありがちな書評口調の下手なパスティーシュでしたがお気づきになったでしょうかね(下手であってはパスティーシュにならない、という事情はさておき)。

  ただし伊東氏の本で何度か出て来る、靖国問題の扱いに関してはややあきたりないものを感じた。むろんあの社が、国家による記憶の統制装置という役目を果たしていることは誰の目にも明らかだが、問題は国家権力のありかたなどより、もっと心性の深い部分に根ざしているように思う。

  思想問題を云々する場ではないから、結論だけを述べると、伝統的な御霊信仰を土台とするように見せて、その実死者への畏怖も敬虔さも微塵もない(「英霊」という呼称がそれを如実に示している)、その途方もない傲慢さがこちらにとっては厭わしい。

  ただこれは、個々の死者を、郷土の神として「回収」できなかった、地方の神社の無力とも一体となった問題なのだが(これもその奥には、古来の信仰形態を破壊した神社本庁による一元化、とはつまり「近代化」の蛮行があるのだが)。

  いやあ、それにしてもカタくなってしまった。固い本を採り上げることに何も不都合はないけれど、それを語るこちらの肩肘がはったり口調がこわばったりするのはいかにも無粋、というより無神経、もっといえば下品である。読者の皆様失礼しました。

  あと一冊は丸山健二の『ブナの実はそれでも虹を夢見る』(求龍堂)。正直言えば、こちらは小説家丸山健二のよい読者ではない。単にブナという単語にひかれて求めただけのこと。それでもこの本は充分に楽しめた。

  この小説家が、安曇野に隠棲して執筆と庭造りに専念していることは知っていた。そこで何となく、牧歌的なカントリーライフの日常をつづった感想文の類かと(著者には失礼ながら)やや軽く踏んでいたところもあったのだが、これは大誤算。

  だいたい、主役である庭のブナの木(著者が物産館で買ったブナのどんぐりから育てた実生)との関係からして、およそ牧歌的といえるようなものではない。いってみればエゴとエゴのぶつかりあいの連続で、「自然への愛情」といううさんくさい惹句がふさわしい箇所はひとつもない。

  ブナを始めとする庭の住人たち(オオタカやモズも含む)はいっかな主(ほんとうに主だろうか?)の意志に従わず、ある時は野放図に這いはびこり、またある時は無遠慮に糞をひる。そうした、いわば怪物めいた連中を相手に歯がみしたり、うんざりして背を向けたり、なんとかねじふせようと悪戦苦闘したりする姿に、お釈迦様の掌で玩ばれ、観音菩薩の呪文にキリキリ舞いするかと思えば、すぐに元気をとりもどして妖魅神仙の類を相手に如意棒を自在にふりまわすあのやんちゃ猿をふと連想したくらいである。すなわち、この庭の主の、一見無骨な容貌のしたには意外なほどの愛嬌が隠されている。

  そのことは文体からもいえる。かつて種村季弘は「美文」といういいかたでその特徴を規定したことがあった。たたきつけるような口調にも関わらず、また苛烈な自己批判に類する内容にも関わらず、たしかにその文章には、コトバが自己増殖しながらフォルムを形成し、そのフォルムが、剥きだしの告白には決してない「つや」を、つまりはある種の好ましい表情を与えていることも事実なのである。たとえば、ほとんどどの頁でもとさえいいたくなる、表現の羅列(修辞学用語で気取って言えばエヌメラチオ)の効果を見よ。

  この探究をおしすすめていけば、そこに一箇の独自な自然観照の文学が生まれるかもしれない、と密かに期待しつつ、なおも思う。もしこのような暴力的でかつユーモラスで、そのくせ意外に端整な文体が、小説家としての自己など内面の分析に向かわず、ひたすら外界の精緻な記述だけに向けられていたとしたら、梶井基次郎はもはや「眼の詩人」としての地位に安閑とはしていられないのではないか、と。

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