雨と月とで葡萄酒を呑む記

  二一世紀の日本で、白内障の治療技術がどれほど発達しているかはしらないが、ろくな麻酔も消毒薬もなかっただろうと思われる江戸時代に、ある人物の白内障を治してみせた医者がいた。その名を谷川良順・良益・良正という。見てわかるとおり三兄弟である。

  杉田玄白華岡青洲の名前なら知っているけど・・・という方が多いに違いない。私見ではしかし、谷川家の三兄弟は医学史上はもちろん、文学史の上では他の二人とは比較にならないほど多大な貢献をしているのである。患者がすこぶる付きの大物だった。

  ご存じ上田秋成。若くして戯作に手を染め、凄艶かつ端麗な『雨月物語』、雄渾にして自在な『春雨物語』作者であり、漁焉と号した俳人でもあり、歌詠みでもあり、本居宣長と論争を繰り広げた国学者であり、辛辣無比のエッセイストであり、かつ風雅を解し小さき者を愛おしむ文人でもあり・・・と列挙していけばどこまでも続きそうな、端倪すべからざる人物である。その秋成は寛政十年、六十五才の時に両眼を失明(左目は五十七才で失明)した。それを救ったのが谷川家の三人だったというわけ。彼らの医療技術がなければ『春雨物語』や『胆大小心録』といった傑作はついに書かれることなく終わっていたかも知れない。

  光を取り戻した秋成と良順たちとの交流を主題とした展覧会が伊丹の柿衛文庫で開かれている。「雨霽レ月朦朧」(『雨月』序文)・・・さすがに月は出ていなかったが、雨上がりの雲たちこめるなか、柿衛文庫に久々に出かけた。久々、というのは以前ここで月1回開催されていた研究会に参加していたことがあるのだ。しかも今回の展示担当は、大学院博士課程の後輩、主たる協力者はその時の指導教官である。

  博士課程に入った頃から、自分が研究者には不向きな質だと感じ始めていたこともあり、懐かしさと共にほろ苦い思いも抱きつつ、柿衛文庫の門をくぐる。

  何とかウィークとやら、伊丹市民の方がちらほらといらっしゃる他はとくに混雑することもなく、出品された一点一点をゆっくり見ることが出来た。

  ずいぶんよく出来た図録の解説で、飯倉洋一先生が書かれていることだが、晩年(秋成は文化六年、七十六歳没)の秋成の書が凄い。眼疾は治ったとはいえ、貧窮と病身をかこつ老人の字とは思えない気迫がみなぎる。とはいえ、その勢い(辺りを払うというにふさわしい)は、同じく晩年の書でありながら、たとえば冨岡鉄斎のものとはまったく趣きを異にする。鉄斎の書がとどろき渡る春雷にも似た豪宕さを誇っているとするなら、秋成のそれは厳しく、するどい。鉄斎を江戸歌舞伎の荒事にたとえるならば、秋成は六世歌右衛門の冷え冷えとした艶に当たるだろうか(これはいうまでもなく男性的、女性的という対比ではない)。

  孤独な文人という先入観が見る側に強すぎるのだろうか。近代人・秋成という見方が一面的な像であることは度々指摘されてきている。しかし、秋成の文章を読めば、そこに自意識が烈しくまた屈折して(自意識である以上当然だけど) 表出されていることもまた、明らかだろう。ただこれは秋成の自意識が、同時代の他の人々より強烈だったというのではない。自意識の表出が、文化(制度や装置といった流行のタームを用いてもよい)によって抑制されていた時代に、あれだけの表現が出来たことが特異だといいたいのである。

  心性や感情を統御・抑制するのはなにも江戸時代に限ったことではない。つまり、秋成が現代に生きていたら、間違いなく「浮いた」存在になっていただろう。歌ごころをもったカール・クラウス?それともアイロニーを解する泉鏡花?いずれにせよ、こちらの自意識を直接刺戟してくるような作者であることは実感的に動かないところで、それだけに秋成が良順たちに送った数々の書翰には心慰められた。晩年といってもいいだろう秋成に、このような率直な喜びと感謝で満たされた時間が恵まれたことを思うと、こちらの気分にも薄陽が射しこんでくるようである。

  いい展示だった。

  帰神して、蛍烏賊や菜の花や合鴨を肴にワインを空けつつ、シェフに感想を語っているといつのまにやら夜も更けている。あはれ去にし世の月いずこ。

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