メ(ランコ)リー・イングランド

 ロンドン五輪はいうまでもなく(?)、水泳だけを選んで見ている。とくに自由形などではそう思うのだが、選手の腰まわりあたりでの水の流れの速いこと。むろん自分がそう泳げるようになるに越したことはない。ないが、しかし見ているだけでも充分に楽しい。

 さて、ロンドンつながりだかテレビつながりだか、ここで話はドラマ『Sherlock』2に転じる。

 推理小説は、ま、人並みに読む方だけど、ホームズシリーズは実はほとんど未読のままである。子ども心にもなんだか幼稚なような気がして仕方がなかった。トリックのためのトリックに淫した偏執狂じみた味わいなら、たとえばカーの諸作はそれとして愛好するし、いかにも世紀末らしい猟奇的雰囲気ならば、もっと淫靡かつあくどい形で出た乱歩を、これは愛好どころではなく熱狂していたわけだが、それでもベーカー街の独身男に親しめなかったのは、よくせき相性が悪かったのだろう。

 今度のドラマでもその印象が根本的に変えられたというわけではない。あ、ただし第一話「ベルグレービアの醜聞」は別です。これは最後の最後に出てくる大仕掛けなアイデアと、快調なテンポによる展開で愉しめました。

 ここで取り上げたいのは、シャーロックの兄であるマイクロフトの肖像である。劇中のせりふから推察するに、英国政府の国防?情報?公安?関係の相当な大物であるらしい。

 ちなみにウィキペディアでの本ドラマの紹介に、「兄のマイクロフトとの関係は酷い状態」(酷い日本語だ)とあるのはどうか。天才かつ奇人同士の兄弟愛が会話のはしばしに見てとれるではないか。ま、辞書の記述なんてこんなものか。

 閑話休題

 というほど横道にそれたわけでもないので、こちらの興味をひいたのは、この政府の大物である兄の奇人ぶりなのである。

 シャーロックの奇人性(いっそビョーキ性というか)、それならば原作からして明らかである。薬物への依存、女性嫌い、知識の偏向。本ドラマでもその面はほとんどカリカチュアの域にまで強調されている。

 問題は見るからに仕立てのいいスーツと趣味の良いネクタイでかためたマイクロフトが、時折見せる表情のどうしようもないある「暗さ」である。これを政治という悪に染まった男の良心の煩悶などととってはならないのだろう。当方が強く感じるのは英国人(ここではイングランド人という意味)の魂そのものに根ざしたある宿命的な傾向、そう、ロバート・バートンが長大なペダントリーを繰り広げ、かつはまたデューラーが見事に形象化してみせた、あの憂鬱質なのだ。

 フランスの幾何学的(!)錯乱や、ゲルマンの底なしの混沌と対比される英国の「奇想」については、むろん強力な伝道師たるボルヘスの文章を筆頭に、すでに指摘され尽くした感はある。たとえば手近なところでは「澁澤龍彦文学館」中の『脱線の箱』がいってみれば英国奇想文学のエッセンスを集めている。スウィフトやキャロルといった、誰が見てもstrangenessが露わな作者でなくても、たとえばジョン・オーブリの『名士小伝』で一筆書きされる連中(そして彼らを名文で写し取った作者その人も)、それに理性と常識の人であるジョンソン博士の例の伝記にしたって、読みようによっては一大奇行録ともとれるのではないか。それにまた、当ブログで取り上げた『怪物ベンサム』にはじまる「独身者の思想史」を彩る面々にしても。

 何にせよ複層するものに固着する傾向のある人間としては、実用主義と経験論の民として世界に名だたる英国人が、一方でかくも不可思議な文学の水脈を伝え続けてきたことにはある種の感銘をおぼえざるをえないのである。先に紹介したジャン・モリスのウェールズ本が印象深く語ったウェールズの憂愁や、またスコットランドの荒涼といった「わかりやすい」特質に比べれば、こうしたイングランドの「奇」なる部分は長く住んでみなければ真に理解することは難しいのかもしれない。

 ともあれ今年も猛暑の日本。肉体競技を息つめて見てべったり汗をかくのもよろしかろうが、たまにはこうした奇想文学のページをたどって、「黒い太陽」の腐蝕性の光を吸い込んでみるのも一興かと存じます。

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