真昼の楽園

 午前のうちにジム・水泳を終えたので、休みの今日はゆっくり昼酒を愉しもう、と固く決意して市場に向かう。

 最近はもりもりと肉ばかり頬張っていたから、魚だな。大ぶりの鱧とピカピカの鰺二尾、それに活け蛸。鱧は骨切りしてあるやつを買う。自分でさばけなくもないのだが、一刻もはやく呑みたくって。

 まずは鰺。三枚におろすと、橙色の卵が腹からあふれてきた。これに塩をして三十分。塩を洗い流してから酢で〆る。軽い味の魚だから、黒酢などよりふつうの純米酢のほうがよろしいかと。鯖のきずしには昆布や鷹の爪、柚なども漬け込むが、鰺は酢のみ。真っ白にならないよう、五分ほど漬けた後は酢も流して、ラップフィルムでぴっちりくるんで冷やしておく。食べるときには、酸橘と醤油を同割で合わせたものに山葵を添えたのと、すり生姜・醤油と二つ用意する。あしらいには胡瓜と茗荷の細打ちを混ぜたもの。

 蛸は先週作ったサラダが美味かったので、もう一度それでいく。

 鱧の半分は落としに、半分は付け焼きにしてから鮓に押すことにする。落としや洗いのような料理は水がすべてでありますから、水道水は一切つかわず、六甲の湧き水とそれを凍らせた氷をふんだんに用いる。落としの湯(これももちろん湧き水)を沸かしている
間に辛子酢味噌を練り、梅醤油を作る(自家製梅干しの梅肉をたたいたものを煮切酒でのばし、おろし山葵と醤油を合わせる)。

 あとは卵豆腐。これは残念ながら出来合いの品。それにゴーヤの梅肉和え(鰹節を細かくかいたものをふんだんに混ぜる)。

 七月になってから、水温の上昇を防ぐために、熱帯魚のランプは夜に点けて昼間は消している。当然カーテンも閉め切り。クーラーを効かせたなかで、以上の肴を愉しむ。いやあ、われながら豪奢だな。ビールのあと、酒は「萬歳楽」。きりっとしたのどごしがたまらない。

 もちろん本も読みながら。この日に読み上げたものばかりではないが、掲げておくと・・・・

*アンダーソン夏代『アメリカ南部の家庭料理』=このタイトルを見て、けっ、アメ公どもに家庭料理なんてあるわけねえだろとつっこんでしまいたくなるが、たしかに世界一の農業大国なのである。しかも農業がしっかり値をはっている南部ともなれば(一説によれば、合衆国の農業従事者人口は、服役囚の人数を下回るらしいが)家庭料理の伝統が確立していてもおかしくはない。料理で魅惑されるほどのものはなかったが、ともろこしのシロップなど、いかにも南部らしい調味料やハーブが多用されているのが面白かった。まあ、建国して三百年もたってないのだからね。こちらでいえばカレーやハンバーグが「家庭の味」として定着した程度の《伝統》と思えばよいのでしょう。しかしそう考えると、こうした「元・洋食」の日本食への同化の早さと(日本食としての)洗練度の高さは、何か異常なほどである。ところどころ口に触る表現が出てくるものの、作り方を叙した文章はおおむね明快でよろしい。日本料理の本はいったいに文章が拙いものが多いので、読みやすいだけでも収穫というもの。

田中英道『日本美術全史』=講談社学術文庫版。全篇これ、「人間性」と「作家の個性」で押し切った美術史。この観点からする限り、たとえばこちらが愛してやまない薬師寺三尊などは、「様式的」「人間味がない」と切り捨てられることになる。引っかかるなあ、と初めは思いつつ読んでいったのだが、途中から、これは著者の《信仰告白》なのだと気付いてからはむしろ愉快に読めた。天平が「クラシック」で平安は「マニエリスム」、鎌倉は「バロック」という規定は刺戟的。どうせなら、自前で美学概念を出してみんかい!と言いたくもなるけど。

*アレック・ウォー『わいん』=これは鴻巣友季子さんの著書で知って早速図書館に行った。アレックはイヴリン・ウォーの兄であり、弟と同じ小説家である。ずいぶん古い訳書なので、フランス語の固有名詞などの表記には引っかかるが、暢達な文章と渋いユーモアがあって面白い。この人の小説も読んでみたくなった。それよりも、極上の清酒を呑みながら、極上のブルゴーニュが呑みたくなって困った。

石川九楊『説き語り 中国書史』=いつか紹介した「日本書史」の姉妹編。こちらはまったくの門外漢だから、いろいろと教わるところ多し。楷書が国家の書であり、草書が貴族の書であるのに対し、士大夫層は行書をよりどころにした、とか。諸所に出てくる写真を眺めつつ、つくづく自分が、欧陽詢とか顔真卿とかの肉太な字が嫌いだと実感した。逆に褚遂良や金農などの瘠せた書には強く惹かれてしまう。女性の好みとは逆なのだが。

中村幸彦『宗因独吟百韻評釈』=例の連句がらみでの本。芭蕉時代の連句はだいぶん読んで、その詩性もなんとなくつかんできてような気もするのだが、芭蕉直前の、談林とよばれる俳諧流派についてはまったくの文学史的知識のみ。やたらと難解らしいので、実作は敬遠してきたが、近世文学極めつきの碩学(しかもよく文学が分かる)である中村幸彦博士(知らなかったが、談林の総帥である西山宗因びいきだったらしい)の注釈である。期待して読み始め、そして実際に面白かった。俳諧はこういう知的遊びの面を忘れてはやせ細ってしまうのだ、と確信。それにしても、学生時分に中村先生の『此ほとり四歌仙評釈』を読んだときより、今年同書を読み返したときのほうが、格段に理解が深まったと自覚でき、さらにこの本も実に細かく味わえたと思えるようになったのが嬉しい。

大澤真幸『〈世界史〉の哲学 古代篇』=この人の本、なんだかやけにぴかぴかきらきらしてるようで今までは警戒し。敬遠していた。この本でもその印象は変わらず。要は《イエスという事件の解釈学》なのだが、一々カントの崇高論やフーコーの「知の考古学」やらを援用してくるのがこちたい。「器用でらっしゃいますね」というところ。まあ、他にも読んでるわけではないから、悪口はこれでやめる。

 晩は満腹の上、すっかり酔っ払ってしまったので、紅茶と果物のみ。のみといっても、無花果・桃・キウイ・梨と食えば充分でしょうが。

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