魔女の厨に煮えたぎるもの―『古代オリエントの宗教』〜双魚書房通信⑪〜

 終章ではスンナ派イスラームにおけるイスラーム神学・法学の体系化が述べられる。評者のように、世界史に関して高校の授業程度の知識の持ち合わせしかない人間にとっても、「古代オリエント」とイスラームとの結びつきは異なものに映る。

 しかし本書の構想に従えば、これこそ終章にふさわしい出来事であった。構想というのは『旧約』『新約』をセットとする「聖書ストーリー」(筆者の表現によれば「ユダヤ人の神話や歴史」プラス「イエスの一代記」)がオリエント諸民族の宗教観に与えた甚大なインパクトと、それに対する反応を軸に東方宗教史を語るという目論見である。その反応が終息するのが、スンナ派イスラームの成立と固定化、つまりようやく十三世紀に至ってから、ということになる。

 これは少なくとも評者にとっては新鮮な視点だった。マニ教やらゾロアスター教やら、なんとなく名前は知っているものの、その実体がさっぱりわからなかった宗教が、「聖書ストーリー」と関連づけたとたんに、急に輪郭を鮮明にするのである。たとえばマニ教(本書では「マーニー」と表記される)。開祖マーニー・ハイイェーは、グノーシス主義の影響が濃い神話構造を創り出したが、その中では『旧約』は悪として否定され、イエスが(とくに「パウロ書簡」に依る)教義の中心となって、自ら「真のキリスト教」となのる。

 ヒッポの司教アウグスティヌス(マーニー教から回心したことは有名)はマーニー教の聖職者にたいして、「それで、一体、あなたは何人のキリストを造るお積もりか?」と揶揄したという。マーニーは「天上界の輝けるイエス」、「地上の使徒イエス」、「裁きのイエス」の重層的なイエス像を説く。この三つの人格、いや神格の関係は正直筆者の解説についてもぴんとこないが、マーニーがどれだけイエスを重視していたかはわかる。もっとも量産すればいいというものではないだろうけど。

 またゾロアスター教といえば、反射的に「二元論」と出てくるが、「しかし、「聖書ストーリー」に触発されて教義らしきものが誕生した最初期のゾロアスター教思想はズルヴァーン主義(注・無限の時間を最高神格と崇める教義)の方であり、それが皇帝の勅令からも確認されるとなると、「ゾロアスター教=揺るぎなき二元論」説もかなり怪しくなる」。

 ではゾロアスター教において二元論がどのように誕生したのかといえば、「今後の研究課題」と留保しながらも、イスラーム唯一神観念に対抗するため、つまり唯一神(一元論)対二元論という教義の違いを際だたせることで「聖書ストーリー」への吸収を図った「対抗措置」ではないかという推測が述べられている。すなわちイラン系民族の土着信仰だったゾロアスター教儀礼のみで教義をもたない)が曲がりなりにも神学らしきものを樹立したのは一に係って「聖書ストーリー」の刺戟に対する、いわばアレルギー反応として解釈することができるわけである。

 世界の富・軍事力の大半がキリスト教を(たとえ表面上であるにせよ)奉ずる国々に掌握される二十一世紀と類比するわけにはいかない。たとえばゾロアスター教を国教とするサーサーン朝ペルシアは当時にあってローマ帝国キリスト教が優勢)と充分に対抗できる国力を備えていたのである。つまり、キリスト教は国家の威勢を背景にその影響力を強めたわけではなかった。

 筆者は「聖書ストーリー」自体がもつ特性や魅力については語っていないが、評者はここで様々に想像を逞しくした。『旧約』『新約』のストーリーがあれほどの浸透力をもったのはなぜか?ハルナックがいうイエス説話の「振り子構造」のドラマティックな展開の故か?それとも物語という形態そのものがもつ魅惑するちからのため?それならばなぜ高度な文化をもっていた東方諸王朝が物語構造を教義の中心に据えた宗教を発展させなかったのか?または、物語の力ではなくて救済の普遍性を説く点に異民族の耳を傾けさせる力があったのか?

 どの一つをとっても優に一生考究するに値する主題である。評者はしばしば本書をとじて、(バーボンの水割りをすすりながら)妄想にふけったことだった。ランボーが「精力の永遠の盗人」とイエスを罵ったのも故ないことではない。

 しかし初めに紹介した、スンナ派イスラームの東方における覇権確立の意義を説く終章に至って、水を浴びせられたような心地がする読者も少なくないだろう。筆者の巧みな表現によれば、「神話時代から東方の地に眠っていた無尽蔵とも思える宗教的エネルギーが、「聖書ストーリー」という格好の信管を得て誘爆しつづけ、1000年のあいだにようやく蕩尽された」。いいかえればエントロピー最大の状態である。続けてこうある。


  後世から顧みれば、イスマーイール派の政治的意図を含んだ宣教活動と、ゾロアスター教の完全二元論への脱皮が、東方の宗教的想像力の最後の残照だった。やがて、夕映えが夜の静寂を予感させるように、東方の星空の下で髪と人間の最後の黙契が結ばれ、すべてが―少なくとも宗教思想の次元では―平穏に還り、ベタ凪の夜が訪れた。その契約にあたっては、諸民族の神話群も「聖書ストーリー」の擾乱もうたかたと消え去り、ただスンナ派イスラームだけが、まるで預言者ムハンマドの死の直後からそこにあったのように残った。

 「歴史の終わり」とやらの到来以前に、世界はすでに一度、終末を迎えていたのである。果たして想像力の真の再生はあり得るのだろうか。

 記述の随処に宗教的情熱からデタッチしたような皮肉な表現が見られるのは、評者も同じ世代に属する、戦争も知らず、バブルにすら乗り遅れた《散文》的精神の申し子のためかどうか、それは分からないが、興味深く読み終えたあとで、ケレーニイやエリアーデのおどろおどろしさ一歩手前の「熱い」著作を読み返したくなったのは事実である。
(青木健著、講談社現代新書

古代オリエントの宗教 (講談社現代新書)

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