梅村と軸村

ピンチョン『メイスン&ディクスン』、とうとう読み終えましたよ。まだ全作は踏破してないけど、今まで読んだなか(『V.』『競売ナンバー49の叫び』『ヴァインランド』)ではいちばんでした。

 他の諸作と違って、曲がりなりにも(この「曲がりなり」のなりようが面白いのだが)、独立前の植民地アメリカで、のちに自由州と奴隷州の境界線ともなるペンシルヴァニアとメリーランドの州境線を引いた二人組の事蹟、という史実に材を採っているのだから、ピンチョンの独擅場ともいうべき奔放・抱腹・奇怪な挿話群を主筋にどうからめるかが、読む前からこちらの興味の焦点であった。

 完全に史実を無視した平行世界を築くというのも一つの手ではある。でもそれじゃ、こういう素材を選択した意味もなくなるだろうしな・・・と思いつつ読み始めると、うーん、実に堅牢な構造。

 といっても着実な歴史小説では、まさかあるはずがない。ないがしかし、個々の幻想的エピソードの中には自己完結性を備えたものもないではないが、おおかたは自己増殖しつつも最終的には主筋に結びつけられ、というよりは綯い合わされて、アメリカ先住民(翻訳では「米蕃」と記される)の土地に勝手に所有権を設定した植民者たちが、まっすぐな(ここがブキミなのだ)境界線をひくという蛮行としか表現のしようのない現実の奇怪さが、批判や諷刺といったレベルを超えた、まさに悪夢そのもの迫力をもって立ちあがってくる、と同時に、エピソードの細部が混沌たる現実の照り返しをうけることで、夢ならではの明晰さを手に入れることになる。

 それほど読者は(少なくとも日本では)多くないと思われるから、どのみち要約することなど出来はしないこの小説の具体的な場面をふんだんに引用してお目にかけても、かえって効果を殺いでしまうことになるだろう。それを承知でご紹介するならば、たとえばアンシャンレジーム最末期のフランスの発明家ジャック・ド・ヴォーカンソンが発明した(とされる)機械仕掛けの鴨。あまりに精巧な機工ゆえに、この鴨、知性を備えるにとどまらず、料理人アルマンに恋をし、それどころか最後には天使的存在にまで昇華してしまうのである。主人公の二人組が引いた緯線に平行に飛ぶ鴨の姿(といっても早すぎて人の目には見えない)は、滑稽で憐れで忘れがたい。

 いったいに動物乃至は機械が人間以上の印象を残す物語である。この愛すべき鴨のほかにも、人語を解する犬だとか、飼い慣らされて芸をみせてまわる「痺鱏(シビレエイ)」だとか。植民地の広大な森の夜に突如出現する土人形(ゴーレム)(!)だとか。

 いや、しかしこう書いたのでは登場人物の影が薄いともとられかねない。主人公のチャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンの肖像は、かの不滅の凡人ペニー・プロフェインをすらしのぐ色彩で描かれている。前者は妻に死なれて鬱傾向、後者は飲んだくれで女好きのクウェーカー教徒(そんなのありか!?)。訳者は解説でヴィクトリア朝の小説さえ連想させるコクがある、というとおり、奇妙な友情で結ばれた二人の最期までを緩まぬ筆致で書き抜いている。ピンチョンすごい!

 一般にこの小説家は「ポストモダン小説の旗手」と呼ばれていて、まあ、たしかにそうなんですが、そしてポストモダン小説はよくもわるくも知的眩暈を呼び起こすところに特徴があるのだが、この作に限っていえば、○○的という限定を不要にするくらいに濃密なロマネスクな時空間が、ほとんど身体感覚として揺らぎ出る。こちらがそれを感じたのは下巻の半ばほど、(一応)語り手であるチェリコーク牧師が聞き手と軽口をたたきあう所。いかがわしさともっともらしさが渾然となったところにしか生じないリアリティである。

 もう一回いうが、ピンチョン偉い!

 翻訳は悪ノリ(賛辞である)の調子が上乗。こういう小説はとっとと文庫化すべし。



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