かえるとうさぎ

 うかうかしていたら旧暦八月十五日、つまり中秋の名月をだいぶ過ごしてしまった。あわてて月見をする。ふだん風流とは縁の無い生活を送っているから、せめてただで(ここらへんが我ながら浅ましい)愉しめる月くらいは玩賞しておきたい。

 湊川の市場まで行く時間はない。職場近くのスーパーで買い物を済ますことにする。

【月見の献立】

・黒豆の枝豆(もちろん塩茹で)
・新子芋(こちらは塩蒸し、つまり衣かつぎ)
・かます干物(半分は酒のアテに。半分は焼いて身をむしった後、酒に浸し、灰干しわかめをあぶってよく揉んだものと飯にまぜる)
・いちじくの風呂吹き(いちじくは皮のままさっと炙り、皮を剥いて吸い地よりも薄い出汁をかけて蒸す。上にかけるのは生姜の絞り汁をたっぷりまぜた練り味噌(八丁味噌に、砂糖・酒))
・いわしのつみれ汁(銀杏に切った大根と清汁仕立て。吸い口は青柚をへいだもの)

 マンションの裏手をちょっと行くとすぐ山になっており、その裾にはわずかばかりの平地があって、薄が生えている。二本ほどを切って瓶にさす。

 月見ったって、よほど時間を按配しなければ部屋の中からはもちろん、バルコニーからも見えはしないのだが、そこは雰囲気の問題である。窓を開けて乾いた秋の風を部屋に入れて、「見えたつもり」で酒を呑む。酒は『初孫』。そろそろ燗酒も旨くなってきそうだ(この日はまだ冷やでやっている)。

 このところすっかりハイカイ病にかかってしまっているからというわけでもないだろうが、杯を口に運ぶ合間に月を歌った詩歌の尤なるものは、と考えていて、花なら和歌にも名作が目白押しだが、月はどうも俳諧のほうが水準が高いのでは、と思い当たった(酔っていたかもしれない)。どれどれ、と書庫から句集の類を引っ張り出してきて月の句ばかり拾い読みしていく。

 十五から酒を呑みでてけふの月

という其角の句は、其角の作だけでなくすべての発句の中でももっとも好む作の一つだが、連句での付合にも佳什はすこぶる多い。ここでは芭蕉七部集だけを引くが、


 霧にふね引人はちんばか    野水
たそかれを横にながむる月ほそし 杜国(『冬の日』)

小三太に盃とらせひとつうたひ  芭蕉
 月は遅かれ牡丹ぬす人     杜国(同右)

 おもひ切たる死ぐるひ見よ   史邦
青天に有明月の朝ぼらけ     去来(『猿蓑』)

終宵尼の持病を押へける     野坡
 こんにやくばかりのこる名月  芭蕉(『炭俵』)

 最後の芭蕉の句などはただただ唸るしかない名句である。

 さて飯を食い終わったら、月を探して近所に散歩。有馬街道沿いの、斜面を利用して南に大きく開けた公園に場所を決める。こういう時にはかえって句想は浮かばないもので(もっともこちらは連句一本槍で、ほとんど発句はしないのだけど)、缶コーヒーを飲みながらたっぷりと月だけを眺めていた。

 帰宅して茶を淹れると、読書再開。この日に読んだのは、
川出良枝・山岡龍一『西洋政治思想史』=単なる通史ではなくて、テーマごとの編集になっているので知りたいトピックについてまとまった叙述が提供される。レトリックを扱った章が非常にためになった。
石牟礼道子『苦海浄土』(三部作を一冊にした河出世界文学全集版)=これは読み出して三日目。
・平川敬治『魚と人をめぐる文化史』=前著の参考にでもなれば、と思って読み始めたもの。


 ある意味ひどく野暮ったい選択だが、江戸の騒客とはちがって、濁世を生きる人間としては、風流にばかりは付き合っていられない。もしくは、この時代に生きて読書をすることは、自然に和魂・荒魂がつねに重なり合うという精神のありかたを生み出すものである。中でも『苦海浄土』はやはりいちばん感銘を受けた。中学生の時に読んだ文庫本ではたしか第一部の半分くらいまでだった。やはりチッソ本社での座り込みにいたる第三部までをまとめて読まないとこの本の凄さは味わえない。水俣病以前の、牧歌的というより神話的(解説の池澤夏樹はするどく著者の「古代的資質」にを指摘する)な時間の流れと、企業・国・社会(患者がもっとも直接的な圧迫を受けたのは、チッソ企業城下町である水俣の市民からである)の告発とが重層的な世界を作り上げる。ただ、異様なまでのうつくしさに一様にひたされた『椿の海の記』の幸福な読後感も捨てがたいのではあるが。


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