雄弁なる沈黙―『最後のイエス』〜双魚書房通信(12)〜 

 ふつうには十字架という。著者は初めのほうでこの刑罰の実体を明らかにする。


 一般に「十字架刑」と訳されるが、原語のstaurosは単に「杭」の意味。縦杭の上部に両手を固定する形で人をつるしておくと、数十分で窒息死するらしい。それをすぐ死なないようにして、見せしめの時間を引き延ばすために、「T字杭」が一般的になった。これは、縦杭の上に横木を固定させ(したがって全体はTの字形になる)、その横木に両手首を縛りつけるか釘づけにした。さらには、縦杭の下方に股を支える座をしつらえた。これによって、体の重さで肺が急速に圧迫され、短時間に窒息死するのを避けたのである。この仕方であれば、罪人は二、三日ほど末期の苦しみの中で生き延びた。(中略)ローマ帝国は属州の反逆者や帝国内の奴隷の重罪人を処刑するために使用した。その屈辱的な残虐さ故にローマ市民には一般に適用されなかった。キケロなどはこの刑法の全面的な破棄を提案している。

 以降の論考を読み進めながら、むごたらしい刑苦のあげく「大声をあげて息絶えた」(マルコ)男の映像は、ながく消え去ることはないだろう。力強く優美な(二つの美質は共存できる、というより本来は表裏一体のものであるはずだ)現代日本語による『マルコ』『マタイ』および『ルカ』伝の翻訳を完成させた(岩波書店刊)気鋭の聖書学者による実に興味ぶかいイエス論。

 著者の立場は明確であり、徹底している。「イエスを「人間」として見つめるということを、「教義」的とか額面上とかではなく、真剣に一貫して追究していく」というものである。それはイエスの神性を否定することで偶像破壊の快をむさぼろうとするのではないのはもちろん、イエスの《卓越した人間性》を強調する、啓蒙主義ロマン主義的な聖伝の書き換えを狙ったものでもない(巻末の「補論 宗教史学派のイエス像」では、ブセット他の宗教史学派によるイエス評価が、自ら否定したはずの自由主義神学が描き上げる、こうしたイエス像に近づいてしまっていることを正確に指摘している)。

 佐藤によればイエスの生涯は次のような、飛躍を含む四段階の過程としてとらえることが出来る。


第一段階 浸礼者(著者は「バプテスマ」をこう訳した)ヨハネのもとに登場する前のイエス
第二段階 浸礼者ヨハネから浸礼を受け、彼の許に留まっていた時期のイエス
第三段階 浸礼者ヨハネとは異なる活動を始めた後のイエス(いわゆる公生涯のイエス
第四段階 ゲツセマネ以降、杭殺刑に処せられるまでのイエス


 ただし四つの段階を「伝記」的に逐うのではない。イエスの言行から、彼における「負い目」や「危機」、「尊厳と深淵」の意識を探り出し、また「結婚・離婚・姦淫」観を明らかにし、さらには「詩人イエス」・「預言者イエス」という側面での評価もこころみるというのが一冊の構成である。

 キリスト者ではなく、この宗教に同情的でもなく、しかし歴史と人間学とには人一倍関心が強いような読者には、まず冒頭に引いたような、イエスが生きた時代の細かな風俗的知識が面白いだろう。たとえば、大工イエスの社会的地位―


エスは当時のガリラヤに多くいた貧農の一人ではなく、また極貧の「乞食たち(ptokoi)」の一人でもない。


 さらに、D.フルッサーの『ユダヤ人イエス』の記述が参照される。フルッサーいわく、「特に大工は学識のある者と見なされていた。むずかしい問題が議論されたりすると、人々は『この中に、われわれの問題を解決できる大工はいないか、あるいは大工の息子はいるか』と言って尋ねたものである」。そして有名な「幸いだ、乞食たち、神の王国はあなたたちのものだ」(ルカ)というイエスのことばをこう解釈する。


 もしイエスが、若い頃から敏感な感受性の持ち主であったとすれば、自分がこうした「乞食たち」やそれと類似の者たちの群れの中にいないことをどこかで疼きとして感じ、社会的・職業的立場ゆえの〈負い目〉を敏感に感取したに違いないのである。


 その上で「我が母とは誰か、我が弟たちとは誰か」(マルコ)という、峻厳きわまる宣言を「没落民衆への〈負い目〉をラディカルに解決するために活動を始めた彼には、家族への、〈負い目〉はただ力で乗り越えるしかなかったものと見える」と説く。聖書研究史について毛頭知識を持たない評者には、この論証は説得的だった。

 しかしこの調子で紹介していったのではいくらなんでも長くなりすぎる。あとは評者個人が最も興味深く読めた「詩人イエス」の章についてふれるにとどめよう。

 『旧約』『新約』がレトリックの宝庫であることはよく知られているが(たとえば丸谷才一文章読本』は、レトリック尽くしの章においてシェイクスピア大岡昇平『野火』二つを取り上げて論じてゆくのだが、大岡の文体は絶えず聖書的なイメージと結びつけられる)、聖書学者の観点は、ヘブライ語の伝統を意識しているだけに、新鮮である(おそらくこれも多分にこちらの知識が乏しすぎるからだろうけれど)。「預言者的な衝動とヴィジョン」を持ちつつ、「知恵文学的な言語形式をも自由に使用した」イエス、「彼の中には、幾世紀にもわたるイスラエル詩文の伝統がまともに生きていると推定される」。ここではそのうちの一つだけを引くとして、「神的受動態(passivum divinum)」。これは「あなたの名が聖なるものとされますように」(マタイ)というような表現のこと。たしかに聖書ではよく出てくる。佐藤研はこう見る。


 (イエスは「神」「父」への言及を避けてはいなかったから)神の名を挙げることを畏れたための迂回表現という説明は説得力を欠く。(中略)私たちがこの世界を見るに、自然に「・・・・・・にされた」と受け身に感ずることが多いことは事実であり、ここには素直な詩的リアリストとしてのイエスの言語感覚があるのではないだろうか。これは、イエスに関する限り、「神的受動態」というより、「自然(じねん)的受動態」と言うべきではないかと思われる。


 日本語に受動態が頻用されるのは周知のとおり(悪名高いというべきか)。「妻に死なれる」「雨に降られる」の被害的受動態や、「・・・・・・とされる」といった人称不明の受動態との関連を、評者はあれこれ考えさせ「られ」たことだった。


 あるときには伝統的な修辞を巧みに用いて雄弁に語り、また逆に預言者的終末論のヴィジョンを(それは本来修辞や雄弁を「越えた」ものだろう)熱狂のうちに示したイエスは、しかしその生涯の最期、佐藤のいう「第四段階」にいたって、「詩」でも「絶叫」でもない、「あの異様な沈黙」、「沈黙の不気味な静けさ」のうちに沈み込んでいく。佐藤は言う、

 
  (ゲツセマネで)何はともあれ、極端な恐怖に襲撃されたことだけはたしかである。そして、それとの戦いの結果はと言えば、イエスはその恐怖の事態を全く受容し、つまりその危機をそのままに受け入れて、それを突破したのである。(中略)危機をそのままで受容し、危機の「刃」をいわば無化するというような仕方の乗り越え方である。補填的ヴィジョンは何ら提示されない。ただ、事実が受け入れられるという姿で、イエスは逮捕の場からゴルゴタへと向かうのである。実際、単に受け入れるとい仕方でしか向かい合うことのできない「危機」が、この世には存在するのではないだろうか。


たしかに厳しいが、しかし深い洞察というべきであろう、「危機」への対処という意味においては。たしかに、このイエスの姿勢を「深淵」ととらえるのも正しいだろう。


 彼の滅び自体が「深淵」と言うべきである。しかしイエスには、既に杭架で殺される以前に、彼自身の深淵を持っていた。/そもそも、人間とは本質的に「深淵」そのものに他ならない。深淵のない人間なぞいないと言える。


同じ章に引用されたニーチェ箴言(「汝、久しく或る深淵を見入る時、その深淵もまた汝を見入る」『善悪の彼岸』)は、あれほどキリスト教を憎悪した世紀末の哲学者のことばであるにも関わらず、あるいはであるがゆえに、何よりも人間イエスの「終末」の時間を照らす、ある異様な光の源をこれ以上はなく鋭利に探り当てている。

 しかし、である。残念なことに、評者はここで佐藤の主張に全力で抗わねばならなくなる。詩人イエスの「詩」とは何か。


   彼の言葉がそれだけでも独自の「美」を放っているとすれば、それは何よりも、この新しい現実に賭けた彼の峻烈な想念の「美」であろう。/(中略)つまり彼の言葉としての「詩」の基には、彼の行為としての「詩」があったと言えるのである。詩人は、その人自身が「詩」である時、その全幅の説得力を発現するものであろう。


 蠱惑的な説得力を持った一節だ。だが、ことばを越えた「行為」の「美」は、やはりことばによって叙述されなければならない。たとえそれがどんなに謎めいた片言隻語であろうとも。あるいは不気味な神託に通ずる譫言のような表現であろうとも。「行為としての「詩」」、これほど魅力ある、そしていかがわしい概念はない。はじめにことばあり。ことばは神なりき。

 文学、いや必ずしも文学でなくてよい、ことばの力を信ずる者は一挙に「行為」へと「飛躍」してしまいたくなるサタンの誘惑に必死で耐えながら、徒労にちかいことばの煉瓦をひとつひとつ積み上げてゆかねばならない。これこそ、宗教(超越)と文学(世界)との間に広がる「深淵」なのだろうか。

 最後に一つ。本書には、《裏側から見たイエス伝とも評すべき、虚構的散文が三つ挟みこまれている。著者は「修飾文章」と謙遜するが、なかなかどうして挑発的で面白い。この調子でもっと長いものを書いていただけたら、ルナン(青くさい)やモーリヤック(抹香臭い)の伝記よりもずいぶん読みでのあるイエス伝ができあがったことだろう。

最後のイエス

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