逃げ水の記

 後輩空男氏に本を返すつもりで連絡してみると、幸い用事で元町にいるという。まだ午後もはやい時間だったので、ついでにいつもの水汲みもお願いする。

 新神戸を過ぎて、長峰の霊園下の橋のたもとにある湧き水の出どころまで車を走らせるのはいつもに同じ。同じでないのでは水が出ていないことである。ええっ?!まじっすか?!という気分。ずいぶん以前から三本あった湧出口のうち二本は涸れてしまっていたのだが、残る一本からは勢いよく水が噴き出ていたのでなんの心配もしていなかったというのに・・・それもちょろちょろ水とかいうのですらなく、たたいてもひねっても一滴も出そうにない完全な枯渇とは。

 今の家の前は兵庫駅の近くに二年半、その前は灘区高尾通(湧き水からまっすぐ西にいったあたり)に二年ほど、さらにその前は同区上野通にこれは五年近く住んでいた。上野通の古いアパート時代の後半にはすでにこの湧き水を発見(誰かに教えてもらったのかもしれない)していて、知る人ぞ知る長峰中学校前の壮絶な坂道を二十リットル入りのポリタンクを担ぎながら(!)下りた覚えがある。あのときはとにかくあまりの辛さに昏倒しそうになった。兵庫駅前の時には原付で(!!)汲みに行ったこともある。熊内通のへんでポリタンクが揺らいだあおりを喰ってバイクごとこけそうになったのだった。死んでてもおかしくない状況だった。

 で、今の五宮にはもう三年住んでいるから、都合十年はここの水ばかり呑んできたといっても言い過ぎではないだろう。水と一緒にこちらの心も枯渇してしまったような具合である。

 しかしここで茫然としているわけにもいかない。狼狽おさまらぬまま、スマートフォンで神戸市にある湧き水の場所を検索する(「売り水」を買う気にはやはりなれない)。比較的近くに見つかった、再度山大竜寺奥の院なる「弘法大師の霊水」を目指すことにする。名前からしてなんだか有難いではありませぬか。

 山麓線を北野を過ぎたところで北に曲がるとな。つまりこれはあれでしょうか、ビーナスブリッジに行く道なのでは。「週末だし、バカップルが多いかもしれませんな」と空男氏。さもあらん。しかしパンのみにて人は生くるものにはあらねども、水なしには一日とも生くべからず。

 さすが、なかなかに快適なつづら折りの道を登っていく。どんどん空気が冷えていくのがわかる。ビーナスブリッジをだいぶん手前にすぎて、すっかり山の中、という雰囲気になってきたころ、左手にそれらしい場所が見えてくる。山門の奥まで車が入れるようなので入ってみたら、すぐに行き止まり。そこから正面に石段が見えており、正式な(?)門がその上に立っている。

 「あの石段(十段くらいなのだが)を二十リットルを持って降りるのはツライね」とかなんとかいいながら門をくぐって二人とも言葉を失う。

 そこから目路のかぎり、苔むした石段が上へ上へと連なっているのだった。「奥の院」というからには、この石段の上なる伽藍の、さらに奥なのだろう。

 急に冷えまさってきたように感じながら、悄然として車にもどる。「お次はどこに参りましょうか」と空男氏。こちらはもう情けなくて涙がにじんできそうなのを必死にこらえて次の候補を検索。次は須磨区の「霊泉・命の水」とゆーとこにお願いします。

 着いたのは須磨寺のすぐ側。商店街がY字路にぶつかったところにある殺風景な交差点の一角に半地下のような掘り込みがあって、たしかにそれらしい看板が出ている。

 水量は充分。「生水では呑まないように」と注意書があったけれど、それは長峰の湧き水とても同じこと。やれうれしやとポリタンク四つをようやく充たすことが出来た。帰りついた(という気分)時には山の稜線がもう黒くなっていた。

 これだけ苦労して汲んだんだもの、料理も水を主体にせねば。というわけでこの日の献立は土瓶蒸し(松茸の代わりに平茸と大黒しめじ)に牡蠣入りの湯豆腐というなんとも強引にしてしゃばしゃばな取り合わせ。

 で、肝腎の水の味ですが、まずくなかった。しかし、どうせ長年愛飲しつづけてきた水が常用できないのだから、あらためて我が家の定番銘柄を探す必要がある(もう一度いうと、コストコかどっかでペットボトルを大量に買い込むコストと、空男氏に払うガソリン代やときにおごる酒代とくらべて、どちらが割安か、そういう観点はこちらには無いのである)。あるいは宍粟、あるいは篠山とこれから名水を探す旅が当分続きそうな気配である。空男氏に愛想づかしされないうちは。

 現実では水に逃げられた埋め合わせというわけではないけど、素敵な「水」の本を一冊。クラウディオ・マグリス『ドナウ ある川の伝記』(池内紀訳、NTT出版)である。イタリアのゲルマニスト(ドイツ文学者)だという著者が、文字通りドナウの水源からその終末である黒海までを、この川沿いに発展してきた都市(とゆかりの人々)のポルトレを連ねる形で描き出した。セリーヌ(作家のほうです)やカフカルカーチといったあたりならこちらにもすぐ呑み込めるが、ハンガリールーマニアの「国民作家」となるとさっぱりわからない。それでも大冊をほとんど一気に読み通せるのは、無味乾燥な地誌かありきたりな観光案内に堕せず、「文人学者」(訳者の表現による)の文体が、精神史の紋様をじつに精密に、そして優雅に浮かび上がらせているからだろう。

 訳者の池内さんはマグリスと同じ時期に同じ協会で学んでいたことがあるという。そして「自分がどうしても書きたかったようなスタイルの書物」だともいう。それかあらぬか、訳文はいつも以上に瀟洒を極めた見事な出来栄え、ほとんど池内さんが語っているがごとき趣でさえある。

  花をわすれ水におぼれぬ雁ならし とかや。


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