噴き上がる聖らかな泉

 前回噴き上がったのは呑みすぎた後輩の反吐であって、バッチイことこの上ないが、今回は嬉しい吹き上げ。『逃げ水の記』の項目では、十年来飲水を汲んできた六甲は長峰の湧水が完全に涸れてしまい、大騒ぎしたという話を書いた。

 やはり日常の使う水、とくにこちらは酒だけでなくお茶やコーヒーをがぶがぶ呑む方なので、比較的近い場所に旨い水が無いと困るのである。最近は雨が多く、ひょっとしたらあの湧水も復活してるやもしれぬ、と水汲み助っ人・空男氏にお願いして、大学に行くついでに確認してもらったところ、「頼もしい水量です」との返答。

 もっとも少し考えただけでもこれはおかしな話と分るので、「湧水」である以上、ここ最近に雨量が多かったどうかなぞ関係ないはずなのである。降った雨がすぐに地上に流れ出すようであれば、これは水たまりの水も同然。

 しかし湧いてると聞けば心動くのも否定しがたい。たしか水の上なるは一に秋の天水(雨水)、二に山水と、『茶経』かどっかに書いてあったわい、と(もう冬だけど)すこぶる我田引水的に記憶を引出してきて、ともかく現場にむかうことにした。

 見てみると、空男氏がいうとおりたしかに「頼もしい水量」である。少し違和感があるので水が噴出すパイプをしげしげ見たところ、どうも以前のより立派になっている気がする。空男も「ご近所の湧水ファンが、ここが涸れたのを憂えて修理してくれたかもしれませんね」と言う。ま、いずれにせよ生水で呑むわけでなし、危険な重金属が含まれてたらそれもわが運命よ、と覚悟を決めて(大げさだ)ポリタンク二つに汲む。

 清らかにあふれる水を見ていると、急に自分が二日酔いであることを思い出して無性に喉が渇いてきた。

 前日は呑み友達であるかっきーさんご贔屓の、新在家『ん』に初見参。かっきーさんの他にはひでさん、りょうちゃんも同道。いずれもいちばん気の許せる呑み友達。

 『ん』は古い仕舞屋を改造したとおぼしき、正直いうとキレイとは言い難い狭苦しい店ながら(格子窓を開けたところになぜか冷蔵庫が出て来たり、トイレに行くのに厨房の後ろを通っていったりするのだ)独特の風格アリ。きけばもう二十年になるそうな。

 新在家の近くに以前付合ってた子が住んでいたので、ある程度この辺りは知っているはずなのだが、さすがに阪神の駅の南側には足を向けたことが無かった(サザンモールのペットショップを除く)。

 『ん』の話に戻る。日本酒をウリにしているらしい。一升酒も辞さぬ当方としては、まさしく下地は好きなり御意はよし。とばかりに、他の三人は二合ばかり入りそうな、黒ヂョカぽい土瓶を分け合ってるのを横目に、一人でグラスをぐいぐいとやる。

 肴は豆腐(山葵と塩で。これはとくに言うべきことなし)。牛ロース、つくり(中トロヅケ、平目、鳥貝)あんきも、白子、ぶりかま。ぶりかまと鳥貝が旨かった。鳥貝は炭火で軽く焙って出すのである。生の貝の匂いが時々イヤになる質なので、これは嬉しい食べ方だった。

 酒はというと・・・うーん二日酔いになるくらいなので、はっきりとは覚えていないのですが、たしか『くどき上手』の古酒が旨かったような。少しクセのあるご主人ながら、何人かで行けばそう気にもならないでしょう(あまり多いと入れないだろうけど)。

 ともかく無事に水汲みを済ませて家に戻り、汲み立ての水でとっておきのダージリン(ジュンパナ)を淹れる。微かに霧がかかったような頭に、マスカテルの芳香が、まるで一条の陽光のように射込んでくるときの心持がまたたまらなくいい。江戸の昔から「下戸には分らぬ酔ひざめの水」と言うもんな。

 ちなみにこの日は兵庫区でも初雪が舞っていました。


 読んだ本。

*エリス・ピーターズの「修道士カドフェル」シリーズを何冊か:十字軍でも活躍し、数多の女性遍歴もしてきた主人公(修道士)の肖像がいい。もう少し中世中世した暗さがあったらいいんだけど。

*『トウガラシの戦略』:「おいしさの科学」というシリーズもの。晩酌しながらぱらぱらめくるのに最適なシリーズです。

*『ドイツ菓子大全』:柴田書店。これも《食事の友》的な本であるが、いかんせんでかすぎる。

*前田勉『江戸の読書会 会読の思想史』:文字通り、(講義ならぬ)《会読》という形式がいかに儒学国学蘭学の研究を活性化したかという切口からの江戸思想史のスケッチ。一応国学にも触れているが、儒学蘭学に比べてどうも《講義》臭が強いような気がする。これは思想的特性とも関連してくるのだろうか。など色々刺戟してくれた本。

*『船越保武全随筆集 巨岩と花びら他』:物を食う黒人と詩人(大詩人)中野重治のスケッチがすばらしい。しかし画家・彫刻家や音楽家にはじつに文章が上手い人が多い。日々メティエを向きあっている人種だと、またことばに対するにも《もの》に対する感覚が出てくるのだろうか。

*クラウス・ドッズ『地政学とは何か』:少し期待はずれ。筆者によれば地政学の隣接科学として「より客観的でより決定論的でない」政治地理学というのがあるそうだが、素人読者には地政学と政治地理学との違いがピンとこない。つまりこの本がよく言えば客観的、悪く言えばおっかなびっくりの叙述に終始している。もう少し具体的なトピック(たとえば第五章で扱ったいくつか)を〝危険に″分析してみせてほしかった。訳者解説もないのでどんな位置付けになる本か分らない。

小田島雄志『ぼくは人生の観客です』:「私の履歴書」の一冊。読み始めてあっというまに現在に至ってしまうので、残りはどうなるのかとはらはらしたが、そこは劇評が続いているのであった。それは別にいいのですが、この本を手に取る人全員が興味津々だったであろうこと、つまり小田島教授(名誉教授)のだじゃれ癖がどうやって始ったのかについてはついに分らず(と書いてしまうと、この本売れなくなっちゃうか!)。

齋藤海仁『なんて面白すぎる博物館』:お酢とか(ミツカン直営)、ヘビ類とか(これは国立らしい)、拷問(明治大附属)とか一風変った博物館ばかりを訪ね歩いた本。たぶん類書は山ほどあるのだろうが(そのうちの尤なるものを『ウィルソン氏の驚異の陳列室』とする)、文章がサービス過剰に堕せず、とはつまりおっとりした品格があるのは珍重に値します。あと一点、博物館を訪ねたときに入った食べ物屋(ミュゼ中の食堂もあるが、中には博物館とはほとんど関係ない店もある)の記事が添えられているのもなんだか可笑しくて、好もしい。

鈴木健一林羅山』・小南一郎『中国の神話と物語り 古小説史の展開』・竹谷長二郎『頼山陽書画題跋評釈』:この三著は個人的なおベンキョーの為の本なれば感想は略す。

 しかし!今回の「馬読」(というほど読んで無いけど)の白眉はなんといっても次の二冊であります。まだ記事は続きますよ。


羽入辰郎マックス・ヴェーバーの犯罪 『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』:出版当時(2009年)、かなり話題になったようだから(毎日新聞の書評集でも、何人もの人が「今年の三冊」に取上げていた)、何を今さらという感じですけど。それにしても面白かったなあ。文献学的な証明過程それ自体が、陳腐な言い方だがまるで推理小説のように興奮させられるのはいうまでもない。しかしそれにしても、ヴェーバーがここまでの「詐術」をかましてるとは。ただただ驚くしかない。だって絶対にすぐばれるような嘘(詭弁?)なんだもの。それは裏返せば、歴代のヴェーバー研究者がアホぞろいだったということである。いや、アホというより篤信のあげくの頑迷不霊というべきか。当方、仕事で生徒に「倫理」科目を教えることもあるのだけれど、これからは真面目な顔で「プロ倫」の名前を出せなくなりそうである。

イーヴリン・ウォー『卑しい肉体』:これは「双魚書房通信」の方で取上げたかった!しかし九月刊とあって、いくらなんでも《新刊書評》の枠には不適当と思い切った、しかしめぼしい書評も無さそうでもあるし、ウォー好きとしてはぜひ紹介しておかなきゃ、という一冊。舞台は両大戦間期の英国。《ブライト・ヤング・ピープル》と呼ばれる、主としてジャーナリズムで活躍したボヘミアン志向の若者達の狂騒と幻滅を描く・・・とまとめると、『グレート・ギャツビー』の英国版?と思われそうだが、心優しきフィッツジェラルドの感傷はここにはない。だって『黒いいたづら』(なんとも紹介のしようがない)と『大転落』(賛美歌が流れる中、同房の囚人(気が狂っている)に囚人が鋸で首を引き落される場面が有名)のウォーなんだから。だから、たとえば筋書は行き当りばったり、ご都合主義に展開する(登場人物はいともあっさりと職を得、またすぐにそれを失い、そしてじつにあっさりと死んでしまう)。人物は型通りに描かれる(退役軍人やイエズス会士の肖像を見よ)。そして、ふんだんに笑いと皮肉がばらまかれている(ほぼ二ページに一度は笑わされる)。肝腎なのは全篇を通じて続く乱痴気騒ぎから、あの人生というとらえどころのない、気持の悪いものの実感が、妙に生々しく立上がってくるというからくりである。それはウォー自身がこの《ブライト・ヤング・ピープル》の一員であったゆえのリアリティなのかもしれない。しかしそれ以上に、フロベールトルストイの行き方でなく人生をつかまえるならこの手でいくしかないという明晰な諦念によるところも大きい(後年のウォーはこの作品を嫌っていたそうだが)。これを読んで気に入った人には、同じく《ブライト・ヤング・ピープル》だったアントニー・パウエルの『午後の人々』もおすすめする。訳者もふれているが、小山良太さんの見事な翻訳があります。

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卑しい肉体 (20世紀イギリス小説個性派セレクション)

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