教祖の亡霊

 先週末に行われた、大学入試センター試験の出題を批判する(なんだか丸谷才一風)。殺風景な話題を持ち出すのは当ブログの趣旨にも反するが、たまには仕方ない。

 話は国語の第一問に係る。出典は小林秀雄の「鐔」。大体がくだらぬ文章だと思うがそもそもなんで今頃小林秀雄なのか。

 「批評家の元祖」とか「批評の神様」とかいった極めの付くことが多いけれど、この人は要するに合気道の「達人」なのである。エイッと気合いを入れると、その道に習熟した人が巧くそれを受けてひっくり返る。そういう文章を一生綴っていた奇人ということ。奇人だから悪いというわけではない。ないが、しかし、偏頗と形容したくなる、そのずいぶんときつい個性(というか趣味というか)に好悪が分かれるのは当然だろう。少なくとも当方にとっては(このブログで何度も書いたことだが)、モノが重要と説きながら、その実モノに触れて動き出す精神の軌跡よりはむしろイデオロジックな裁断を感じさせることの多い行文の間から、近代的に自意識過剰な書き手のせわしない手振りやいらだたしげな表情ばかりがクローズ・アップされて、鼻をつまみたくなる思いをさせられることが多いのは確かな経験といえる。

 いや、こちらの如き閑人の趣味などどうでもいいので、どう贔屓目に見ても論理的とは言い難い文章家(一種の文章家であることは認めざるを得ない)が、着実な読解と健全な思考とをみるはずの(おそらくそうだろう)、センター試験現代文の問題に出されてよいわけがない。

 そもそもセンター試験という試験制度自体が、害の多い、少なくとも副作用のきついもので、廃止したほうが国家百年の計のためにはいいことはわかりきっている。百歩譲って制度の存続を認めるとしても、なぜ安吾のいわゆる「教祖の文学」なのか。文科省は宗教団体なのか(点数に対するフェティシズムという意味では宗教ではなく呪術と称すべきか)。

 またしても百歩譲って小林秀雄を出すとしても、なぜ社会評論的な文章でなく、芸術論か。「教祖」の個性(体臭?)に敏い人間にしか通じない、それこそ秘教的な批評領域ではないか。

 ええい、毒食らわば皿までじゃ、太っ腹にもう一回百歩譲って芸術論を認めるとしても、よりによって「鐔」とはねえ。率直にいえば、これは教祖の悪い面がいちばんはっきり出た一篇である。鐔という造型行為を経た上で存在する客観的対象を、鑑賞者(でも教祖の口吻をまねれば「いぢくる」者でもよいが)がどのように見て取ったか、その感性が思考の裏打ちによってくっきりと紋章化され描き出されている(芸術論とはそういうものであるはずだ)、と言えるのはよほどの教祖心酔者ないし篤信者でないと無理だろう。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの精神という構造物を鮮やかに透視したヴァレリーや、クレーの手の動きに自らの目を同化した吉田秀和ほどでなくても、せめて『無常といふ事』の中の「骨董」「真贋」「鉄斎」などの作品ならばまだしも、一応論旨の糸はたぐってゆくことが可能だったのに。

 あれだけの人員(知っている大学教員は「一年でもっとも憂鬱な行事」と言った)と金をかけてこの体たらくでは何より受験生がかわいそうだし、教祖自身も草葉の陰で舌打ちしていることだろう。三百歩譲ったのでは、アメフトでは一発で負けてしまうではないか。孟子さまもあきれて教訓を垂れることが出来ないに違いない。

 出題者の思考力を疑う。そして趣味の悪さに辟易する。

 とワルクチばかりでは書いてる方も読んでる方も気が滅入りますな。最近読んだ、これは文句なしに極上の本たちを何冊か。

玄侑宗久編『禅寺モノがたり』・・・文字通り禅寺の様々な法具や生活(?)道具の性格と起源とを紹介した本。まったくの門外漢に向けて書かれた(もとは雑誌連載)ものだから、イラスト入りで平易に説かれているが、知らないことばかりで実に面白かった。ま、これは当然なのだが、個人的には別の感銘もある。というのは、ユダヤ・キリスト・イスラム教の教義には疎ましさしか覚えず、逆に仏説には近しいものを感じる人間だけれど、禅はこれまで敬して遠ざけてきた。妙に悟りすましたような(いや、これは当たり前か)、洒落(しゃらく、と訓んでいただきたい)を気取る(と映る)禅坊主の臭みが嫌だったのである。頓悟より漸悟を好ましく思う、鈍な性分によるのかもしれない。ともかく、その偏見の少なくとも一部がこの本によって吹き払われた気がした。それぞれに細かい由来を持ったモノに囲まれ、それをきちんと定められた手順・態度でもって細心・敬虔に扱うことの繰り返しそのものが修行の内実となる、というあり方は、こちらが関心を持っているイエズス会の「霊操」と存外に親和するものではないか、と気づかされたのである。道元のいう「修証一等」とはこういう境地を指すのかもしれない(念のためにいえば、この本は臨済宗の寺院について書かれたものである)。

レドモンド・オハンロンコンゴ・ジャーニー』上下・・・いやあ、おもしろいとしか言いようがない。中央アフリカにある謎の湖に棲む伝説の怪獣モケレ・ムベンベを探す旅を描いたノン・フィクション。むろん怪獣が発見されるはずはないから(されてたら世界中が大騒ぎになる)、そこに至るまでの、カフカ的な官僚主義的不条理の連続(ほとんど小説)と自然描写、それにジャングルの中(これはピグミー)と周縁(これはバンツー族)に棲む人々の呪術的思考の闇の深さ、で読ませるのである。ことに最後の要素の迫力は圧倒的なもので、折口信夫がこういう世界を知っていたらどれほど昂奮したことだろうと、こちらも妄想してコーフンさせられたことであった。

川戸貞吉『落語大百科』全五巻・・・江戸落語に関してはよく分からんが、上方・江戸を併せて、ほぼ全ての演目を網羅しているのではないか。落語を、味気ないあらすじでなく、とんとんとリズミカルな文章で紹介した手際はなかなか。最後に演目ごとに「おすすめの噺家」が紹介されているのもよい。ただし「あとがき」は読まぬがよろしい。筆者の精神の湿気た部分が見えて嫌な気分になる。

藤森照信藤森照信、素材の旅』・・・文字通り、「聚楽土」や「大理石」、「栗材」といった、「草木」「土石」に類する素材を日本中に尋ねまわる旅。建築家でもあり、建築史家でもある筆者ならではの一言が随所で光る。なめるように愛おしむように頁を繰っていった。いやそれにしても、広葉樹はすばらしい。くたばれ、スギヒノキ!(花粉症だからいうのではない)

村田喜代子『偏愛ムラタ美術館―発掘篇』・・・とくにいうことはないけど、楽しめました。

・A.M.ホカート『王権』・・・十二月の岩波文庫はヒット揃いでした。これは各地の王権に共通する思考体系を描き出した構造主義的宗教研究の古典、であるらしい。しかしこれは手元において、随時参照すべき性質の本である。

 サイードの『サイード音楽評論』は必ず双魚書房通信で取り上げます。も少しお待ち下さい。

 最後は、先週のわがヒット作(料理のことです)。

・飯蛸の天ぷら・・・毎度桜煮でも芸がないなあ、と思って天ぷらに揚げてみた。コツは揚げる前に、酒と出し汁(塩・醤油・味醂は用いず)で薄味を煮含めておくこと。これはやっぱしビール。
・牡蠣入り粕汁・・・他に入れるのは大根と人参だけ。仕上げに芹のこまごまをたっぷりとへぎ柚子を散らす。
・鶏皮と海老芋の旨煮・・・鶏皮だけを酒煮しておく。これはこっくりと味付けしたほうがよい。生姜の風味を効かせる。鶏皮は、前項で書いた、田舎の平飼い鶏のだったからいい意味で鶏くさくて旨かった。普通にスーパーで売ってる鶏皮なら、芋ともども片栗粉をまぶして揚げ出しにした方がよいかも知れない。

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