詩人の伝記

 最近、必要があって日本史・世界史の通史をずっと読んでいる。通史を横から見るための入門書や研究書を手に取ることもある。面白いものもあればつまらないものもあるのはもちろん他のジャンルの本と一緒。

 ただ、上出来の一冊に出会ったときの喜びは同じくらい良く書けた本であっても、たとえば哲学や科学に比べるとずっとこちらを昂奮させてくれる度合いが強いような気がする。単に当方に哲学的センスや科学の基礎教養が欠けているだけなのかもしれないが。

 ちなみに言えば、文学はここには入らない。文学=良く書けた文章というのがこちらの牢として抜くべからざる偏見がある。だから「良く書けていない文学の本」というのは定義上、存在しえないのである。

 それはさておき。刊行年度を問わず最近読んだ中で、面白いなーと唸ってしまった歴史の本三冊を紹介したい。

 一冊目は櫻井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済の間』(中公新書)。たぶん、読売新聞の書評欄で、ロバート・キャンベルさんが「今年の収穫」としてあげていたはず。キャンベルさんはそこで「高度に専門的な内容を平易に説くのが新書の本来だが、この本の場合、研究内容自体が従来にない独創的なものなので、二重に楽しめる」という趣旨のことを書いてらした。一読してみると、なるほど聞きしにたがわぬ面白さ。経済史は、少なくとも経済オンチのこちらにとってはいちばん退屈な方面、と思っていたのだがこれは全然違う。ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』を詠んだ時の衝撃に匹敵した。主題はまさしく「儀礼と経済の間」にあってどちらの様相も兼ね備える「贈与」という経済(?)形態が、日本の中世にあっていかに大きな役割を演じていたか、という点にある。

 面白いのは贈与という行為(好意ではなく、じゅうぶんに社会化された、つまり制度となっているもの)を通じて、ある意味現代人の顔色なからしむるドライさ・即物性をもっていた中世人のメンタリティーが鮮やかに浮かび上がってくるところ。その一方で、いわゆる鎌倉新仏教に「救済」を求めて殺到した時代でもあるのだからな。うーん、一筋縄ではいきません。山崎正和氏の「江戸は日本の伝統の正統ではない」という持論や、養老孟司氏のいう「身体が存在した中世(身体を喪失させた近世)」という見取り図ともつながりそうな。ともかく、伏見宮貞成親王という皇族の肖像が秀逸。貧乏で贈与のやりくり工面ばかりしているのだ。ちょっと小説の主人公にもしたくなるような、面白さをもった人物である。

 この調子で書いてたんでは題名にまでいきつかなくなってしまう。あと二冊を駆け足で挙げますと・・・

トニー・ジャット『ヨーロッパ戦後史上下』(みすず書房):一度紹介した『失われた二〇世紀』の面白さに惹かれてこの大著に取りついたのだが、圧倒的なデータ量と、それをさばききる溌剌とした文章の冴え。これを読んだ上で遺著となってしまった『記憶の山荘』をゆっくり楽しむつもりなのである。

杉田英明『葡萄樹の見える回廊 中東・地中海文化と東西交渉』(岩波書店)。:「薔薇水」などのモノから「火蛾」・「走れメロス」といった美術・文学上の主題を取り上げて、イスラム文化圏から遠く中国・日本の文明との交流の様を考証した、これも大著。詩文の引用には必ず原語を付すなど、学問的な厳密さは貫かれているけれど、全体に南方熊楠金関丈夫といった文人学者の風韻が感じられるのがいい。それにしても中世ペルシャ、アラビア文化の豪奢にして繊麗なること。遠く思いをいたしているとぼうっとしてくるばかりである。

 ま、本題とてなき閑文字ブログですが、今回言いたかったのは、同じ歴史という土俵にのっているようでも、伝記はやっぱり文学だなあ、ということ。

 そんなの当然でしょうが。と言われたらこちらの不明を恥じるよりほかないですが、これもたまたま最近読んだ伝記二冊に、痛切にそれを感じたのである。二冊とは沓掛良彦式子内親王私抄』(ミネルヴァ書房)と長谷川郁夫『堀口大學 詩は一生の長い道』(河出書房新社)。

 枯骨閑人・沓掛良彦先生はホメロスの『諸神讃歌』やルイスの『アフロディテ』、オウィディウス『アルス・アマトリア』の名訳者として、かねてから尊敬していた文人であり、長谷川郁夫さんは瀟洒な文芸書専門の出版人として、これまた偉い人だと思っていた。篠田一士や川村二郎の本をたくさん読めたのも、『柴田宵曲文集』なんて極シブにシブい全集が出せたのも小澤書店の偉業である。

 で、お二人が対象としてとりあげたのが式子内親王堀口大學。これは面白くならないはずはない!と意気込んで手に取ったのですが、ここからの話は正直どうも具合がわるい。

 おそらく、伝記と評論の両方を一ぺんにおさえようとする、あの評伝という行き方が良くなかったのではないですかねえ。批評に徹するなら、たとえば安東次男の『藤原定家』や丸谷才一後鳥羽院』という好例があるし(筑摩「日本詩人選」は今から思えばずいぶん高級な企画であった)、伝記一本にしぼったところでも、河盛好蔵『パリの憂愁―ボードレールとその時代』や管野昭正『ステファヌ・マラルメ』の成功があったはずである。いや、評伝にしたって、はじめから覚悟して(ここが肝腎)「詩文の世界に悠々と遊ぶ」ことにしていれば、『頼山陽とその時代』のノンシャランスな魅力は手に入れることが出来たと思う。

 式子内親王の歌に、他の新古今歌人には見られない痛切さ・翳り(うーんしかし、やはり良経の幽暗は無視しがたい)があるのはたしかだとして、それを式子の人生に還元してしまったのでは、肝心要の歌の魅力が(沓掛先生自身、そのことばの繊細きわまりない姿に幾度も言及している)かえって色あせてしまうように思えて仕方がない。とくに中国文学と違って思想性・政治性に乏しく、抒情一本槍に徹した、あまりにも繊巧にして湿った(念のため言えば、以上は沓掛先生がこの本の中で指摘する日本文学の特質である)詩の解明にこの手を使うのは、ある意味自分から罠にはまり込んでいくようなものではないか。長谷川氏の本にしても、第二次大戦までで終えてしまっているのは、こうした外的状況と作品の内面とを結びつけるのが、戦後では難しかったからではないか、と勘ぐりたくなる(何しろ堀口大學は長命だったし)。

 と書いていくとクサしてばっかりいるようですが、そしてたしかに長所よりも欠点が目に立つような読書経験ではあったのですが、何しろ相手は詩人である。ことばでもっ一乾坤をきづくことで生きている連中である。ある意味伝記に一等不向きな種族を扱ってなおかつ伝記としての読み応えを感じさせてくれるような作物に出会えたら、発明家やら政治家やら宗教家の伝記よりも、そして政治史や文化史を読むよりも数段手の込んだ快楽になることは間違いないのである。



・・そういえば最近料理の話、してないなあ。一品だけ取って付けたように紹介します。干し大根と豚肉の中華風。大根は切り干しより割干しのほうがぱりぱりして旨い(と思う)。豚肉はバラの薄切り。熱湯で戻して、さっと湯がいておいた大根と豚肉を、生姜の香りを付けた胡麻油で炒める。あ、干し椎茸を戻したものを入れると上等な味に仕上がります。味付けは酒・砂糖・醤油・鶏ガラスープ・豆豉(干し椎茸の戻し汁も)、仕上げに粉山椒。生の大根より旨味が濃くていいですよ。酒の肴にはやや味が濃すぎるけど。

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