春のすき焼き

 すき焼きに旬なぞないでしょうが、いかにも春らしいすき焼きを食ったという話。

 職場の清掃をお願いしている方から、菜園(事務所の傍らにある)取れたての青葱を、文字通り山ほどいただいた。この一週間くらい、気温にも日差しにも恵まれただけあって、青々とはちきれんばかり。

 薬味程度で消費しきれる量ではないから、夕餉の菜は当然ながらこの葱が中心となる。

 ネギ焼きか、とも一瞬思ったけど、どこかピンとこない。献立を決めるときには、こういう微妙な感覚に従うのが重要なので(家族持ちの方は別の基準もあるのでしょうが)、頭を白紙に戻してスーパーをうろうろしていたら、「特選和牛半額!」の文字が目に入る。

 別に今日でなくっても、いつも「半額!」の店なのだが、なんだか気分がよろしいではありませぬか。すき焼きに決定。パックをあるだけ籠に放り込む。妻をめとらば才たけて、肉を食らわばキロ単位。

 煮た肉を生卵にからめて何が旨いのか・・・?と子どもの時分から疑問を抱いていた。その上砂糖醤油味というやつが苦手である。だからすき焼きといってもかなり我流になる。

 出汁は昆布だけ。鰹も使えば旨味が増すのはわかってるけど、なんでもかんでも鰹昆布出汁では、刺身も麻婆豆腐もリゾットもあり、の居酒屋みたいで(この比喩、変かな)つまらない。その代わり昆布はうんと張り込む。

 牛脂を引いて肉の片側だけを焼き、裏返さずに(ここ大切)味醂1に酒5を合わせたものをさっとかけ、沸いたところで魚醤(今回はいかなご魚醤を使用)を一、二滴、焦がすようにたらし、昆布出汁もたらす(煮るのではなく炒りつけるように)。この時点で肉の片側はまだほのかに桃色をしているくらいがよろしい。できあがったところに山椒をちょっぴりふって頬張る。

 肉をひとしきり食べたら、野菜にうつる。もちろん主役は青葱ですが、糸こんにゃく・焼き豆腐・椎茸の類は入れない。キノコは平茸とエリンギを使う。あとは新牛蒡のささがきと、独活(消しゴム大の薄切りで、酢水にさらしてアクを抜いておく)、あとあればぜひ芹を入れて下さい。野菜もだぶだぶの汁で煮込むのではなく、肉の脂で炒りつけた後、少量の出汁・醤油をかけ回すようにして仕上げる。

 これを繰り返すのだから手間のかかることおびただしいけれど、めったにしないすき焼きだしね、これくらいの面倒を厭ってはいられない。酒は黒松剣菱の、この時期しかないとかいう純米と、香住鶴。口が粘ったらビール。

 休日前だったので、たっぷり時間をかけて食べる。もちろん本も読みながら。


ぺりかん社『日本思想史 3 近世』:よくも悪くもオーソドックス。岩波から日本思想講座の叢書も出るみたいだし、それやら鷲田小彌太さんの『哲学者列伝』(シリーズ「日本人の哲学」)とも読み合わせなければならない。

*『神道の美術』(平凡社コロナブックス):これは見て娯しむ本。前から好きだった、春日の神様の影向図をじっくり眺める。

*カルターリ『西欧古代神話図像大鑑〜全訳『古人たちの神々の姿について』』(八坂書房):これも読むというよりは興味あるページを翻すという感じ。なにしろ大冊なので、そういう読み方しか出来ないせいもあるけれど。

*ギヨ・ド・セ編『オスカー・ワイルドのコント集』(アート・ダイジェスト):談話の名手だったワイルドがギリシア神話キリスト教説話を題材に・・・ここからがややこしいのだが、書いたのではなく語った(とおぼしい)掌編集。これぞワイルド・ワールドという話ばかり。すなわち異教的古代、逸楽、宝石、怪物、男色、犯罪。素材の偏向だけでなく、皮肉と機知と逆説にも、むろん事欠かない。たとえばイエス説話。彼が視力を与えてやった(元)盲者は、今や若い娘を淫らな目つきで追うのに必死である。赦しを与えた遊び女は一向に悔悟せずに元の生活を繰り返す。そして死から甦らせた男は、頭を抱えて座り込んでいる。男は言う、「私は死からこの世に戻されました、どうし悲しくないわけがありましょう」。こういう要約ではつまらなくなるが、原文はもっと面白い・・・と言いたいのだが、どこかもう一つ、ワイルドのあのぞくぞくするような(glittering)才気の冴えが無いようなのは、記者の筆のせいか、翻訳のせいか。どこか積もった埃塵を通して宝玉のもとの耀きを想像してるようなおもむき。

小林信彦『私の東京地図』(筑摩書房):あとがきにもあるとおり、著者のこの手の本としては三冊目。えらく文体が枯れたなあ・・・と思いつつ読んでいくと、突然あの、小林信彦的(と形容するしかない、ずいぶん個性がきつい)視点が出てくるのが嬉しい。

鶴岡真弓編著『すぐわかるヨーロッパの装飾文様』(東京美術):これも見て愉しむ本。しかし酒を呑みながらなので、各種の文様にうっとりするよりも、変な知識に目がいく。たとえば、紋章における猪・豚の地位の逆転。中世までは猪=勇気、豚=貪欲の象徴だったのが、だんだんと評価が逆転して、豚はキリスト教的な動物、反対に猪は悪魔の化身となったのだそうな。そのきっかけは、当時猛威をふるった麦角病の治癒に豚の脂が有効だったため、だと。ふーんと感心しながらこちらは牛の脂身をまたつつく。

井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』(講談社選書メチエ):江戸初期から中期にかけて全国の神社・神職に絶大な影響力を振るった自称「唯一」神道の宗家である吉田神道の盛衰を描く。はしゃぎすぎの文章が少なからず煩わしいものの、内容は実に面白い!写真で見た吉田神社京都大学のすぐ側にある)の「斎場所大元宮」なる社殿の醜怪さに怖気をふるって、受験に行った時もお参りはしなかった。京大に落ちたのはそのせいである、と固く信じ込んでいるといういきさつがあって、この吉田神道にはどうも胡散臭いイメージがつきまとっていたのだが、まさしくその胡散臭さ(と、特異な魅力)が明快に描かれる。いやあ、しかし伊勢神道にケンカを売るとは凄いねえ。同時に近世が儒学だけでなく神道ルネサンスの時代でもあったことが分かった。

トーマス・C・フォースター『大学教授のように小説を読む方法』(白水社):題名通りの内容。ノースラップ・フライ流儀の(多分そうだろう)批評装置を通せば、これこれの小説の「意味」はほら、ごらんのとおり。という仕掛けの本。こちらは長大な冗談として読んだからおもしろかったけど、アメリカ(学者、というより研究者天国)のいわゆる英文学教授というのは、まことにくだらん研究してるヤツが多いんだな、とサクゼンとさせられもする。いや、それは日本の文学部も同じか。

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