王としての樹木

 詩人・多田智満子の「桂の清水」というエッセーがある(『森の世界爺』所収)。根元から滾々と清水を噴き上げる桂の大木を見に行ったという話から始まって、神話的思考への愛着を公言していた多田さんらしく、最後は樹木と水と聖なるものとの関連性というか一体性の洞察にまで至る一篇。繰り返し読んで飽きさせないのは、もちろん内容の充実のせいもあるし、多田さんの端正な行文の魅力によるところも大きいけれど、こちらにはそれに加えてすこぶる形而下的な理由もあった。つまり、文章の主役である桂、その根元を流れる水が飲みたくて仕方がなかったのである。

 多田さんや木の呼び名や所在について、具体的なことは全く記していない。それでも文中の情報を継ぎ合わせて、但馬は美方郡なる但馬高原植物園の桂だろうと見当をつけていた。

 その名を「和池の大桂」という。正体は知れたけれど、なにしろ遠い。時折まだ見ぬ大樹の面影を思っては、居てもたってもいられない衝動に駆られていたところ、例の運転手役空男氏と当方の休みが重なる日があったので、奇貨おくべからずと空男氏にメイル。こちらの憧憬を知っていた(しつこいくらいに聞かされていた)空男氏からすぐ応諾の返事あり。

 で、昨日、朝の九時半に迎えに来てもらって植物園へ向かったわけです。

 二度ほど出張で豊岡に行ったことはあるが、改めて車を走らせてみると、兵庫は縦に長い県であることを実感。まあそれでも快晴の下、吹き渡る乾いた風を受けながらドライブして気分の悪かろうはずはないので、舞鶴若狭道の両側に広がる田園風景を見て、オッサン二人、「いいですなあ」かわるがわるに言っているうち、「但馬蔵」なる道の駅には、主観的にはあっさりと到着。地元産の豆味噌や葉唐辛子の佃煮(名物の朝倉山椒は時期が少し早いということで売ってなかった。残念)を買い、やけに広いレストランで但馬牛の牛丼というやつを注文する。

 牛丼は牛丼であり、旨くも不味くもなし。

 そこから朝来市内を抜けるまでは普通だったが、尋常でないのは植物園への案内看板が出始めてからである。かなりの勾配でくねくねと曲がる道を走っても走っても、それらしい施設が見えてこない。ひたすら森の間を登って、二人ともやや不安を感じ出したころに入り口が出現。文字通り「高原」植物園なのであった。

 何はともあれ大桂、と清流を遡る格好で向かう。しばらく手を浸けると、指先が痛くなってくるほどに冷たい。

 眷恋の相手は、谷地を扇と見立てるなら、その要に当たるところに聳えていた。根は大きくくびれて流れをまたぐ形になっている。つまり下流から見れば本当に木から清らかな泉が噴き上げているように見える。

 ただただ圧倒された。

 多田さんは記紀の山幸彦の物語を引いて、「ゆつかつら(聖なる桂)」ということばを紹介している。十数本もの木が簇生して一本の木を成す樹容は桂特有のものだが、幹回りの太さといい、苔むした樹皮の荘厳さといい、そして何よりまるで谷の王者のようなその位置といい、文字通りに人智を超える巨大なものが現前していることが体感される。

 見上げると、おやみなく吹く風に樹冠部の枝がゆっくりと揺れている。葉ずれの音が聖なる呪言のように聞こえてくる。

 ただただ圧倒される。

 莫迦はどこにでもいるもので、山歩きの格好をした中年の夫婦者はお互いの顔をカメラで撮りあって喜んでいる。植物園に一体何をしに来ているのか、と軽侮の念をおぼえる前に、まずこの王者に対する礼を失して平気でいられる感性(の鈍さ)に驚く。

 もっともこちらも王なる桂に丁重に断りを言った上で、スマートフォンで撮影。このブログは文章しか載せないことにしているが、これは例外。もって王の風貌をよろしくご想像あるべし。

 清流の水を汲んで飲む。やわらかで、しかも甘い(近くの水汲み場では二十リットル百円でこの水を販売している。もちろんポリタンク二つ分を買って帰った)。

 植物園全体はほどよく、というのは注意深く見ないと意識させられない程度に手が入り、すこぶる雰囲気が良かったし、こちらの誕生花(?)である二輪草が咲いているのを実見できたのも嬉しかったが(ちなみに二輪草の花言葉は「先入観」だそうな、わはは)、あまりに大桂の印象が強かったので、どうしても記述はおざなりになってしまう、だから書かないのである。

 ここが天空にかかる樂園としたら、「下」の俗界との隔絶はおそるべきもので、車窓からぼーっと眺めているだけでも、『喫茶 新宿』だとか(なんじゃそりゃ)、「柏餅あります」とドアに貼った「イタリアンレストラン」だとか(アジア的混沌!)、「山田風太郎記念館」だとか(くのいち忍法帖の蝋人形でも展示しているのか)、なんだか、但馬、油断できない感じである。

 神戸に着くと、日は落ちかかっているのにむしろ気温は高く感じられる。久々に入った六甲道は『刀屋』の美酒で乾杯しつつ(トマトのピクルスも子持ち烏賊も長芋のわさび漬けも旨かった)、ともすれば王の呟きを思い返している自分に気付く。

 そのうち新興宗教を開くつもりです。

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