ここにも大樹有り〜九州旅行②〜

 午後はグラバー園から造船ドックのほうに回り、さらに余裕があればペンギン水族園も…と思っていたがこの日の午後はグラバー園大浦天主堂のみで手一杯。いうまでもなくビールの飲み過ぎのせいだけど、初めての街を知るには歩くに如かず、とバス・タクシーは一回も使わずにひたすら歩き通したのは我ながら偉い。とくに丘の上にあるグラバー園まで、エスカレーターに乗らず、二二〇段だかの階段をせっせこ上っていったのは偉い、というより、関西弁でいうところの「エライ」ことであった。頂上では地元のおばさんに「まあよく階段なんかでのぼってこられたこと、ごくろうさま」とあきれられる。

 しかしそれだけの価値は充分にある。「耕して天に至る」という表現がふと思い浮かんだほど、馬蹄形に湾を取り囲む街並みが急な角度で山の上へ上へと迫り上がっていく特異な眺めは、やはりこうして一歩一歩踏みしめながらでないと体感できるはずがない(一気にタクシーなりエスカレーターなりでてっぺんに行き着いたら、おそらく「わーきれー」で終わってしまうであろう)。

 そう、つまり我が神戸とは、異国的な風景といい、海に迫る山の斜面に街並みが広がる形状といい、明らかに共通するものが多いにもかかわらず、長崎はどこか(むろんいい意味で)変わってるのである。通りすがりといってよい旅行者の臆断は控えるのが礼儀だろうが、あえて推測を逞しくすれば、それはやはりこの街が神戸とは違い、江戸の初めからの歴史を積み上げてきたということに帰着するのだろう。

 そう考えると、グラバー園なる市内有数の観光名所(ここは時間も昼過ぎとあって多くの観光客で賑わっていた)は、実はアイロニーに満ちた名所だといえるかもしれない。近世の鎖国体制に終止符を打った人々の記念という意味では、江戸文明の中で特権的な地位を占めていた長崎という街にしか出現の可能性が無かった場所であるにもかかわらず、グラバーや坂本龍馬の目論見が成功を収めた、まさにそのことによって特権的な地位と魅惑とを失ってしまったのは他ならぬ長崎でもあるからである。

 いわゆる名所でも思弁(妄想?)にふけってしまうのはわが悪癖。しかし決してここの眺望をなおざりにしていたわけではない。五月ならではの輝かしい陽光と爽やかな風との交響は充分に愉しんだ。というより、汗みずくの体には陽光はともかく、この風はなによりのご馳走だった。

 ホテルに荷物を取りに戻って、そのまま長崎駅へ。向かうは佐賀・武雄温泉。ここは当初予定に入れていなかったが、学部・大学院時代の友人が住んでいて、そのお誘いを受けたのである。どうせ予定などあってないような旅ではあるし。

 武雄温泉。降り立つと見事に何もない。駅の近くに市役所もあるというからには、この辺りが市の中心部らしいけど。果てしなく続く(と思える)国道沿いを、ともあれ温泉街まで歩く。友人と夕食を食べるつもりなので、料理旅館風のところは避けて、ビジネスホテルに宿を取る。

 ここの温泉は辰野金吾の設計になる楼門が有名なのだけれど、てくてく歩いて道を曲がったところに聳えている・・・はずの楼門は姫路城状態。つまり、修復工事とかですっぽりシートで掩われている。まじっすかー。

 一気に噴き出した疲労を抱えたまま元湯へ。あとで友人は「ぼろかったでしょ」と言っていたが、いたずらにぺかぺかした新築の温泉に比べれば充分に趣のある、昔の小学校か役場のような建物。

 ここの湯がよかった。アルカリ泉らしく、滑らかな肌触り。さすがに源泉に近い高温泉のほうには入らなかったが、昼過ぎの眠気を誘う明るさの中で骨をほどいた。

 湯から出て、町歩きという規模でもないので(失礼)、ホテルに戻り、このところ読み継いでいる岩波文庫カッシーラー『シンボル形式の哲学』の宗教篇(面白いのですよ、これが)のページを開けた瞬間に、マンガのように睡りに墜落。

 友人のメイル着信音で眼が覚める。もうホテルの下まで車で来ているのだとか。慌てて服を着て(素っ裸でひっくりかえっておった)下に向かう。

 友人は武雄で社会の先生をしている。博多であった彼の結婚式に参列したのが十年前か。ともかくそれ以来会うことはなかったのだけれど、実は当ブログにコメントを投稿してくれたのをきっかけにまたメイルのやりとりが始まった、という事情がある。こんな暢気な記事で人がつながることもあるんですな。

 「ここは何もないから」という友人が案内してくれたのは武雄神社の奥手にある「武雄の大楠」なる大木。前々回の「王としての樹木」を読んで当方の樹木好きを察し、それに焦点を合わせた選択ということらしい。

 実に気の利いたもてなしだが、相手の心配りが嬉しかっただけでなく、この大楠もまた大したものであった。

 その大樹は山の斜面に生えているのである。神社裏手の参道(と言ってもいいだろう)は右が竹林、左が杉林。大楠の周囲は下生え程度しか生えていないので、余計にこの一本の雄偉さが強調される。根元のほうは落雷のせいか、人が二三人ほども入れる洞(うろ)になっている。中に入って上を見上げるとそのまま縄文の昔に(なにせ樹齢三千年である)すとんと落ち込んで戻れなくなるような淡い恐怖をおぼえる。

 和池の大桂の端厳とはまた趣の異なる、しかしやはり人に沈黙を強いるだけの神聖なる気を放つ、これも「樹の王」だった。しょうもない観光施設を十見て回っていたとしても、この大木の下にぬかずいた経験のほうがよほど印象深い。なかなか奥ゆかしいね、武雄さん(と評価が軽薄にひっくりかえる)。

 しかしこの田舎町(重ねて失礼)の不気味な底力(三たび失礼)は夕食の時間になって発揮されたのだった。友人に連れられて入った、たしか『あん梅』とかいう店、造作は変哲もない小料理屋というところ。ただ魚は滅法旨かった。中でもクチゾコと地元では呼ぶシタビラメの煮付けが絶品。これだけ肉が充実してるんだったら、フランス料理でも堂々の主役をはれそうな、と感想を述べると、友人は最近はこのクチゾコやタイラギといった、有明の名物がすっかり獲れなくなったのだ、と教えてくれた。

 なんでも一昔前は、タイラギが豊漁だったら漁師は長靴のまま、つまり漁船から上がったなりの格好で博多の天神、さらにはそのまま銀座まで呑みに出ることができた、ほど儲かったらしい。

 「こっちに来てから何度もこの話を聞かされた。まあ都市伝説のようなものなんだろう」と友人は語った。伝説でも神話でもいい、ともかくそのタイラギやらワラスボやらを鱈腹食いたいものである。横の客に出してた、眼を剥くばかりの大きな鯛のアラ煮とともに今でも心に残っている。

 で、ここを出て次に行ったのが、名前は失念したけれど酒屋(ワイン専門)がやっているワインバー。鄙には稀なる瀟洒なつくり。なんでも隣接の倉庫にあるワインはどれでも千円のチャージで呑めるらしい。こらは安い。というわけでメドックの二〇〇九(だったかな)を一本開ける。まだ風格は足りないが、香りは充分に優雅。料理というかおつまみは、もっと有明や佐賀の地元産を活用したら、いいのにな。

 で、ここを出て次に行ったのが、これも名前は失念したけれど、大構えなショットバー。気のよさそうなオーナーさんと男前のバーテンさん二人でやっている。焼酎とワインでねばった喉を、バーボンで洗っていると、Kちゃん(友人の名)と飲み歩いていた学生時代が勃然としてよみがえる。あの頃Kちゃんは呑むとすぐ荒れていた。当方は、というと呑むと今以上にはしご酒(乃至やしきたかじん風に表現すれば新地ぐるぐる巻きの刑)の勢いが上がっていた。要するにどちらも若かった。

となれば、再会を祝し、旧に依ってすずめちゅんちゅんからすはかぁーまで飲み倒すのも風流なれどKちゃん、今や二児の父である。翌日は息子の運動会だという。自分で家庭の幸福を築くつもりは毛頭無けれど、他人様のそれを壊すには忍びず。泪をのんで(?)Kちゃんとはここでお別れ。こちらもホテルに戻ってぶっ倒れる。明日はちゃんと朝から動けるでしょうか。(つづく)

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