書物供養

 昼前に三宮で理事会(末席で座ってるだけ)を終えた後、寿司屋で飯を食い、ジュンク堂や紅茶屋、葉茶屋、ショコラティエなどを回って買い物。まだ風が乾いてるからしのげるが、それにしても日差しが眩しい。

 で、家に帰ってシャワーを浴びたところまではよかったのだが、録画していたカルロス・クライバーのドキュメンタリーを見ているうちに強烈な吐き気を催してトイレに駆け込む。それから三時間ほどは上げたり下したりの連続ですっかり憔悴してしまった。昼間とはいえ、ビール一本しか呑んでいないから、酒のせいではないだろう。断定は控えるが、やはりよくわからない店では生モノを喰うべきでない(変な店ではなかったけど)。

 明日の日曜は出勤だしなあ、困るなあと思いながら横になってひたすら安静を心がけていた―本を読んでいた―ら、夕暮れ時分には落ち着いてきてしまっていた。

 そんなんでいーのか、わが胃袋よ!

 とはいえ、さすがにまともにメシを食う気にはなれず、自家製のうんと酸っぱくてしょっぱい梅干し(おおそういえばもうすぐ梅漬けの季節)を番茶で煎じた吸い物(?)で口をさっぱりさせたあと、最近贔屓の、元町は鯉川筋なるショコラティエ「白石亭」のたいへん結構な粒チョコふたつとちいさなパルフェだけを食べて、またもや読書にとりかかる。

 胃には何も無いのに吐き続けるというのはやたら体力を消尽するものだが、ぐったり寝込んでしまわないくらい、この日手に取った本は面白いものばかりだったのである。ジュンクに長い間行ってなかったからなあ。こんないい本がいっぱい出版されてたとは。久々に行った店で、いつのまにか女の子が見違えるほど色っぽくなったのを見て、一抹淋しい気分が残るのと似ている…気がする。しかしこう書いて見ると我ながら何が一抹で何が淋しいのやら、さっぱりわからない。

 さて本の話。

*中村圭志『宗教のレトリック』(トランスビュー
 「人間の特徴的発想を体現している」レトリックの諸相を手がかりに「言語共同体の中でさまざまな人たちがさまざまな声を響かせる場をつくること、すなわち宗教の多声化」をねらう、という切り込み口を見つけたところで、本書の成功は半ば約束されたようなものである。とくに「提喩」(筆者の定義によれば「世界をママゴトとして見る能力」)や「換喩」とフェティシズムとの連関などが説得的で、また刺戟的でもあった。「対比」「列挙」など、《文彩(フィギュア)》よりというよりは思考の型ともいうべき項目は少しく出来が落ちる。筆者はレトリックの厳密な体系化はここでは意図していない、とわざわざ断っているのだが、こちらなどはそこにこそこだわってしまう。つまり、レトリックは宗教の諸相解明のための単なる補助線なのか、それとも本質的な契合を示す思考様式なのか、そこに対する言及が(そんなん一冊の本では到底収まらないテーマであるとはいえ)、少しでもあったらよかったのだが。
 むろんこれは望蜀の嘆。《儀礼》《レトリック》《庭園》は、恥ずかしながら、こちらがずっと関心を寄せている主題である。ともあれ貴重なヒントをたくさんもらえたのは嬉しい。

若島正編訳『アップダイクと私 アップダイク・エッセイ傑作選』
 正直いって「ウサギ」四部作や『カップルズ』のいい読者ではなかった人間(『クーデタ』のほうを高く評価したい)でも充分に愉しめた本。ジョン・バースほど気負いすぎてもおらず、かといっていわゆるミニマリズムの作家ほどアンチームさの中に自足してもいない、一言でいえば「程のよさ」(という日本では非常に評価されづらい美質)はエッセイでも発揮されている。
 で、この中庸の趣味、それにあくまで現代社会の風俗に焦点を起き続けたという姿勢、そして「まず、少し重めの評論集から入り、個人的な軽めのエッセイへとつながって、しかる後に書評がずらりと並び、最後には自作を語った文章が付く場合もある」という評論集の「フォーマット」(若島正さんの表現による)、こうならべてみると、何かピンときませんか。
 こないか。訳者による「解説」まで読み進んだ時に思わず「あっ、丸谷才一じゃん」と小さく叫んでしまったのですがね。記憶の範囲では、丸谷才一がアップダイクに言及したのは『農場』の訳書が出た時の書評だけだったように思うが、影響を受けた相手の名前が頻繁に出てくるというわけではない、というかむしろ当然のものとして素通りされるか、意図的に隠蔽されるかだろう。丸谷才一がアップダイクを剽窃していたというわけではない(第一アップダイクのほうが十幾つ年下である。年齢の問題ではないかもしれないが)。
 一人の文学者が、発想や感覚において自分に近しい気質の作家を見つけた後、どのように彼の仕事を追いかけていく(もしくはいかない)か、という点がたいへん興味深いのだ。別に他に根拠があるわけではないが。

*『嵯峨信之詩集』
 これは中井久夫先生の『わたしの『本の世界』』で紹介されていた本。初め図書館で借りたのだが、素晴らしい詩集なので、すぐに古本屋に注文した。西脇順三郎中野重治とはまた違う手触りながら、中井先生のいう「大詩人」の格は容易に感じられる。ここではしかし、伊東静雄の晩年の作をふと思わせるような短い一篇だけを引いておく。『深夜』という題。

 賑やかな客たちが帰つたあと/シヤンデリアが大きな孤独で静かに輝いている/いま誰かの足音が二階へ消えていつた/広間にはなにか偉大なものがいる/雨が降りだした/すると家そのものが一つの大きな魂になる/そしてその魂が明けがたまでひとり眼ざめている

*R.J.W.エヴァンズ(新井皓士訳)『バロックの王国 ハプスブルク朝の文化社会史一五五〇―一七〇〇年』
 タイトル通りの本。著者の名前、どこかで見たと思ったら『魔術の帝国』(ちくま学芸文庫)の人だったんですな。

 いやしかしどれも面白かった。嵯峨氏の詩集は旧刊ながら、あとはもう少し早く気付けば双魚書房通信に載せられたのに。

 本屋はまめに回るべし。

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