十分に哲学者―池内紀『カント先生の散歩』〜双魚書房通信(14)〜

 池内紀は贔屓の書き手だけど、対象がカントじゃなあ。

 そういう本読みも安心していい。著者が自分でこう書いている。


 たいてい、名前だけなら知っている。哲学者カントである。いつ、どこで名前を知 ったのかは覚えていない。(中略)いずれにせよ名前だけであって、それ以上は知らな いし、知りたいとも思わなかった。


 よかった。案内役がこんな風に肩をいからせずすたすた歩いてくれると、後続もついていきやすい。

 それにしても、なにせ「毎日決まった時間に散歩するので、カントの姿を見て街の人が時計を合わせた」というエピソードくらいしか思い出してもらえない「有名人」である。同じ哲学者でも、空豆を崇拝(!)していたために、空豆の畑に逃げ込むことを拒んで虐殺された(!!)というピタゴラス(よく理解できないぶん、一層哀れぶかい)とか、これはもう枚挙にいとまないくらい破天荒(というか破廉恥)な挿話のぎっしりつまった『告白』を書いて、なぜか読者を夢中にさせるルソーにくらべると、材料に旨味が欠けるのではと思うのも不思議ではない。

 池内紀ドイツ観念論の大看板の姿を、まず彼が生涯住んだケーニヒスベルクという街に置くことから始める。今はロシアの一州の州都であるが、かつては東プロシアの首都であり、ハンザ同盟都市として、「バルト海の真珠」と謳われた街。


  絵入りの「ケーニヒスベルク案内」は大聖堂前の広場から北の方角をながめるようにすすめている。小さな森をはさみ雄大な応急の建物が望める。高く突き出た八角形の塔を、「ミナレット」とよばれる四つの小さな尖塔がとり巻いていて、王宮で祝い事のある日や聖人の祝日には、そこに色のちがう旗が掲げられた。右手には壮麗な王宮教会と美術館、それに鏡のような湖水が眺望できるというのである。


 王宮地下にはその名も「ブルーツゲリヒト(流血裁判所)」という酒場があって、カントも同僚の教授連としばしばここに酒を呑みに来たそうな。「「教授陣宴会の図」と題された風俗画の一つでは、笑いころげて頭にのせたカツラを落っことしそうになり、あわてて手をそえた姿が描きこまれている」。

 著者の目の付け様はかくのごとくである。つまり、「謹厳実直を絵にかいたようなカタブツのイメージ」をさりげなく組み直していくこと。声高に「カント像の見直し」とか「脱構築」(まさか!)とか宣うのは池内紀の流儀ではない。

 新しくカントのプロフィールに引かれた線の何本かを見ておこう。まずはしたたかな投資家としての一面。フランス革命のあと、ヨーロッパ中を大混乱におとしいれたインフレで、旧来の年金システムは破綻。その大嵐にあってカントは「ひと財産にちかいまでの蓄財」をなして、晩年にいたるまで家計の不安に心を労することがなかった。それは哲学者のよき対話相手であった、敏腕のイギリス商人ジョゼフ・グリーン、および彼の後継者たるロバート・マザビーの慎重な利殖によるものでもあったが、カントその人がカネをマモンの化身として嫌忌したそぶりを見せていないこともたしかである。

 大学人としての側面。さっき引いたように、「カタブツ」の学問馬鹿ではなく、望むポストを手に入れるために、周到な人事案を当局に提案するカント。後にケーニヒスベルク大学総長の地位に就く。

 政治的手腕。フリードリヒ大王亡き後、凡庸な君主を二代にわたって戴いたプロイセン王国では、シラーが『招霊術師』を書いて諷刺したようなあやしげな連中が跋扈していた。その首魁であるヴェルナーがとりしきる検閲局相手に、カントは放胆な手段を用いて自作の出版の許可を獲得する。

 魅力的な話し手でもあった。「馭者や兵士や職人とまじっての昼食を愛した」と同時に、東プロシアきっての名門貴族の晩餐会でも「物腰、話術、応対ぶりがきわめて洗練されており、巧みに機知をまじえて人をたのしませる」カント。

 利殖に長け、胡散臭い宗教家を出し抜き、とめどなくおしゃべりにふける一方で、「理性」のくまぐままでを仔細に検討する。

 そう、迂闊な評者はここに至って気づいたのだが、つまるところはロココの哲学者。『モーツァルト考』の著者でもある池内紀が一八世紀にいだく親愛感はまぎれもない。「啓蒙の世紀」の王とも言えるフェルネーの長老同様人生の諸相をたっぷり愉しみながら、しかし比較にならないほど精密にその思考を磨き上げた「私のカント」。

 その輝かしい、いや、せっかくロココの名を出した以上、ここではあえてbrilliant という形容を用いよう、そのbrilliant な頭脳もやがて老いがおとずれる。次の世代の哲学的チャンピオンともいうべきフィヒテが、カントの講義を聞いたあとのコメント。


「あの偉大な精神を宿すには、肉体が疲れすぎています。」

 おそるべき着実さでカントの精神・肉体を蝕んでいく老いを、池内紀はしずかな文章で報告していく。そして一八〇四年二月一二日、七九歳で死去。最後のことばと伝えられる「エス・イスト・グート」は「この世を肯定し、みずからの仕事に満足を述べたといったふうに解釈される」が、「かりに拡大して意味解きをするとすれば、一つだけできる。生きているのは「もう十分」「もういい」であって、誰よりも当のカントが待ち望んでいる死の到来をうながした」。

 カントのことば自体がなまじ気の利いた表現ではないぶん、この解釈は哀切。

 著者は例の新訳古典文庫で『永遠平和のために』を訳出したのをきっかけにこの本を書いたとのこと。前者は大仰なその題名に反して、辛辣にして正確な現実観察がつまった書物なのだそうな。モーツァルトがスザンナの独唱(「恋とはどんなものかしら」)とドン・ジョヴァンニの終曲を描き分けたようなものだろうか。

カント先生の散歩

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