近江坂本水のまち

 月曜日の休日というのは、ミュゼの類の休館に重なってしまってあまり使い勝手がよくない。だからといって家にこもりきりも、せっかくの好天ではあることだし、もったいないので近江坂本に来た。

 何か目当てがあったわけではない。とりあえず三宮に出て、何となく阪急河原町までの切符を買い、意味もなく京阪までぶらぶら歩き、勢いで坂本まで乗ってしまった、というずぼらな動き方。こういう時は気兼ねせずに済むので、一人が断然いい。

 坂本、というより日吉大社に詣でたのはずいぶん昔のこと。前はたしかJR湖西線で来た。だから京都の地下鉄東西線〜京阪京津線石山坂本線に乗るのは初めてとなる。こちらは鉄道マニアからほど遠い人間だが、地下鉄部分を除けば周囲の景色・駅の風情ともに満喫した。

 平日でもあちこちに観光客の姿が見える。前は住民の方も含めてびっくりするくらい人影が見えなかったのだが。これも「世界遺産」効果というやつか。

 ともあれ日吉大社に詣でたあと、道端の小溝にきれいな水があふれるように流れる坂本の町をぶらぶらと一周した。

 近江なり折り目たゞしく秋の水 碧村

 で昼飯。坂本に来て『鶴喜』の蕎麦を食べないという法はない。じつは小林秀雄が『無常といふ事』でこの蕎麦屋のことに(ほんの一言だけだが)ふれており、当ブログ「教祖の亡霊」で執拗に小林を批判した(ま、厳密にはセンター試験の出題者を批判したのだけど)身としては、忸怩たるものなしとはしない。しないが、優先されるべきは胃袋の都合である。

 店は地元の主婦とおぼしき女性で切り回している。クーラーは入っていない。おしぼりもでない。

 それを批判しているのではない(おしぼりだけは出して欲しかったな)。どころか、こういう古びがあってこその蕎麦屋である。今出来の「蕎麦道場」的な店は趣味に合わない。

 理屈はどうでもいいので、道にすぐ面した格子構えの席についてそよそよ入ってくる風や向いの民家の屋根に当たる午後の陽を愉しみながら、地元の「萩の露」(辛口でいける)を呑む。肴は小鮎の佃煮(これも甘くなくていい)、卵焼き(これは蕎麦屋風ではない、だし巻きだった)。

 時間が少し遅めのせいもあって、店はぽつぽつといった込み具合。これなら迷惑をかけることもなさそうなので、酒を呑みつつ大谷篤蔵芭蕉連句私解』を読む。七部集に入っていない歌仙ばかりを取り上げているのが嬉しい。大谷先生の学殖を傾けて、もっとのんびり当時の風俗関連の注を語ってほしかったけれど、芭蕉晩年の「軽み」とは何かが、具体的な付合と添削(歌仙のうちいくつかには初稿が残されているのだ)の読み解きを通じて何となく会得できた気もする。現役の宗匠としては、まだまだ『猿蓑』の蕉風呪縛から逃れられないのであるが。

 それにしても芭蕉が愛した湖国で、しかも昼下がりに酒付きで歌仙を読むというのも豪奢な話である。『鶴喜』を出たあと、近くの店で木の芽味噌とごり(うろこりともいうらしい)佃煮を土産に買う。前来た時に買った菊海苔が旨かったのだが、端境期とて(まだ十月入ったばかりだ)この二品で辛抱することにした(家に帰って試してみると、両方ともいい味でした。木の芽味噌で里芋の田楽を作りました)。半日の旅のありよう、かくのごとし。

 神戸に戻り、元町で紅茶を買って、商店街をぶらぶら。何やら人だかりがと思うと、海文堂店じまいの日なのであった。大勢の人間が店構えを携帯・スマホで撮影しておる。こういう手合いに限ってふだんは本を買ってないんだよな、と眉を顰めつつ店内へ。

 ご祝儀のつもりでフレデリック・ヴィルロワ『ベストセラーの世界史』とブッツァーティタタール人の砂漠』を求めて出る。

 これでまた元町の魅力が減じたわけだ。だんだん神戸もつまらん街になりつつあるな、と少し憂鬱な気分を持て余して、結局何をしたかというと酒を呑む。夜は焼き鳥屋。花隈「くらわんか」の若い衆が独立した店(だと思う)。焼き物はやはり旨い。野菜はもう少し気合いを入れていただきたい。地酒は種類をおいてしかもそれほど高くないのがよろしい。

 店主にひゃーと言われるほど重ねてグラスを空けた後は、いつもどおり、スプリーンの霧も晴れ上がっておりました。

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