笑ウ寿老人

 日々の営みが単調に思われるような時、エネルギーを注ぎ込んでリズムを賦活させるために何をするか。

 たとえばグールドのバッハを聞く、時実新子の川柳を読む、ヴェトナム料理を食べに行く、などいくつか手はあるが、少なくともこれまでに効験が一等顕かだったのは冨岡鉄斎の絵を見ることだった(「桃の花咲く村」)。

 というわけで、清荒神清澄寺の鉄斎美術館に『鉄斎―神仏敬仰―』を観に行った。ずいぶん考えられた展示で、どれも愉しめた。興味深いのは、鉄斎の場合、直接神仏を画題とはしていない、たとえば山水図には何か超越的な存在のいぶきが強く感じられるのに対して、神仏を描いた絵にはかえって表情の面白さや描線・著色の秀抜(神仏の絵に限ったことではないのだが)が特に印象づけられるという鑑賞上の現象である。

 今回の展示でも、「鍾馗騎虎図」の虎の腕白小僧めいた眼光のかわいらしさ、「観世音菩薩像」の子だくさん家族のおっ母さんを思わせる(世界はすべて我が子なり)表情の勁さ、「蝦夷人熊祭図」の音楽的構成などにその特質は顕著である。

 とりわけよかったのは、「三老吸酢図」と「聖者舟遊図」。前者は、宰相になるには鼻から一斗もの酢を吸うくらいの辛苦を耐え忍ばないとならないと言われるのに対し、桃花酢を一舐めした蘇東坡がすぐに顔をしかめてしまい、これではとても宰相にはなれないな、と(実際蘇軾は宰相の地位には就いていない)、弟子の黄山谷、友人の仏印禅師と呵々大笑した、という故事に基づく。卑俗な形容ながら、「人生の達人」だった蘇軾の人柄を思わせる闊達な笑いが画面いっぱいに響いている絵。同じく禅機めいた故事でも、たとえば寒山拾得の話のような、もったいぶった薄気味悪さが無いのがいい(疑う者は曾我蕭白の「寒山拾得図」を見よ)。「聚蘇書寮」という室号を持っていた鉄斎は蘇軾を深く「敬仰」しており、その愛情が充ち満ちている。当方も蘇軾というオッサンが大好きなので、泥をなすくったような彩色のケッタイな顔つきをした蘇軾としばらく無言の対話を楽しんでいた。

 「聖者舟遊図」のほうは、当方の嫌いな小林秀雄も誉めている絵で、追従するのはなんだか癪にさわるけれど、いい絵はやっぱりいいのであるから是非も無し。屈強な船頭のような(おや、小林のたとえを使ってしまった)達磨が櫓を動かすのに連れて蓮の花がまるで音符のように天空へ舞い上がっていく。釈迦観音も孔子老子も笑っている。宇宙そのものの笑いと称すべきか。

 それにしても「寿老人図」の炯々たる眼光、また「昇天龍図」の神韻縹渺とした趣(珍しく鉄斎の仮名の書が見られて、これがまた素晴らしい)、「弘法大師在唐遊歴図」などにおける山の量感(マッスということばを使いたい)、色彩の華麗さ、九十にして「枯淡の境地」とは無縁だった人の「精神の運動」に刺戟されて、観ている者の内的リズムまでが目覚めてくる。

 この美術館、入り口のホールで流している解説ビデオの音量が甚だ耳障りだったのだが、誰かが注意したらしく、この日は静かに見物できたのも嬉しかった。

 帰途はいつものように参道入り口近くにある「さんしょう屋」に寄って木の芽の佃煮や、荒神名物の「こぼれ梅」(味醂のしぼりかす)などを求める。

 この日の夕食は阪急六甲の「彦六鮨」と決めていた。この寒さ、燗酒がするするといくらでも喉を入っていく。気が付けば三宮で、古い呑み友達とぐるぐるぐるぐる店を回っていたのだった。さあ、この調子で明日は大丈夫なのか。

 そもそも「明日」に何があるのか。それはまた次の記事にて。
【ランキングに参加しています。下記バナーをクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村