画中に動くものあり〜ターナー展

 茫漠と広がる外界は、ある枠で切り取られることで美的存在として人の認識対象となる。これを逆にいうと、枠を嵌めない世界は無限の混沌に過ぎない。世界のありとあらゆる文化表現の中でもとりわけその枠の規制力(偏奇さ?)が強いと思われる漢詩に関心を寄せている人間としては、では他の時代・地域では枠=想像力のはたらき方がどうなっているのか、と気になるところである。

 お勉強のために展覧会や演奏会に行くほど馬鹿げたことはない。こちらもそういう「問題意識」を抱えて神戸市立博物館の『ターナー展』を観に行ったわけではなく、久しぶりに平日の休みがあったことを幸いに出かけただけなのだが、それでもやはり「英国最高の風景画家」という副題でなければ休日の朝から家を出るつもりになったかどうか。いうまでもなく「風景」という概念は枠の一つである。

 開館間もない時分とあって、嬉しいことに人影もまばら。例によって眼鏡をかけたり外したりしながら(本ブログ「近視の効用」参照)、ゆっくりと見て回る。

 こちらにとって「好きな絵」とはすなわち「欲しい絵」であり、「とても好きな絵」は「盗んででも欲しい絵」となる。この展覧では、二点出品されていたスケッチブック(画家が好んだ黄色よりも、むしろ青の彩色がすばらしい)やヴェネツィアを主題にした連作のうちの『月の出』という小品などがそれに当たる。すなわちご存じのターナーというような、後期の主として海景を描いた、白と灰色がエーテルのように渦巻くタブローはこちらには響いてこない。

 好みは好みとして、しかし興味深かったのは「最高の風景画家」という観念をむしろみずから否定するかのような要素があちこちの絵に見られたこと。《ターナーぶり》の画面にいっぱいに立ちこめる雲?靄?烟?光線?は「自然」のエレメントを克明に分析していった結果の《物》の顕現というよりは(モネにとっての光=色彩がそうであったように)、どこか「自然」には内在しないものを指し示すものとして追究されているようだ。

 普通にはその傾向は超越への志向と評されるべきものだが、ターナーの画面からは形而上的な要素が、やや危うい言い換えを試みるならポエジーは感得されない。ただそのことが必ずしも彼の画業を貶しめることにならないというのがややこしいところで、正直なところ書きながらも、すこぶる不得要領の感を否めない。

 しかし開き直っていえば、見る者になんとなく落ち着きの悪い気分を呼び起こすところに画家の独創があった、とも考えられるのである。たとえば『チャイルド・ハロルドの巡礼』の画面から文字通り溢れんばかりの幸福感で塗り込められた黄金色の大気、その臆面もない(と言いたくなる)浪漫性と、先にふれたスケッチブックの堅実な構図・著色に見られるアンチームな雰囲気との振幅。

 「最高の風景画家」とはつまり、逆説的ながら自分にとっての「風景」なる枠組みを求め続けて変転を重ね(つつ、ついに安心[あんじん]を得なかっ)た画家ということになるのかもしれない。・・・それにしても照明の具合が悪い。外光を描く画家の展覧会で、額装のガラス面に照明が反射して、見物客が自分の顔や背後の人の影を覗くことになるなんて、悪趣味な話である。

 なんて小理屈をこねまわしながら会場を見て回ったわけではありませんよ。博物館を出た後、さんちかの『天ぷら定食まきの』でビールを呑みながら(そして、まだ一一時半前というのにどんどん店前に行列ができはじめたのに仰天して店を出たあと)、そごうの『やぶ蕎麦』で菊正の樽酒熱燗をやりながら(そして家に帰ったあとは)、寒鰆の蕪蒸しと、牡蠣入りのオムレツ(葉にんにくを刻み込んでいる)とで黒松剣菱のぬる燗を続けながら、印象を整理した結果であります。

 この日は食べなかったけど、飯蛸(むろん子持ち!)の煮つけも明日の肴として味を含ませていた。ターナーではないが、見えないところで季節が動いている気配あり。
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