人の世の旅路の半ば・・・

 三月七日は聖なる我が降誕の日であるが、まあ、四十にもなってみれば、そんなことはどうでもよいのだ。それよりこの日は朝から喫緊の課題を抱えていた。すなわち前日呑みすぎてたいそうな宿酔。

 こういう時は、不快な、あるいは憂鬱な状態を無い物である「かのやうに」してしまうに如くはない。で、朝から『フィガロの結婚』を大音響で鳴らしながら掃除にいそしむ。多少アタマのねじがゆるんでいるおかげで、普段は面倒で(つい手を抜いてしまう)ベランダ床面をデッキブラシで磨いたり、浴室扉のゴムパッキン(というんですかね、アレ)を綺麗に拭き上げたり、ついでにカーテンまで洗濯したり、ドーダザマーミロ。とやっぱり少し酔っているのである。厳密には宿酔とは言えないかもしれない。

 汗だくになってようやく人心地がつく、というのもおかしな表現だが、ようやく一日が始まった気分でシャワーを浴びて遅めの朝食。

 昨晩は『播州地酒ひの』から『いたぎ家』、でバー二軒で〆。『いたぎ家』兄弟のご両親が龍神村から神戸に来ているらしい。豚タンの燻製も良かったが、とりわけご両親が採ってきてくださったイタドリが滅法旨かった。秋の茸もいいけど、当方どうも春の山菜になると取り乱す気味合いがある。花やかに(というのは本人の主観で、要するに騒がしく)褒めあげていると、よほど物欲しそうに見えたのだろう、哀れんでくれたアニさんが帰りがけにビニール袋に入れてイタドリを持たせてくれた。いつもこんな風におねだりしてるわけではございません、念のため。

 で、このイタドリを愉しむ。店は胡麻油で炒めて、醤油・味醂で味をつけるというオーソドックスな出し方だった。同じでは芸がないわなあ、としばし考える。爽やかな酸っぱさとさくさくした歯触りが身上である。この酸味は油っこいものと取り合わせても生きてくるのではないか、と思いついて、パスタに仕立てた。イタドリの相方は蛸。一口大に切ったやつを、・・・普段ならオリーヴ油で炒めるところだが、今回はこってり路線で行きたい。バターをたっぷり使って料ることにする。ニンニクも一かけ。蛸・ニンニクと来たらトマトソースが定番ですが、多すぎるとトマトの酸味でイタドリの個性がぼけてしまう。今回はホールトマトを、パスタがようやくさくら色に染まるくらいの分量にとどめておく。

 結果は大成功でした。この食材、たとえばベーコンと炒め合わせて、薄切りをカリカリに焼いたトーストにのっけてもいいんじゃないかな。日本料理の発想では「あったかくて酸っぱい」というのはちょっと出てきにくいが、フランス料理でもスカンポのポタージュがあるくらいだから、我ながらいい線行ってると思う。このうぬぼれも酔いの余波だろうか。

 午後からはひたすら本を読んで過ごす。至福の時間である。ひとつ残念だったのは、ジュンク堂で中公文庫『痴愚神礼賛』が品切れだったこと。訳者は沓掛良彦ラテン語原典からの訳。ラテン語ギリシャ語も)の猥雑から高雅までの様々なオクターヴを、日本語で自在に響かせるということになれば、沓掛先生の右に出るものはない、と思って、新聞書評での紹介を見てわくわくしていたのだ。まあしかし、こういう渋みの極みともいえる本が売れるのだから、文運隆盛、まだまだ日本も捨てたものではない。

 しばらく本の記事を書いていなかったので、この日読んだぶん以外も掲げておきます。

林房雄文芸時評』…別に大東亜戦争を肯定したいわけではありません。この時代の時評にしては珍しく詩集を取り上げていると聞いたので読んで見た。この人の鑑賞眼、すこし胡散臭いところもあるけど、闊達(かつ鄙俗)な文章は読ませる。
○井上亮『天皇と葬儀 日本人の死生観』…なるほどこういう切り口があったのか、という本。これも読みやすいがコクに乏しい。著者は新聞記者。大向こうを意識した文章が頻発するのが苛々させられる。ま、好みごのみでしょうが。
○フレデリック・ルノワール『神』…フランスの著名な宗教学者へのインタヴューをまとめたもの。宗教というものは通念に反して(人類史においては)新しい発明なのではないか、そして宗教は都市抜きには考えられないのではないか、など色々と妄想がふくらむ。それにしてもさすがはフランス人。ポリティカル・コレクトネスのいやらしい猫なで声はこれっぽっちも聞こえてこず、ヨーロッパ中心主義の口吻を隠そうともしていないのがいっそ見事でさえある。
○吉田暁子『父吉田健一』…さすがヨシケンの血筋であって、父をいくら称揚してもいやらしく響かない。吉田健一が少年ジャンプや少年マガジンも読んでいたとは知らなんだ。所々、吉田健一が乗り移ったような文体になるのも愉快である。まあ、あのスタイル、伝染性がきついからね。
○池央耿『翻訳万華鏡』…練達の翻訳家の半生記。仕事を断らないという姿勢が凄い。
野崎歓『翻訳教育』…こちらも気鋭の仏文学者(『異邦の香り』、いい本ですよ)兼翻訳家のエッセー。翻訳原論的考察から技術的苦心談まで。あ、ついでに野崎さんが最近訳したミシェル・ウエルベックの『地図と領土』もなかなかいい小説でした。この本で絶賛されていた岩波文庫バルザック『艶笑滑稽譚』(石井晴一訳)はジュンク堂で入手!
○『鏡花紀行文集』…前に『鏡花随筆集』が同じ岩波文庫で出たから、その姉妹編というところか。全集でいくつかは読んでいたが、しっかし、鏡花というヒト、何を書いても同じなんだなあ、と笑えてくる(これは貶しているのではない)。ほとんどは紀行文の体裁をなしていないのだ。珍品と称すべきか。それにしても、『随筆集』といい、注の付け方が杜撰である。もっと読解の勘所を選ぶべきなのではないか。

 以下駆け足に。
佐藤亜紀『小説のタクティクス』…『ストラテジー』続編。変わらず毒の滴る文体が愉しい。意見内容に関する賛否は別にしても。
○重金敦之『食彩の文学事典』…期待外れであった。著者は元編集者。どうやらジャーナリズムの文体が性に合わないらしい。しかし題名にある「食彩」とはいかなる意味ぞや。居酒屋などで「旬菜○○」とあるとゲンナリするが、あれと同じ、意味の伴わない符牒のような気がする。
大島幹雄『サーカスと革命 道化師ラザレンコの生涯』…革命ロシアというのは当方の世代にはまったくなじみがない。が、ラザレンコの周囲にマヤコフスキイ、メイエルホリド、エレンブルクといった面々が並ぶと、なんか知らんがやたら面白い時期だったように思えてくる。タイトルが『革命とサーカス』でないところがミソである。
○土田健次郎『江戸の朱子学』…もう少しこってり書いてもらいたかったな。
○溝田悟士『「福音書」解読  「復活」物語の言語学』…執拗な記述で聖書の通説を片っ端から粉砕していく。聖書学なる学問がかなり胡散臭いもののように思えてくる。もちろんこれは当方の無教養がなせる放言。
○キース・トマス『人間と自然界 近代イギリスにおける自然観の変遷』…ピーター・バークの『文化史とは何か』を読み返していて、おやこんな本初読の時は意識してなかったぞ、と慌てて読んだ。気が遠くなるような博引旁証である。もちろんそれは主題を追究する学者の情熱によって引き寄せられた「世界」なのである。このキース・トマスの本で刺戟を受けて、オリヴァー・ラッカムの『イギリスのカントリーサイド 人と自然の景観形成史』も読んだ。
○小林武志『進化する中国料理の前菜』…うっとりするほどうつくしく、また旨そうな料理ばかり。有名中国料理店のオーナーシェフだそうな。自分へのご褒美とやらで、一度行ってみべいか。

 この日の夕飯は池波正太郎「風」鍋。大根の千六本に浅蜊のむき身、それを薄味の出汁でさっと煮て、七味唐辛子(柚子だったか?)をかけて食べる・・・ならまさしく池波正太郎のいわゆる「小鍋立て」なんだけれど、こちらはそこまで粋にはなれないので、浅蜊を蛤に代え、大根の他に独活と芹、そして豚肉の薄切りも加えてしまう。蛤の濃厚な旨味と豚肉の淡泊な味わいはよく溶け合うように思う。

 あ、蛤で思い出した。新年から始めた「日本料理歳時記」マラソン、桃の節句では載せませんでした。仕事終わるのが遅くなって、国産蛤が手に入らなかったので、これは旧暦四月四日に回すこととしました。せっかくの「日本」料理歳時記ですし。
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