聖なるものを求めて

 というわけで、前回書けなかった本の感想。


筒井康隆『聖痕』

 途中まで読んで、あれ、この感じはいつかどこかで・・・と引っかかり、しばらく腕組みをして考えた。
 答えは書庫を歩き回っているうちに見つかった。同じく筒井さんの『旅のラゴス』である。私見では、この二冊は対をなしている。対称性を形作る軸は「普通」である。
 このことば、批評のタームになるのかどうか。ま、専門家の書評ではないからいいとしよう。『聖痕』はうんと図式化していえば、背筋が冷たくなるほど退屈にして平凡(この表現の含みはよろしく『如菩薩団』や『スイート・ホームズ探偵』について確認されたい)な日常の中に、変質者による性器切断という形での「異常」性を刻印された主人公が投げ込まれ、そしてここからが重要なのだが、にも関わらず彼がいわゆる一般市民以上に、実にまっとうに(これは貶す意味は無い)生き延びていく話であり、一方『旅のラゴス』は集団転移やテレパシイが存在する異世界で、むしろ平凡にさえ見える男が(ただしラゴスも集団転移の名人でもあり、またラストでは死の超越に向かうことも示されるのではあるけれど)、その平凡さによって(これもおとしめて言うに非ず)生き延びる話なのである。
 そして二人の主人公に共通する武器は「知性」である。ありとあらゆるジャンルの本を読むことで自らの王国を築いてしまう(というよりいつのまにやら王様に推戴されてしまう)ラゴスが知性でもって世界に立ち向かう人間像となっているのは分かりやすいとして、『聖痕』の葉月貴夫はどうか。彼は自分は味覚という官能の愉悦に生の秘密を探る人間だと度々告白しているし、実際に彼はレストランの経営で成功を収めるのではないか。
 それはそうだけど、主人公がそう言ってるから主題はそうだと考えるのも鈍くさいものである。性粗暴にしてかなりの屈折を抱えた弟や、貴夫に懸想する薄気味悪い東大生(薄気味悪いとは容貌を評するのではない。あまりにもジコチューで幼稚な思考の道筋が薄気味悪いのである)といった、いつ何時貴夫の生活を乱離骨灰に破壊しかねないいわば「爆弾」どもを彼がどう扱っているかを見られたい。排除もせず、関係を拒絶もせず(肉体関係を持ったということではない、念の為)、ひたすら説得という形でなんとか折り合いをつけていくのである。この「折り合いをつける」処し方は、彼自身の人生に対する態度でもあることは言うまでもない。
 だから、東日本大震災でボランティアに向かった貴夫が、被災地で自分に暴虐を加えた変質者と遭遇し(これは物語の論理としてそうある他ない)、このおっさんに赦しを与える場面のどこが感動的かといえば、貴夫の決断が、凡俗の「告解」に超越的高みからその罪を帳消しにするという文字通り「聖者」の行為なのではなく、あくまでも聖性を持たぬ一市民としての資格においてを赦しているという構図にこそ原因があるのだ。
 『聖痕』なる題名はしたがって、極めてアイロニカルなものであって、貴夫の体に残る縫合の痕は貴夫をsanctifyする徴ではなく、むしろ「聖なるもの」が貴夫を去って行った、その証としてとらえなければならない。貴夫が結末でつぶやく、「これ(=切り取られた性器)は自分のスケープ・ゴートなのだ」という一言は示唆的である。犠牲獣は屠られることで聖性を帯びるが、それを神に捧げる祭司自身が聖なる存在になるわけではない。
 この小説について語る以上、文体に触れないわけにはいかない。漢語や枕詞を多用した表現はしかし、口語文脈が支配的な現代小説にあまりなじんでいないこちらなどにはむしろ文学的抵抗を喚起するまでには至らなかった。どうせやるなら、貴夫の思考の筋道を『古事記』や『徒然草』や西鶴の文体でたどってほしかったな。健全に論理的な思考が、とかく感受性だの感覚だのばかりが強調されがちな我が古典文学の文章によって達成されていたとすれば、これはもう空前絶後の文学的偉業という他無かっただろう。ま、こんな風に、作品に無いものを言い立てるのは批評の手法としては拙劣幼稚なものなのだけど。
 『ラゴス』に関して結局あまり触れられなかったが、作家本人が刺戟を受けたというトゥルニエの『オリエントの星の物語』(名篇だが、翻訳がひどい)とあまり直截的に結びつけると、この小説の本領が見えなくなってしまうように思う。

 当ブログにしてはえらく感想が長くなった。残りの作品は駆け足気味に。

○ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』・・・「完全版」と銘打っている。ファンタジーの傑作である表題作の、続編とまとめて一冊としている。この短編が初読だったのだが、相変わらず巧いなあ。自在に距離の取り方を変幻させる文体も健在。ビーグルはさらに続編を書いているらしい。シリーズ化してしまうのは如何なものか。二作にとどめておくのが、玲瓏たる風情を損なわぬための最良の行きかただと思うが。
○ヤノーホ『カフカとの対話』・・・これも筑摩叢書版で幾度となく付き合った本。気恥ずかしい言い方だが、まさしく我が青春の書の一冊である。みすず書房から再刊されるとしって読み直してみた。訳者のいうとおり、ヤノーホに自己劇化の意図があったことは間違いないだろう。しかしそれを超えて、ここに描かれたカフカが、ボルヘスのいわゆる「陰鬱な神話と怪奇な制度の創造者」たる作家の、それ自体神話的な輝きを放っている(ただしその光は黒い)こともまた明らかである。池内紀さんが指摘するホラ噺の名手としてのカフカ(池内訳の二冊の岩波文庫カフカ短編集がその「模範演技」を見せている)とは別の、いかにも二十世紀前半的実存主義カフカ理解(ヤノーホは「プラハの春」のただなか、貧困のうちに死んだ)だが、これはこれで一面の真実と言うべきなのだろう。
ゴーゴリ『ディカーニカ近郷夜話』・・・岩波文庫の復刊。ヘーベルの「暦ばなし(カレンダーゲシヒッテン」(ベンヤミンが激賞している)に似た味。小説家が読めば創作のヒントがいっぱい見つかるはずだ。当方は小説家ではないから、単におもしろがって読んだだけだが。
○池上英洋『死と復活 「狂気の母」の図像から読むキリスト教』・・・嬰児殺しという衝撃的な主題から出発して、西欧精神史の深みを探索するという本。デカルト的ヨーロッパにこそ「闇」は濃いのだ(翻って日本文化はどうだろうか?)。

 岩波文庫、今回の復刊は他にもシラーの三十年戦争史やスティーヴンスンの『プリンス・オットー』など面白そうなものが多い。筒井さんの短編「多読者の家」ではないが、古典こそ快楽愉悦の源泉なのである。

聖痕

聖痕

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