蕎麦をたづねて三千里〜芸州一泊(2)

翌朝はすぐにでも降り出しそうな空の色。蕎麦屋(この時点では店の名前すら知らない)に向けて出発する前に、ご夫妻がなにやらごにょごにょと相談されて、『かしはら』という菓子屋に寄ることになった。なんでも最近広島の土産ではやたらとウケてる「はっさく大福」をはじめに作ったところらしい。店内には「昨年度食べログ一位」のステッカーが貼ってあったが、詮ずるところは大福であって、こちらはあまり関心が無いし、大体あのサイトの評価を麗々しく言い立てているのが気にくわない。ま、あれだって詮ずるところ素人の(こちらだって素人ですけど)他愛ない遊び(評論家ぶるのは実に気分がよい)と思えばいいのでしょうが。

 ということで、すこぶる気乗りはしなかったのだが、ケースの中の大福を見ていると、不意に団子三兄弟ならぬ大福兄弟の顔が浮かんできて、結局二つ買ってしまった。たぶん二人とも甘味を好くと思うのだが、『いたぎ』ブラザーズは喜んでくれるであろうか。自分用にはなかなかリアルに出来たはっさくのストラップを一つ(といってもこれはサービス品)。

 そこから都市高速に乗り、降りたところからまた一時間ほど太田川沿いに車を走らせる。宿酔気味なのだが、ともかく海とか川とかを見せていれば機嫌良く過ごしている性なので、近畿の、なだらかに年老いた山容とは対照的に、徐々に稜線が峻険になってゆく山なみと水とをたっぷり愉しんでいた。

 すなわちこれから「名人」の蕎麦を食いに行くという雰囲気の演出としては申し分なかったのですが、ここからまたしてもこちらがチョンボしてしまった。一応地名からすれば蕎麦屋がある集落に着いたものの、どこを見てもそれらしい家屋は見えない。讃岐のうどん屋みたいに、工場の脇に建てた物置のようなところで商売されていたのでは、一日探し回ってもたどり着くことは出来まい。綺翁さんもいささか慌てておられる様子。こちらも慌ててスマートフォンの地図アプリを開く。

 その案内がおかしいのである。画面では、道を歩いていたおばあさんの指示とは正反対の方に、目的地を示す旗が立っている。あれーあれーと言ってるうちに十五分ほど迷走。結局はおばあさんが言ったとおりに行けば良かったのであった。これは地図アプリの不備であって、悪いのはアップルとスティーヴ・ジョブズである。わしゃなーんも悪くない。

 それにしても、「ここから登山道」とあるすぐ先に蕎麦屋(とその広い駐車場)が構えているなんてふつう分かりませんよ。参考のために写真を載っけておきますが、車が通れるのか・・・?と思わせられる道を曲がった瞬間に、奈良あたりの古寺の講堂を連想させるこんな建物がどーんと登場するのだから、誰だって驚く。それ以上に驚いたのは人の多さ。ナチスの迫害から国を出るユダヤの人々がビザの発給を待って出入国管理局の事務所を取り巻いている感じである。手っ取り早くいえば皆さんどことなく殺気だっていて、のんびり蕎麦を愉しむ、という空気ではない。受付帳にはすでにずらーっと名前が並んでいる。

 当方も蕎麦屋は日本のパブと見なして、定番の肴に吟味した酒、いい具合になったところで腹具合と相談しながら今日はもりではなく種ものでいくか・・・と六分目仕上がったところでさて夕暮れの街に繰り出してゆく、という按配でいきたいのだけれど、まあこういう趣向は別の味と考えることにする。

 当分呼ばれないだろうから、岩波文庫芭蕉連句集』を取り出したのだが、風雅な俳諧の世界に没入しようとすると、すぐ横の親子連れ(息子と母親)が口論をはじめた。口論というよりは母親が一方的に息子をなじっているらしい。どうも息子が受付帳の存在に気づかず、しばらく立っていただけだったことを、「ふつう気づくでしょう」「どうして自分の過ちを認めないの」と言いつのっている。

 こんなことで「過ち」と言われたのではかなわん。わしなら①「俺を産んだのがおまえの過ちだ」と叫んで即座に母親をぶちのめす、②首根っこを締め上げながら「それ以上一言でもいったら殺す」と凄む、③即座に母親を残して車で立ち去る(言うまでも無く車がなければ絶対に来られない場所)、のどれかだなあ、それにしても当方とそう年の離れていなさそうな息子の不甲斐ないことよ。こういう情けない息子ならぎゃんぎゃん言いたくもなるものか、とあれこれ考えているうちに、意外とスムーズに呼び込まれた。といっても一時間以上は経っている。

 店の中は、いわゆる蕎麦屋という風情はなく、新興住宅地にありそうなカフェレストランないしはやや気取った居酒屋というところ。出来ます物はもりのみ。蕎麦掻きもなければビールもない。綺翁さんケイコさん鯨馬もそれぞれ二枚ずつ頼む。

 蕎麦が来た(鴎外風)。

 二八蕎麦らしくて色はやや白め。もっともこちらは熱心な十割信者ではないからそれはよい。それよりも蕎麦の太さが意外だった。「藪」や「更科」系統の細さが標準なのだろうと思い込んでいたのかもしれない。そしてゆで加減も若干固め。

 これを要するに、つるつるっと噛まずに呑み込むことができない(わけではないが、それではむせてしまう)仕組みになっている。二三回噛むと、確かに蕎麦の角の歯ごたえと、蕎麦の香りを楽しめるな、と気づいたのはすでに二枚目に入ったところ。大根おろし・山葵もいいものを使っているとは思うが、これはつゆに入れないほうがいい。むろん蕎麦の香りとのどごしを堪能するためであるが、なにより薬味を必要としないくらいこのつゆが旨かったのだ。おそらくいわゆる江戸風の蕎麦よりも甘みは殺してある。色も薄い。しかしちょっぴり含んだだけで、旨味がずいぶん「のびる」(これは蕎麦湯で割ったときに一層はっきりした)。鰹節も、ずいぶんいいのを吟味しているのだと思う。場所は、まあ仕方ないとして、この量(巷の蕎麦屋はなんであんなにちょっぴりしか盛ってないのか)で七五〇円はいかにも安い。

 総括して言えば、怖れていた蕎麦スノッブ臭が店側にも客側にも無くて良かった。高橋さんて人、ほんとにまじめで純粋な方なんでしょうな。

 もっとも、普段喰うには旧に依って酒肴を置いた店を選ぶ。ま、行こうったって行ける場所ではありませんがね。

 帰路、ここでも綺翁さんがホスピタリティを発揮してくださって、吹屋の町並み見物に寄り道。左右対称に作られた小学校はじめ、いい風情の建物が多く、しかも観光客が少なくて良かったが、ここで面白かったのは吹屋いちばんという豪家で見た主人夫婦の「寝室」。なぜか床を高く、天井を低く作ってあってしかも板張りのため、なんとも言えず淫猥な空気が充ち満ちている。当方、こういう地方の古い民家を訪れる時に楽しみなのは女中部屋を見ることなのだが(うっしっし)、それに通じるような暗さといやらしさである。綺翁さんいわく、「こりゃ寝室というより交尾部屋だな」。

 わしもそう思う。

 これと同じ純封建ロマン的・マルクス主義的農民怨恨史観おもしろさを満喫できたのは、吹屋の町から少し車で行ったところの銅の坑道跡。いやじつに陰惨でおどろおどろしく、こーゆーものでもうけていた住友家などの豪商=のちの財閥がいかに慧敏かつ悪辣だったか、よくわかる。小説にしたらさぞ読みでのある作物になるだろうな。

 忘れないうちにあと一つ、初日に寄った竹原の町、ここは頼山陽一族の出身地ということだけでも、当方には興味ぶかかったのですが、ここの竹鶴酒造で買った生酛純米というやつが、八岐大蛇でも盛り殺せそうな強烈な味わいで、大変よろしかったことを申し添えておきます。


広島の山奥に突如奈良の古寺が。
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