師匠の喜寿祝い

 なーんて。こうして無事喜寿会の記事を書いてるのだから、間に合ったに決まっているのですが。

 幹事(複数)は、受付が始まる一時間前の十時半には会場に着くことになっていた。「そんなにすることないんちゃうの」と思っていたのが大間違い。弟子たちが巻いた歌仙(連句)を会の途中でご披露する予定で、できあがったものをパワーポイントで編集していたのだが、USBメモリに入れて持って行ったところ、なんと会場のPC(かなり古い)では最新のPPファイルを読み込めないことが発覚。結局ワープロで開いたベタテキストを、古いヴァージョンのPPに直接打ち込んでいくことにしたのだ。なんとか間に合ったものの、いやあ焦ったのなんのって。

 実を言うとこの歌仙自体からして大難産だったのである。参会者の半数が連句初体験の上、ぎりぎりの日程で連絡が取れなかったり(たとえば週末だと遊びに出てこちらの連絡メイルを見てくれない)、中には急に辞退を申し出るヒトもいたりして、まあ大変でした。とはいえさすがに国文科の面々。出された付け句は、未経験者とは思えない堂に入ったものが多かった。

 当日は一句ずつに僭越ながら「宗匠」のコメントを付しつつ紹介していった。師匠ご夫妻も楽しんでくれたように思う。苦労した甲斐があった。

 奥様のお心づくしによる二次会の後、普段なかなか会えない同士ばかりなので、当方くらいの年格好の連中が残って三次会という名の同窓会。店はこれまた、皆学生時分にしばしばとぐろを巻いていた焼き鳥屋。

 この同窓会も愉快だったし、何より師匠・奥様のお元気な姿を拝見出来たのはなにより嬉しい。嬉しいのだが、こういう、人が集まる場に出るとなんだか自分がものすごく場違いな存在であることをものすごく感じてしまう。同年代の青春をともにした(恥ずかしいことばだが)ホントに気の置けない連中といてもそうなのである。子どもの頃からそういう傾向はあったけれど、ここ二三年はとみにその傾向が強くなってきた。

 これが詩人や英雄たる資質を持った人間なら「わしがそぐわない世界の方がおかしいのじゃ」と思えるのだろうが、当方ごとき、小心翼翼たる俗物は、反対に「いて済みません」と思ってしまう。なんだか大嫌いな某小説家の「名」(迷)せりふみたいだが、衒気紛々たる居直り的卑下慢とは違って、こちらはもっとあてどのない道をどこまでもはぐれていくような頼りない(情けない)感覚なのである。

 ともあれ会翌日の日曜は、一歩もウチから出ず、無いことに店屋物なぞ頼んで昼間っからビールをかっくらい、思う存分自堕落を満喫したことでありました。
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