江戸のゴシップ〜酒田・鶴岡旅日記(三)〜

 酒田三日目。昨日の轍を踏むまじ、と朝食は軽めにおさえる。でもやっぱり味噌汁は二杯飲んでしまった。このいげしという海藻、自分用に買って帰ろうっと。

 まず向かったのは駅からすぐの本間美術館。「美術館の動物たち」という展覧。動物の絵は大好きなので、嬉しい。開館すぐということで他の客もおらず、ゆっくり見て回ることが出来た。美術館の性格からして荘内の地方画家の絵が中心かと思っていたけれど、蘇我蕭白・長沢蘆雪・伊藤若冲といったいわゆる「奇想の画家」や、古い狩野派の出品が多かった。もっともこちらはどちらの絵の流儀を好まない。むしろ、森徹山や岡本秋暉といったマイナーな絵師たちの画幅のほうを面白く見物できた。徹山「狸」図の不逞な目つきがよい。画賛には案の定というか、例の八畳敷きをふまえたけしからぬ狂歌が添えてある(たいして上手くない)。土屋安親の伊勢海老の自在置物も面白い。自在置物というのは、海老なら海老の関節などが動かせるように作った置物。超合金やフィギュアというところか。近年評価の高い明治工芸の魁といってもいいが、やはり江戸時代の作らしくどこかのんびりした趣がある分、こちらのほうが見ていて楽しい。他にも大画面の「虎図」(岸駒)や、近代では棟方志功の「御犇牛図」など。バッタを描いた鉄斎の扇面図はもうけもの。

 しかしいちばんの見ものは松森胤保著『両羽博物図譜』。 松森胤保は庄内藩士。文政八年生、薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争にも参加して、維新後は県会議員。没年明治二十五年没、享年六十八歳(国史大辞典による)。この、幕末明治の典型的な生き方をした(元?)武士はしかし、一方で細密な観察と描画をもってなる大博物学者でもあった。酒田では「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれているらしい。ま、そこまではいかないでしょうけど、この手彩による『両羽博物図譜』、かの牧野富太郎が感嘆しただけのことはある。ホウボウの胸鰭の瑠璃いろなど、真に迫ってしかもうつくしい。こういうものを一日眺めてたらさぞかし気分いいだろうなあ、と考えているうちにぱっと一つのアイデアがひらめく。

 本間家第三代当主光丘は種々の社会事業を興したことでも有名だが、生前修学のための寺院建立を願い出ていたが果たされず、結局光丘の子孫にあたる八代・光弥が遺志を継いで先祖伝来の和漢の蔵書二万冊を中心に文庫を設立したのが大正十四年のこと。現在は酒田市立図書館光丘文庫として、もっぱら研究・調査のために公開されている。

 どうせ市内の見所はあらかた回ったあとのこと、もとより読書は三度の飯より好き(三度の酒となら迷うかもしれない)。夕方の空港行きシャトルバスまで、ここで古書をひもときつつ時間を潰そうというのである。

 ホテルで借りた自転車を駆って文庫まで向かう。といっても小ぢんまりした町のこと、あっという間に到着する。まずは文庫がある岡のすぐ裏手の下日枝神社に参詣してから文庫に。いかにも大正という感じ、板張り廊下のどこを歩いてもぎいぎい音が鳴るような建物であった。「あの、こちらの蔵書を拝見したいのですが」。

 ああどうぞ、と返事は至ってざっくばらんなものである。保存のため照明をおとした展示室で江戸期の仏教書を見ていると、奇妙にあくどい如来菩薩の顔貌と部屋の薄暗さがあいまってなんだか夢野久作横溝正史の世界に迷い込んだみたい。

 当地荘内は丸谷・藤沢という小説家以外にも、石原莞爾大川周明という特異な軍人・思想家を産出している。光丘文庫には二人の旧蔵書も収められる。じっくり見ていけば面白いものも見つかるのだろうが、明治・大正出版のナポレオンの伝記やアジア研究書ではどうも風雅な雰囲気が出てこない。素通りして光丘文庫蔵書目録をじっくり見ていくことにする。美術館に隣接する本間家別邸の二階座敷には江戸の儒者亀田鵬斎の山水が掛けてあったので、ひょっとしたら酒田を訪れていたのかと思って鵬斎関連の本を探してみたけど(鵬斎の大ファンなのである)、当方の調べでは見つからず。

 資料の書誌情報を調べに来てるわけではないから、版本の刷りなどを見ても仕方がない。というわけで、池田玄斎なる庄内藩儒者国学者?)の膨大な随筆(むろんすべて自筆本)の中から面白そうな箇条を拾い読みしていくことになる。といってもふつうの図書館ではないから、目録の小見出しで見当を付けて、その条が含まれる巻を出してきてもらうのである。

 もちろん面白そうなところを片端から読んでいったら何日あっても切りがないので、ゴシップ的記事(徂徠門下と縣居門下(つまり賀茂真淵の弟子筋)との比較とか)を中心にぽつぽつと見ていく。前からこちらが興味を持っていた中野碩翁なる江戸後期の旗本のゴシップがじつに興味深い。自分の娘(養女)が将軍家斉の寵愛を受けたことから権勢をふるい、諸侯より賄賂を取りまくったというオッサンである。ま、ありがちな小悪人というところながら、今みたいに情報機器が発展しなかった頃のこと、どんどん噂に尾ひれがついていくのが面白いのである。原文を引いてもご退屈でしょうからやめておきますが、自邸をおとずれた侍に惜しげもなく八百善(当時の超高級料亭)の「切手」(商品券)をくれてやったり、とある不首尾により「断勢」(チョン切ってしまったのである)したらしいとか(むひひ)、実にヘンテコなエピソードが多くて愉快に時間を過ごすことができた。これで酒を呑みながらだとなおいいんですがね(もちろんそんなことをしてはいけません)。

 あっという間に昼時分。昼食はどこで取るか考えていなかったので、読みにくいくずし字をじっとたどっていい加減疲れていたこともあり、文庫を出たすぐにある鰻やで昼飯。地酒をぬる燗でやりながら、今度ここに来るときには、「何か恐ろしく優しいとでも形容する他ない、はっきりした味」の車海老の刺身だとか、最上川の取れ立ての鮭だとか、甘鯛の味噌漬けだとか、「支那料理の最も人工的な味に匹敵する」辛子豆腐だとか、「飛島の鯛の刺身に庄内納豆をまぶしたもの」だとか、「鮑のわただけの吸物」(以上すべて吉田健一「山海の味・酒田」から)だとかを食べなきゃ、と考えていた。もっともヨシケンさんが鮑の吸物について「こっちの舌をそこまで訓練するのにここの板前さんはこの二日間、随分と苦労したに違いない」と書いている以上、少なくとも三日三晩は食べ通し呑み通しをつとめあげる覚悟がいるけれど(むろん辞するところにあらず)。


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