くまさんに出会った

 元々好物であるのと、強迫的な性分もあるのかもしれない(高所恐怖症のくせに、というかそれゆえに高い所を見ると無性に惹きつけられてしまう)、それに何より旬で安くまた旨い、といういろいろな原因が重なって、最近は秋刀魚ばかり食べている。怒り肩風にアタマのすぐ後ろが盛り上がった「特大」サイズのたっぷり脂がのったやつでも一尾二百円しないのだから、料理屋では出せないし、また千円近い値段で綺麗に盛りつけられた秋刀魚の刺身なんぞを食わされても「たかが秋刀魚にそこまで金が出せるか」とつい思ってしまったりして、結局は家で料ることになる。一人きりでの秋刀魚まつり。

 オコゼやカレイ、はたまた小ぶりのハゼなんかと違って、卸すのになんの手間もワザも要りはしないのだ。薄ーく塩を当てたあとでさっと酢にくぐらせて綺麗にそぎ切りにしたやつに、胡瓜・茗荷の細打ち、すり生姜、山葵、酢橘と薬味をせいだい驕ったところで、パスタを茹でるよりはやく仕上がる。さばくときに外しておいたハラワタも裏ごしして醤油と合わせておく。鮑の肝醤油や鮟鱇のとも酢和えよりあっさりしてる気がする。むろんこういう安い食材こそ細かいところで手を抜いては台無しなので、小骨も丁寧にすき取り、盛りつける皿も冷たくしておく。お造りなのにビールでも不思議といけるのは、やはりあぶらの個性が強いからか。とはいえ盛夏でもないから、缶ビールは一本でよしてさっさと冷酒に切り替える。

 銀色に輝く肉片を賞味しているうちに、グリルで秋刀魚が焼き上がる。堅炭のよくいこったのでボウボウと、というわけにはゆかないのが棟割長屋(マンションのことである)住まいの悲しいところ。せめてグリルに落ちたあぶらに火が付いて煙が立つくらいには強火で焼きたい。こうなるとあとの掃除がたいへんなのだが、ものを美味しく食べようとするのにそれしきの手間を惜しんではいかんわな。

 塩焼きはむろんそめおろしで。造りとは違って、じゅうじゅうあぶらが滲み出てるほうには、酢橘の繊細な香りではやや甘く感じられるので、ちょっと贅沢に出始めたばかりの青柚の汁をしぼる。和歌山出身の詩人が蜜柑の酢を滴らせたのはなるほど正解だった。

 まつりと大層に呼んでみたものの、実は造りと塩焼き、これで料理の手は尽きているのである。辰巳浜子さんがいみじくもいったとり、茹でて丸めて蒸して・・・なんて細工はまあまあ止めておいた方がいいのだろう。明日の朝飯のおかずとしてかばやき(正確にはタレ煮か)を作り置いたあとは、ひたすらこの二者で食う、そして呑む。

 といっても三尾と半までいったところで急に満腹。なんといっても脂が強いのだ。後は濃く引いた出汁に三州味噌を辛い目に溶いた味噌汁(実は焼き茄子と茗荷)でおつもりとする。ま、実際の所はここから風呂に入って三宮に出かけたのだが。

 この日の酒の対手、というだけではないけど、最近愉しんだ本。

吉村昭羆嵐』…我が国最悪の獣害事件である(らしい)三毛別羆事件のルポ。吉村昭が書くのだから無論こうでなくてはならないのだが、綿密きわまる調査の上に簡潔で勁い文章で事件がたどられてゆくので、現場となった開拓村の地理地形・人物の動きがありありと浮かんでくる。そして文字通りに戦慄する、つまりふるえおののく。読中二度ほど、本当に首筋の後ろの毛が逆立った。読み終えてからインターネットでこの時に撮影されたという熊の写真、および事件現場に設置された熊の模型(実物大)の大きさを見てもう一度震え上がる。
 なんでこの小説に行き着いたかというと、少し前にミシェル・パストゥローの大著『熊の歴史』を読んでいたせいだ。あ、ちなみにこのフランスの歴史家、贔屓にしてます。切り口が斬新だし、語り口もまた巧妙を極めている。『ヨーロッパの色彩の歴史』がとっつきやすいと思うけど、代表的著述である『ヨーロッパ中世象徴史』だって、素人でも充分に愉しめる。
 話を『熊の歴史』に戻します。これはヨーロッパもおける熊の表象の変遷を描いた本で、かといってポストモダニズムの例によって例の如きエテ公がらっきょの皮を剥くような表象/虚構論議には深入りせず、膨大な史料を手際よく取りさばいて、ヨーロッパ文明においてこの森林の王のが占めていた(あるいはむしろ締め出された)位置を鮮やかに浮かび上がらせる。骨格は「王としての熊」という元型的イメージが、キリスト教によって徹底的に抑圧排除されていったというものである。そういえば、むこうの王侯貴族の紋章には獅子豹はいうまでもなく猪なんかもモチーフとされているのに、熊はあんまり見かけないような気がする。
 これは考えてみると異様なことである。カトリック教会が、キリスト教以前の古い信仰を自らの教義の中にデモノロジーとして取り込んでいったことはこれまでに縷々語られている。動物でも同じことで、「神秘の子羊」(これはイエスのこと)到来の前に勢威を張っていた獣はことごとく、悪魔の化身として指弾されていったのだった。狼がその典型だが猪も散々な扱いを受けている。その中で熊は、むろん言及が全くないわけではないにしても、あれだけ広大な森林に覆われていた地域の代表的な高位捕食者としては不審なくらいに無視されているのである。
 先史時代における熊信仰の有無をめぐって、激烈な論争が考古学者のあいだに繰り広げられたことをパストゥローは本書のはじめの章で述べている。そこまで躍起になって否定(抹殺?)しようとする現代の学者のこだわり/こわばりから、逆に古代的=異教的ヨーロッパにおける熊信仰の広汎さと強固さとが陰画のように浮かび上がってくるではないか。
 あちこちにはっとさせられるような知見が述べられているが、中でもとくに感心というか、いっそ驚嘆させられたエピソードをひとつ。それだけ抜き出して見るとまことに奇っ怪不可思議な話ながら、「熊信仰」という光源から照らせばその意味が明瞭すぎるくらいに明瞭になってくるのだ。

 死の床にあったアーサー王を騎士の一人が見舞った。起き上がった王はやおら騎士をその胸にかき抱くと、そのまま窒息させて殺してしまった。これはどう見ても「ベア・ハッグ」の構図である、と歴史家は指摘する。すなわち《王としての熊》に対する《熊としての王》。ヨーロッパ精神史の知られざるお宝がここらあたりにうなるほど眠っているようである。いや、実にコーフンさせられた一冊ではありました。

塩見鮮一郎『江戸の貧民』…名著『乞胸』の著者による平易な入門書。ふつうは「江戸の賤民」と書くところをあえて「貧民」と言うのが著者の姿勢。弾左衛門(「穢多」「長吏」)と車善七(「非人」)との違いなど、ほとんどの人は教科書的な知識の域を出ないであろうことを平明に説いてくれる。
辻惟雄『奇想の発見 ある美術史家の回想』…これもいうまでもない名著『奇想の系譜』で江戸絵画のイメージを文字通りにひっくり返してしまった美術史家の自伝。もう少し書き方に工夫があったらと惜しまれるが、闊達豪放な人柄が痛快である。
マーク・トウェイン『ジム・スマイリーの跳び蛙』…編訳者の柴田元幸さんは「人それぞれのトウェインがあっていい」という思いから、この法螺話(いっそ与太話というべきか)ばかり集めた瀟洒な一冊を作った。『ハックルベリー』(たしかに名作)や『トムソーヤー』ばかりではないのだ。そして、この本のような行き方だけでもなく、柴田さんがいうとおりに『地球からの手紙』や『アダムとイヴの日記』を中心に据えたトウェイン論が出てもいいのである(だいぶ野暮ったくはなりそうだけど)。

熊の歴史 (単行本)

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羆嵐 (新潮文庫)

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