双魚書房通信・二〇一四年回顧(2)

サム・リース『レトリックの話 話のレトリック―アリストテレス修辞学から大統領スピーチまで』(松下祥子訳、論創社
 それはレトリックだ、という悪口がある。内容の伴わない空疎な飾り。ことほどさようにレトリックは貶められている・・・と考えるのは早計で、ヨーロッパではソクラテスの昔から連綿としてレトリックが教育の中心となってきた伝統があった。たとえばフランスの公教育からレトリックが追放されたのはようやく十九世紀になってのこと(バルトも修辞学の本を一冊書いている)。インターネットとSNSの現代ではさすがにこの過去の亡霊のような学問=技芸(アルス)は地を払ったのかというと、そうでもない。現に、あのアメリカ、良く言えば率直、はっきり言うなら露骨と不躾が美徳であるような二十一世紀帝国においても、どっこい修辞学の伝統は根を張っている、どころか大統領選にさえ強い影響を及ぼしている、のであるらしい。

 たしかに、ろくすっぽ英語を話せない人間の耳にすらバラク・オバマの演説がエローカンス(雄弁)の効果を目一杯に生かした、grand styleによるものであることはなんとなく感じていたけれど(キング牧師を彷彿とさせる、旧約の預言者的身振り)、著者はその印象のよってきたるところを、古来のレトリックの概念・用語を使って鮮やかに分析してみせる。

 アリストテレスの『レトリーケー』(岩波文庫の訳題だと『弁論術』)からキケロ、クィンティリアヌスといった超弩級の古典を範型にレトリックの諸相を解説した本、ではあっても、だから敬して遠ざけておくのはもったいない。情報化が究極までおしすすめられた大衆文明の今こそ、レトリックを使いこなす、そしてもっと肝要なのは他人のレトリックを精緻に分析できる能力が必要とされているのである。

 感心したのは、イギリスの政治家のスピーチの実例。なるほど欽定訳聖書シェイクスピアからの引用を取り去ったら演説が半分になってしまうと言われる、そしてまた議会政治(民主主義とはつまるところ議会での論戦ではないか?)が世界で初めて実現した国柄だけのことはある。

 振り返ってみるに我が国は・・・という論法はあまり趣味のよいものではないが、それにしても現総理大臣の弁舌のなんと空疎なことよ。レトリックは空疎な美辞だ、という以前に、それはホントに何もない「真空」でしかないのだから。おそらく個人的資質だけの問題ではない。「ぶっつぶす」の一言で与党を大勝利に導いた元首相の演説(?)、あれはむしろ反レトリックというべきものだろう。念のため言い添えておくが、古典レトリックにおいては、譬喩や誇張法といったいわゆる文彩よりも、議論の発想や文章の配置(すなわち論理のことである)のほうが重視されていた。ライバル(元ライバル?)たる民主党にしても同じこと。鳩山某のあの口調を思い出して背筋が寒くならないほど言語感覚の鈍い人間が、少なくとも日本語を使える人間の中にいるだろうか。

 豊葦原瑞穂国の言霊は皆泣イテオルゾ。

レトリックの話 話のレトリック―アリストテレス修辞学から大統領スピーチまで

レトリックの話 話のレトリック―アリストテレス修辞学から大統領スピーチまで

 【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村