ニライカナイ

 というわけで、なんと今頃になって池上永一テンペスト』を読んでみた(我ながら鈍なことである)。

 いやー読んでよかったな。久々に「巻措く能はざる」読書体験をしました。『シャングリ・ラ』だけでこの小説家の評価を下さなくてよかった。真牛という、国王の姉で宮中祭祀の巫女兼生き神という女性の強烈な個性と浮沈もただならぬ人生がじつに面白い。あと、主人公が知性を以て運命に立ち向かうという設定もよい。これは『シャングリ・ラ』の女性主人公にも共通するのだけれど、後者の場合、文字通り超人的な身体能力との抱き合わせになってるせいで、もひとつ現実感を欠く憾みがあった。それに対し、本作の舞台は科試が国家システムのなかにがっちりと組み込まれている琉球王国の宮廷であり、なおかつ清・薩摩による二重支配が、清のアヘン戦争敗北と列強の日本(ヤマト)接近によって大きく揺れ動くという時期を扱っているだけに、ヒロイン・真鶴が儒学的教養及び政策立案・外交交渉能力で栄達を遂げるという設定が物語の運びと有機的に結びついているのだ。

 もっとも、多少の瑕疵はあるもので(シェイクスピアにだってまずいなあという所はある)、これも『シャングリ・ラ』と通ずる唐突なる喜劇的場面の闖入。書き方がなんだか冗談っぽいので笑っていいのかどうか戸惑ってしまう。ここらへん、一見そうは見えなくてもやっぱりポストモダン世代の小説なんだな、と思う。

 もう一つは、かなりこちらの趣味嗜好からする批評なのだが、近代化以前の琉球王国の描写が物足りない。臣民の生活や風土のうつくしさについてふれることが多くなく、あっても文章の生彩を欠く。したたるような幸福感を喚起した上だったら、王国の崩壊はもっと切実に胸をえぐるように感じられていたはずだ。注して言えば、「幸福感」ということばで当方が思い浮かべている作品はたとえば石牟礼道子の『椿の海の記』であり、またたとえば古波蔵保好の『沖縄物語』である。

 もっとも、明治政府による「処分」とそれに続く強権的支配と、言うまでもない国内唯一の地上戦の悲惨はすべて《ヤマト》がもたらした災禍であり、当方より四才だけ上という世代の池上氏が「そんな楽園、知らないね」と冷ややかなメッセージを発している、ともとれなくはないのだが。

 でもやっぱり、神話的な王土の(もちろんそれは作家的想像力の裡にのみ存在するものであってよいのだ)黄金(きん)の描写が欲しかったなあ。

 このささやか―だが決定的な―不満を解消するには、むろんさっそく航空券をネットで予約し、首里城を見に行くという手もある。

 話は唐突に変わるようですが、『テンペスト』を読んだ晩、今季初めてとなる若竹煮を作った。上等の昆布、上等の鰹、そして上等の酒をふんだんに使って炊いた一鉢は我ながら傑作であった(筍は噛みしめると昆布出汁の香りが立つように、逆に若布は鰹の香りを充分に含ませるように仕上げる。もちろん上にはまだ柔らかい木の芽をたっぷりのせて)。

 市場では、筍の傍にはやくも豌豆と蚕豆が売ってあった。

 どちらも大が付く好物なのだが、両方とも買わず。このときの心理というほどでもないかもしれない心の一瞬の翳り(もしくはゆらぎ)と、沖縄行きの航空券を買うことに対するためらいとに、自分でもうまく説明できない微妙なつながりがあるのですが、分かってもらえるでしょうか。
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