Intermezzo

 ミホミュージアムで開催中の『若冲と蕪村』展、なかなかの充実ぶり。来週の日曜日までなので、ヨーロッパ日記は一時中断して見物報告しておきます。

 JR石山駅からバスで50分。対向車とすれ違うのもやっとという山道をくぐり抜けて行く。到着すると、広大な駐車場は、第二・第三(だったかな?)までびっしり。こんなに蕪村ファンがおったんかいな・・・と不審に思ったが建物を見て納得。レセプション棟から十分足らず歩いて展示棟にたどり着くという建て方をしており、この途中のゆるやかな坂道も、トンネルも、トンネルを抜けたところに掛かる橋もどーんと作ってあって、しかし悪趣味なところはなく、気がせいせいする。ミュゼそのものを目当てに来る客も多いのだろう。

 展示もまた鷹揚なもので、建物入り口で券を出したあとは特別展・常設展をいくらでも、つまりいったん会場から出てもまた入れるという仕組み。えらい賑わいではあったが、このやり方のためか、みなのんびり回っている感じなので落ち着いて見物出来た。

 さて肝心の作品のほう。会場を入ってすぐのところに『平安人物志』という江戸時代の版本を出している。まあ、紳士録といったところですかな。「平安」とは京の都のこと。つまり、単に二人の画を集めましたというのではなく、同時代の京都の学問・文学・芸術(むかしはこれが一体であった)の交遊圏、ちょっと気取って形容するなら藝文サロンの空気をも伝えるのがこの展覧会のコンセプトであったと思われる。いまだ近代を知らない江戸の、特に文人趣味が風靡した中期(明和から天明の頃)の画を、セザンヌカンディンスキーを見るように見るのが、つまり純粋に造形的な視点からのみ鑑賞しようとするのが土台むちゃな話なので、これは彼らが生きた世界を具体的に伝えようとしている点、たいへん結構な趣向である。

 ただですね、蕪村と「奇想の画家」として再評価されてからいっかな人気のおとろえない若冲、それに『雨月』の上田秋成あたりは、大名題クラスとしても、その他の人物についてはまだまだ名前すら知られていないために、見物していてももひとつおもしろさが感得しにくいのではないかと、ちょっと心配になったのも事実である。

 たとえば蕪村と柳沢淇園との合筆「王子猷図」。淇園と聞いて「ああ、例の遊女と素人女の比較論をぶった閑人か」と想い出すのはかなり変わった読書趣味の持ち主(ないしは淇園なみの閑人)だけだろうし、若冲の描いた売茶翁にモデルが自題を書いたその一幅を木村蒹葭堂が模写するなんて、なんとも豪奢な取り合わせだと興奮する人が多いとは到底思えない。個人的には長澤蘆雪の画に柴野栗山が画賛の筆をとったものなど、蘆雪の絵はあまり好まないにも関わらず、栗山のようなお堅いイメージの儒者(例の松平定信による寛政改革では、異学の禁で辣腕をふるった)の別の一面が見られたようで、じつに興味深かったけれど、ふつうの人には単なる墨絵にむつかしい漢文が書きつけているくらいにしか見えなかったに違いない。

 自慢にあらず。大学では江戸の儒学を勉強していたので、これくらいは分かってないと大恥、というだけのこと。それにしても、いくらでも文化史的珍品(今から見てそう見えるだけなのですが)が転がってる時代なのに、まだまだ啓蒙が足りないんだよなあ。近世文学・近世美術の研究者の方々はいっそう奮起していただかねばならない。

 なんだか話が逸れた。気に入った作品をいくつか。諸家寄合椀(と膳)。名前通り当時の名士が画を描き賛したもの。もちろん贅沢きわまる趣向だが、これはまあ出来ばえというよりこちらが食いしん坊なので食器とくると点が甘くなってるだけかもしれない。蕪村・応挙合筆「蟹蛙図」。飄逸で可愛い。蕪村「王子猷訪戴安道図」。小ぶりだが構図も引き締まり気合いが充実してる。「夜色樓台図」以外ではこれがいちばん気に入った。蕪村「若竹図」。たしか石川淳が句の仮名書きの姿を推していたはず。会場内にしつらえた小座敷の床の間に掛けて見せるという趣向も心憎い(遊女を詠んだ句を掛けるのはいかがなものかとも思うけど)。蕪村「火桶炭団を」自画賛。蕪村が仲間と円座になって百物語(怪談を一人ずつ語ってゆくという、夜咄の座興)をしている、そのちょっと離れたところで火桶に目鼻が出来た(つまり化けた)のが蕪村たちをちらっと見やっているという、洒落た構成。

 お分かりでしょうが、若冲の画は鯨馬、得手ではない。それでも『乗興舟』の端正な叙情や、白象と鯨とを左右にあしらった屏風の人を食ったユーモアとデフォルメの放胆さには充分愉しませてもらった。

 しかしなんといっても「夜色樓台図」。若冲のアクのつよい画面と並べたら地味な画だから、あまり人だかりしていないのを幸いに、正面から斜から、近づいて遠ざかって、眼鏡をかけたり外したりして存分に堪能する。天明の京を描いてそこにユートピアあるいは壺中天が現出している。絵でありかつ詩でもあるという一幅。しかしこの作については、あまりにも名高い傑作でもあり、夷斎石川淳が比類無い散文で叙べ尽くしているせいもあって、これ以上の描写は無意味に似る(石川淳の口吻にすでに伝染している)。どうかよろしく『南畫大體』の行文に就いて見られたい。

 見物料はわずかに千百円。ミホさん金あるんだなあ。往復のバス代を払っても、「夜色楼台図」一作で充分もとが取れますよ。

 石山駅に戻り、てくてく歩いて石山寺へ参詣。寺号の由来となった硅灰石(花崗岩石灰岩がぶつかって生成した岩石であるという。なんだかよく分からぬ)の文字通り重畳する眺めも多宝塔の優美な曲線も良かったが、寺域のいちばん奥にある八大竜王の祠がもっとも感慨深かった。さほど深くない池の真ん中に祠があり、池の周りを巨木が囲んでいて、周囲はあちこちから水が滲み出し、滴り、小流を為して音を立てる。なんの根拠も無いけれど、こここそが寺の礎となった原始の霊場なのではないか。そして、「森のヨーロッパ」に対して、やはり日本の自然の原型は山と水なんだな、とも実感した。

 朝から何も口にしていなかったので、夕方には倒れそうなほど腹が空いている。「明治初期に近江牛の名を全国に知らしめた」というとある店ですき焼きを食べに入った(ビフテキだとワインを一本空けちゃいそうだからすき焼きにしたのである)。味は、けなすほどのものではないけれど、サーヴィスがひどい。慇懃にして動作のとろくさい若者が初めの肉一枚を焼いてくれたのはいいとして、溶き卵に漬けたあと、そのまま野菜を煮始めるものだから、こちらが口にしたときには肉は生ぬるくなってしまっていた(向こうの手許に鉢が引き寄せられていたので取れなかったのだ)。まだ日本酒飲んでる時に「シャーベットお持ちしましょうか」、だしなあ。そのくせシャーベット頼んだらなかなか出てこないし。隣の卓にいた中年夫婦とその老母は、母親が頼んだカレーライスを食べ終わる直前に夫婦のハンバーグを持ってこられて、苦笑していた。老舗の看板ががっくり垂れ下がった按配であった。それにしても手のひら大の肉四枚であの値段ときいたら、イタリア人もドイツ人も目を回すだろうなあ。

 腹立たしいというよりも釈然としない気分を持ち帰りたくなかったので、京阪の京津線〜地下鉄で三条まで出て、木屋町まで歩き、「サンボア」で口直し。ダンディー老マスターもイケメン若マスターも変わらず(まあ、たった一月前に行ったばかりだが)。途中、京都人の、大阪人に対する嫌悪感がロコツに見えた時があって面白かった。鯨馬は生まれは大阪ながら、こーゆー時は調子よく神戸人になりきってしまうのである(この調子の良さが大阪人の証拠)。

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